「こいつはナーメテーターの仕業じゃないか……」。
そうテレビの前でつぶやいてしまったのは、『ガールズ&パンツァー 劇場版』を見終えたときのことであった。
「ナーメテーター」とは、人気ラジオ番組『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(略称「タマフル」)内の、リスナー参加型企画のこと。
たとえば『るろうに剣心』が映画化と聞けば、
「はあ? どうせ漫画原作やいうことで、作る方もハナから、やっつけ仕事のつもりやろ?」
『ドラゴンボール』だ『キン肉マン』だ『北斗の拳』だな《ジャンプ黄金期世代》としては、まずはそんな決めつけから入ることとなる。
「そもそも最近の邦画なんて、テレビドラマに毛ぇ生えたようなもんやし」
わかりやすい偏見に突入し、しまいには
「もしおもしろかったら、落語みたいに死人背負って、カンカン踊りでも踊ったるわ!」
なんてえらそうにタンカ切って、いざ観てみたら、
「アクションとか、悪くないやん……」
デスダンスに興じながら、そう己の不明を恥じたりするという、
「完全になめてたら実は……」
な告白するというものだ。
まあ、恥ずかしいといえば恥ずかしいが、偏見に邪魔されて、接することのなかったジャンルの楽しさを知れたという意味では、決して悪いことだけではないこのナーメテーター。
今回まさに「ヤツが帰ってきた……」と呆然となったのが、『ガルパン劇場版』だ。
私はもともとアニメにうとく、美少女文化や声優にも興味がない。
なもんで、この映画もサクッとスルーするはずだったが、アニメファンである友人シブタニ君から、
「そんなシャロン君でも、このガルパンはいけるはず。絶対ハマるから、だまされたと思って」
なんて激プッシュされたので、しぶしぶ観てみることに。
大丈夫やろうなあ。私は「萌え」には素人なのだ。
それに、ガルパンも特撮はええけどドラマ部分がスカタンって聞いたことあるし……。
そりゃ、二次元美少女がかわいいのはわかるけど、ああいうキャラが出ると照れくさくて、内容が頭に入ってけえへんねんなあ。
なんて、完全に決めつけて油断しまくっていたが、開始早々に飛び起きて、正座で鑑賞する羽目になった。
おおおおお! えー!? マジでか?
これってすごくない?
呆然としながら、さらに前半の市街戦を鑑賞していて、完全にシャッポを脱いだのである。
なんやこれー! すんげー! おんもしれー!
まさにこの瞬間、あのテーマソングが流れてきましたね。
ダダンダッダダン、ダダンダッダダン。ナーメテーター出現!
いやマジで、完全にナメてました。もう、そっからは釘付けです。
なにがすごいって、アクションだから言葉にするのは難しんだけど、とにかく戦車がド迫力。
戦車、戦車、また戦車。
それがもうお腹いっぱい堪能できる。ものすごい質と量。
これだけで、もう楽しいんだなあ。
私はミリタリーマニアではないけど、世界史は好きである。
映画ファンだから戦争映画の影響で、一応各国の戦車は一通り、見れば名前くらいも、なんとなくわかる。
それが、実際の戦争ドキュメンタリーさながらに、動きまくる華やかさよ。
戦車の「重さ」と「意外な速さ」の表現なんかも、ちゃんとできてて、
「そうそう、『戦争のはらわた』のT―34って、そんな感じで障害物を乗り越えてた!」
なんて、もうホクホク顔で見られる。『パンツァーリート』とか、かかる曲もいちいち良い。
もう大迫力の戦車戦は、観ていて全然飽きない。
最初はノイズになるかもと懸念した女の子たちも、まあやはり、ちょっとこっぱずかしいけど、中身がそれを超えてくるから良し。
人気の軽駆逐戦車ヘッツァーは大活躍だし、カール自走臼砲は出て来るしと、もうサービス満点。
あと、「グスタフ」でも「ドーラ」でもなく「カール」というチョイスは、やっぱり『プラモ狂四郎』を意識しているのだろうか。
そんな、いい意味で裏切られたガルパン劇場版。
ミリタリーマニアも、私のようなライトな戦車映画ファンも、カーアクションとして見れば、たぶん普通に映画としても楽しめる、なかなかに完成度の高い作品でした。
いやあ、堪能しました。友人とワイワイ言いながら観ると、もっと楽しいかもしれない。
応援上映とかやってたら、ぜひ行きたいよ、マジで。
ブラピの『フューリー』で、
「本物のティーガーかよ、おお!」
とか興奮したり、宮崎駿は、
「千尋とかポニョとかどうでもいいから、『泥まみれの虎』を映画化してよ」
とか思ってたけど、ガルパン観て、
「もうこれでいいじゃん」
って気がしたなあ。すごいナーメテーターの出現でした。ありがとうございます。
前回(→こちら)に続いて、エーリヒ・ケストナーについて。
ケストナーはハッキリ言って「説教くさい」作家である。
だが、それをあまり、めんどくさく感じさせないのは、「ユーモア」と、その裏にある強靭な意志の力のおかげだ。
ケストナーが活躍した時代のドイツは、第一次大戦の敗北からヒトラー台頭期と重なる部分が多い。
NSDAP(ナチスの正式名称)が政権を取ったあと、トーマス・マンやシュテファン・ツヴァイクなど、多くの作家が亡命を余儀なくされる中、彼は頑として国内に残り続けた。
その理由は
「すべてを見届けるため」
ゴリゴリの反体制分子であるケストナーが、ヒトラー政権下で、追放も収容所送りも逃れていたのは、NSDAP側の
「多くの知識人はナチズムに批判的だが、こうして残っているものもいる」
という対外アピールのためで、お互いがそのカードをかけ引きに使っていたから(実際、ケストナーは外国の新聞で「ナチに転んだ」と揶揄されたこともある)。
でも、それにしたって、いつ風向きが変わればそこでおしまいかもしれず、まさにギリギリの綱渡りともいえる「国内亡命」だったのだ。
実際、ケストナーは何度も嫌がらせめいた家宅捜索や、逮捕の憂き目にあっており(悪名高い「焚書」でも本を焼かれている)、最後には親衛隊の、
「戦争に負ける腹いせに、虐殺してしまう人物リスト」
なる、とんでもないものに名前が載ってしまったと聞き、とうとうベルリンから脱出を決意。
映画の撮影スタッフにまぎれこんで、オーストリアの田舎であるマイヤーホーフェンにかくれるのだが、『ケストナーの終戦日記』ではそのときの潜伏生活が記されているのだ。
ケストナーの筆はこの極限状態でも冴えていた。
ときおり、ユーモラスな逸話などもまじえながらも、最期をむかえようとしている第三帝国を観察し、きびしく断罪していくこともある。
ケストナーはモラリストだが、単なるモラリストではない。
一寸先は闇も闇の恐ろしい時代に、それでも自ら信ずるところをつらぬき通した「ガチ」のモラリストである。
その姿勢のすさまじさもさることながら、そこで得たものを、下に声高に押しつけるのではないところ。
ユーモアとアクロバティックな筆さばきで、一貫して、重苦しくなく伝えようとしたこと。
自らの「はなれわざ」を、決して偉ぶらない。
そここそが、エーリヒ・ケストナーのすごみなのだ。
この日記の中で、もっとも印象的だったのは、祖国ドイツへの進言ともに語られた「連合国」への怒りだ。
原爆投下を受けて発した、本書の副題ともなっている
「1945年を銘記せよ」
という言葉とともに、ケストナーは「勝者」に警告する。
手元に本がないのでうろおぼえだが、だいたいこういった内容。
われわれは、おろかな戦争を起こして敗れた。
その罰は受けなければ、ならないだろう。
だが勝者諸君よ、あなたたちに、われわれを裁く権利はあるのか。
われわれが罪を犯したなら、あなたたちも同等の罪を犯していないと断言できるのか。
ケストナーは問う。
そうして最後に、こう締めくくるのだ。
「ドイツが裁かれる法廷では、連合国諸君、被告の席は君たちの分も空いている」。
13年間もナチスと、本当の至近距離で対峙していた彼がいうのだから、その説得力と重みはすさまじい。
あなたがたも同じだ、と。
第二外国語の選択はむずかしい。
というテーマで以前少し語ったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」。
前回までシュテファン・ツヴァイクについて語ったが(→こちら)、今回も、私をそんなマイナー街道へと導いた、罪深くもすばらしい作品の数々を紹介している。
エーリヒ・ケストナー『ケストナーの終戦日記』
ドイツ文学には昔からひとつ弱点があるといわれている。
それはフランツ・カフカのように「難解」なことでもトーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』のように、「重厚で長い」ということでもなく、
「ユーモアに秀でた作品が少ない」
基本、マジメなイメージのゲルマン民族。
加えて、そもそも寒くて暗い気候のところに、笑いを生む余裕が出てきにくいのか、ドイツの物語文化には「ユーモア」がないといわれがちだ。
たしかに古典では、レッシングの『ミンナ・フォン・バルンヘルム』なんかも、悪くはないけど、傑作というほどでもないかもしれない。
いわゆるコメディ的なものでなくとも、シリアスな中に、そこはかとなく「人間喜劇」をちりばめるところなどは、イギリスやフランスの諸作の方が、うまい気もしないでもない。
だがもちろん、われらがドイツ軍も「ほらふき男爵」ことミュンヒハウゼン。
オーストリアからはシュニッツラーの『輪舞』のような、軽妙な恋愛喜劇もあったりして、思ったほど堅物でもないところを見せている。
そんな少数精鋭(?)を誇る、我らドイツのユーモア師団だが、中でも世界的知名度の高さでは、エーリヒ・ケストナーの名が上がるのではあるまいか。
『ふたりのロッテ』
『エーミールと探偵たち』
『点子ちゃんとアントン』
など、楽しい児童文学で知られるケストナーだが、実のところ彼の持ち味は、骨太なモラリストであること。
ケストナーの作風はやや説教臭く、実際物語の合間合間に「教訓」みたいなコーナーを設けて、
「お母さんを大切にしましょう」
「友達は大事だよ」
「貧しい人には慈悲の心を忘れずに」
みたいなことを、わざわざ書いてしまうのだ。
ふつうなら、
「なんだこれは」
「うっぜーなあ」
あきれてしまうところだが、存外そうはならないのが、ケストナーの妙味であり、それこそが実は「ユーモア」の力。
そう、ケストナーはまじめで倫理を重んじる作家だが、それを詩にしたり、ゆかいな物語の中にまぜこむことによって、
「大人の押しつけがましさ」
これを消すことに、成功しているのだ。
後年、カート・ヴォネガットを読んだとき、
「これ、ケストナーですやん!」
と思ったものだが、月曜日の朝っぱらから校長先生に全校生徒の前で、
「友情は大事だよ」
とか言われても、
「はあ?」
「うるっせーよ、早く話を終わらせろや!」
だけど、ウルトラマンやプリキュアの「神回」のテーマがそれだったら、素直に心に突き刺さる。
ケストナーのすごいところは、大人になってもそのことを忘れていないこと。
これは、自分が「大人」になればわかるけど、案外できることではない。
またケストナーの、ともすればめんどくさくなりがちな「モラル」の部分に説得力を持たせている要素は、もうひとつある。
それは、彼自身が命を懸けて、それを守ろうとした意志の力によるものだ。
(続く→こちら)
第二外国語の選択はむずかしい。
というテーマで以前少し語ったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」。
そこでここ今回も、私をそんなマイナー街道へと導いた、罪深くもすばらしい作品の数々を紹介している。
シュテファン・ツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』。
前回は(→こちら)同じツヴァイクの『マリー・アントワネット』を紹介したが、今回も革命フランスのお話。
ジョゼフ・フーシェとは、フランス革命時の重要人物であり、世界史的には『ベルばら』の続編に位置づけられる、『栄光のナポレオン エロイカ』においても大活躍する男。
このフーシェというのが、どういう男なのかといえば、これがもう、オットロシイくらいに冷酷で頭が切れる。
で、裏切り者。
革命勃発後、もともとは穏健なジロンド派寄りだったが、皆の予想を裏切りルイ16世処刑に票を投じてからは、ジャコバン派に転向。
血みどろの革命を避け異動したリヨンにおいて、虐殺などしながらヒマをつぶし、ほとぼりが冷めたと思ったら、今度は保身のため、それまで支持していたロベスピエールの足をひっぱることに血道をあげる。
ライバルたちが次々、ギロチン台の露と消えても、この男だけはのらりくらりと生き残る。
ときおり不遇をかこつこともあったが、基本的には政権のおいしい席に、ちゃっかりすわっている。
その後も、総裁政府、統領政府、ナポレオン独裁の帝政下、猫の目のように変わるフランスの体制を、まるで危うい綱渡りを楽しむがごとくめぐっていき、やはりどこまでも重要人物として君臨する。
常に状況を観察し、なにかのときの切り札をいくつも用意し、あらゆるトラブルを想定し、あぶないと見るや、すぐさましれっと勝利者側につく。
そこになんの、ためらいも罪悪感もない。
むしろ、そうすることに快感を感じている節すらあるのだから、なんとも嫌なヤツではないか。
ついたあだ名が、「サン・クルーの風見鶏」。
主君だったナポレオンや、ライバルであるタレーラン、ロベスピエールなどなど、とにかくかかわった人みなから嫌われていたが、それでも失脚しないしぶとさは、あきれるばかりだ。
この人の特徴は、
「敵に回すと、なにをされるかわからないが、味方としては腕利きの名参謀」
本当は口もききたくないけれど、なんせ頭脳と実務能力は一級品なもんだから、むやみと邪険にもできない。
もちろんのこと、政権をゆるがしかねない「ヤバい情報」にも事欠かない。
そのことは、本人がもっともよく理解している。だから、周囲が自分をあつかいあぐねているのを、気づかないふりをして楽しんでいる。
まさに最強の毒であり、最強の薬。
だから、どれだけうとまれても、とりあえずは時の政権に重宝されるのだ。
そんな、ひとつの失敗で首が飛ぶ激動の革命史で、どこまでも尻尾をつかませない最強の政治サバイバーであるジョゼフ・フーシェだが、おもしろいことに、この人には本当の意味での権力欲はない。
その頭脳と政治力で、フランス随一の富豪にまでのぼりつめても、この人の生活はまるで変わらない。
同じフィクサー型だが、享楽的で人生を楽しみたいタイプのタレーランとちがって、フーシェの日常は地味の一言。
酒も煙草も賭博もやらず、色恋沙汰は一切なく、決して美人とは言えない地味な妻を最後まで愛した。
じゃあ、彼は一体なんのために政治の世界で暗躍し、出世街道をかけのぼり、大金をためこみ、そしてそれを自分の人生の充実に使わないのか。
おそらく、フーシェ型の人間にとって大事なのは、金でも権力でもなく、
「俯瞰の視点」
今自分が、このゲームの盤上でどこにいるのか、だれがどう動いて、どう全体が反応するのか。
そういう、一歩下がったところから見下ろし、すべての流れを把握する。それが、フーシェ型のやりたいことなのだ。
だから、そのときの政権でトップのヤツを見つけたら、さっさとその傘下に入って2番手の位置を確保する。
あとはその下で、人々が右往左往するのを、ニヤニヤしながらながめているのだ。
そう、フーシェ型は祭りに顔を出しても「参加」しない。
みなさんの周りにもいませんか? 話をしていても、どこか一歩引いてて、フラットな口調で、
「ボクは、どちらかといえば『観察者』でありたいんですよ」。
みたいなこと言う人。
あれです。まさに、ジョゼフ・フーシェが力を発揮するのは、「当事者」ではなく、「観察者」のときなのだから。
「観察者」にはあまり我欲がなく、欲するのは「俯瞰の視点」と「ゲームのルールと自己のポジション」の把握。
だから、金も権力も、あってもいいけど、それが優先順位一位にはならない。
変な人みたいだけど、サマセット・モーム『月と六ペンス』の語り手みたいに、けっこうふつうにいますよね。
同じツヴァイクの革命ものでも、魅力あふれまくりのマリーちゃんとちがって、こっちはとにかくイヤな人。
絶対に、友だちにも同僚にもなりたくないけど、でも、その人生は抜群におもしろく、ここまで腹黒いと、いっそ逆に気持ちよくなってくる本書は、とってもおススメです。
(ケストナー編に続く→こちら)
第二外国語の選択は、むずかしい。
というテーマで以前少し語ったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」。
こないだは美しいドイツの詩を紹介したが(→こちら)、今回も私をそんなマイナー街道へと導いた、罪深くもすばらしい作品の数々を紹介したい。
シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』。
ツヴァイクはオーストリアの作家で、日本ではややマイナーだが、戦前のヨーロッパではかなり読まれたベストセラー作家であった。
コスモポリタンで平和主義者だったが、ユダヤ系ゆえヒトラー政権下のウィーンを追われ、亡命先のブラジルで自殺するという、悲劇の人物。
まだまだ、これからの人だったのに、歴史のうねりに飲みこまれる形となり、惜しいこととなった。
そこに「真珠湾奇襲」というワードが、からんでいるのが、日本人として少しばかり悲しい。
そんなツヴァイクの著作の中で、一番有名なのが『マリー・アントワネット』であろう。
あの『ベルサイユのばら』の元ネタにもなった作品で、華やかだが、少しばかり愚かで、そして気高くもあるという、世界に広がる彼女のイメージを決定づけた一冊ともいえる。
この本は完全に二部構成になっており、前半部は若き日の、未熟なるマリーの豪華な宮廷生活が描かれる。
ハプスブルク家という名門、中でもマリア・テレジアという最強女帝の娘という超絶サラブレッドであり、フランスというヨーロッパの大国に嫁ぐという、冗談みたいな人生を送ることとなった彼女。
またその魅力と、勤勉よりも人生を楽しむことを重視する快楽主義的性格は、当時絶頂期だったフランスという国と、きらびやかな宮廷文化に、あつらえたようピッタリとハマった。
おとなしい夫とは、それなりに仲が良く、またそのあふれる可憐さと、ほどよい愚かさで人気者になった彼女はオペラ鑑賞や仮面舞踏会、賭博にショッピング。
まさに時は、ロココ時代の申し子。享楽の絶頂を極めんがごとく、遊びと浪費に明け暮れるのだ。
いやあ、なんといっても、ここがおもしろい!
なにがいいって、本当にこの華麗なる大主役であるマリー・アントワネット様の、軽薄で頭が悪くてアホほど金を使いまくるバカ女っぷりが、すばらしいんですわ!
いやマジで、ホンマに読みながらずっと、
「コイツ、だれか行ってどついてこいや!」
って100万回くらい、つっこみたくなる。
それくらい、豪快な遊びっぷり。男やったら「無頼派」って呼ばれるんちゃうかというほど。
いや、これは私のみならず、書いてるツヴァイク自身、かなりイライラしながらも、
悪気はないんです。いろいろとやらかしてますけど、ただのアホではない。
要するに《世間知らず》であって、そんなポテンシャルで歴史の大役をまかされたら、そらァつらおまっせ
そう何度も、フォローしつつ書き進める始末なんだけど、ちっとも心が動かないというか、なんかもう「焼け石に水」感がすごい。
そら、アントワネットはん、アンタ革命も起こされますわ、と。
ただ、読み進めてひとつ言えるのは、マリー・アントワネットは、決して世間のイメージのような「悪い女」ではないこと。
ツヴァイクの書くものは、伝記というよりも、どちらかといえば「小説」に近いニュアンスだと思うけど、それでも彼女に「悪意」というものが、まったくなかったことは伝わってくる。
つまるところ、革命前のマリー・アントワネットという女性は、
メチャクチャにコケティッシュで、老若男女だれからもモテモテで、間違いなく善人。
なんだけど、頭が軽くて、世の中の事なんにも知らない、遊び好きの女の子
なんか、日本でいえば偏差値は低いけど名門っぽい女子高とかに、山ほどいそうな金持ちのお嬢さんなのだ。
つまるところ、究極に無邪気で、育ちが良い女の子。
オシャレや遊びにお金を使うなんて、年頃の娘さんには普通のこと。
ただ、
「ハプスブルク家出身で、フランス王家に嫁入りした」
という状況と、革命を生んだ時代背景が異常だっただけなのだ。
もし、彼女が今の日本に生まれてたら、自然とアイドルかモデルか女子アナにでもなって、空気読めず「炎上タレント」として愛されていただろう。
神田うのさん、とかみたいな。少なくとも、ツヴァイクは、そういう評価だと思う。
その証拠に、マリー・アントワネットが保守の王党派の言うように《聖女》なのか、それとも世間のイメージ通りの《悪女》なのかとの基本的な問いに、
「たいていの場合と同じく、ここでも魂の真実は中間にある」
序文で語っている。
とかくこの世を「善悪二元論」にわけたがる人が多い中で、この言葉は地味でつまらないけど、知性的な態度にちがいない。
その意味では、平凡で軽薄だが、だれからも愛されるだけの「リア充がすぎる」娘が、ひとつの王朝を終わらせ、
「宮廷文化の申し子」
「ヨーロッパの女王」
のアイコンとして歴史に名を残すことになるのだから、「時代性」というのはおそろしいもの。
その悲劇性を、ここまで浮き彫りにできる、ツヴァイクの筆さばきは見事の一言。
女子はウットリ、男子はイライラしながら楽しめます。超おススメ。
(『ジョゼフ・フーシェ』編に続く→こちら)
ジュリエット・マカー『偽りのサイクル 堕ちた英雄ランス・アームストロング』を読む。
タイトルの通り、自転車競技界のみならず、全スポーツ界を震撼させたランス・アームストロングのドーピング事件をあつかった本だ。
ツール・ド・フランス7連覇の大記録を持つアームストロングには、常にドーピングの疑惑がつきまとっていた。
だが、そのことが噂の域を出ることはなかなかなかった。
ビッグマネーの力、「ガンを克服した不屈の男」の絶対的イメージ戦略力、そしてなにより
「そもそもランスにかぎらず、ドーピングをすることが大前提」
であった自転車競技そのもののゆがみが、事件から真実を覆い隠してしまっていたからだ。
この本はすぐれたノンフィクションであるとともに、一級の倒叙ミステリでもある。
ふつうの推理小説では、まず事件があって、犯人が最後に明かされるのが基本となっているのに対し、倒叙ものでは最初から犯人がわかっているのが特徴。
代表的なのはドストエフスキーの『罪と罰』。
なんて気取ったこと言わなくても、『刑事コロンボ』か『古畑任三郎』といえばいいというか、そもそも『古畑』の元ネタが『コロンボ』。
で、そのさらに元ネタが『罪と罰』の予審判事ポルフィーリーということなんだけど、ともかくも誰がやったかわかっている分、
「犯人側の視点から、探偵に追いつめられるドキドキ感」
が味わえるという、なかなかツイストの効いた構成が売りだ。
『偽りのサイクル』はまさにそれで、われわれはすでに結末を知っているところから、物語がはじまる。
「犯人」であるアームストロングと、それを追いつめようとする「探偵」側の息詰まる駆け引きが本書の読みどころだ。
追う側のあの手この手の戦略もトリッキーだが、なによりもランス・アームストロングという男がこの倒叙物の
「理想的な犯人像」
であることが、事件のもっとも大きなポイントであろう。
複雑な家庭環境から、おのれの才能と努力ではい上がったアメリカン・ドリームの体現者。
一度はガンに体をむしばまれるが、そこから不屈の精神と肉体でもって不死鳥のような(というありきたりな表現がピッタリな)復活をとげる。
だがその人間性は決して、彼の残した業績にふさわしいとはいえない。
エゴイスティックでアクが強く、金や名誉に人一倍こだわり、勝負に勝つためならどんな手でも使う勝利至上主義者。
彼は間違いなく英雄だが、その分敵も多かった。
エリートでありながら雑草であり、勝利者であるが、そのエキセントリックなキャラクターゆえに孤独にも見えた。
そう、彼は文字通りの意味で「セレブ」だった。
まさに『コロンボ』に出てきてもおかしくない見事なキャスティング。
こういう言い方は適当ではないかもしれないが、この事件はランスという「理想の犯人」を得たことによって完璧たり得たのだ。
そういった「物語」としてのおもしろさとともに、本書の本当のテーマであるドーピングについては、やはり考えさせられるところはある。
大前提として、ドーピングは良くないことは子供にでも理解できるが、勝負の世界では、ましてや
「自分以外のだれもがやっている」
そんな世界で「良くないことを良くない」という当たり前の行為は、そのまま負け犬への道一直線。
実際、どうしてもドーピングを受け入れられなかったり、
「偽善者」
「クリーンゆえに、いつ裏切るかわからない」
という視線に耐えられず、この世界から去ることを余儀なくされた選手たちも本書では登場する。
ランスのように悪びれもしない(ある意味)「強者」は別としても、去っていった者たちの惨めな姿を見ていると、やはり「良くない」という当たり前のことを言い切れるだけの勇気を持つのはむずかしい。
ランス・アームストロングのせいで万年2位だった選手の言葉がある。
「たしかにランスは間違いを犯した。でも、ツール7連覇を剥奪するのは違うと思う」
「だって、もともと自転車ロードレースの世界はドーピングが当たり前だった。皆同じ条件で1位だったんだ。だから、彼の7連覇は《実力》だよ」
倫理的にはおかしいが、アスリートの言い分としては筋が通っているというか、論理的には「正しい」ようにも思えてしまう。
「正論」「倫理感」「良心」にゆだねるには、あまりにも根が深すぎる、この問題。
正義を語るのは簡単だが、魂を売って得られるものは大きく、人の心は弱い。
同じテーマをあつかった、タイラー・ハミルトン『シークレット・レース』と合わせて読んでみても、いまだ「自分なりの正解」すらも見えてこないのが現状だ。