2017年も、いよいよおしまいである。
年末年始はコタツでミカンが一番! ということで、お茶を入れて、買い置きしてあった本を読むか、録りだめた映画を観るか、あとはラジオをダラダラ聴いて、気がついたら眠っていたり。
もう知能指数ウサギくらいで、ひたすらゴロゴロ。あとは銭湯。はー、極楽、極楽。
もう脳みそもとけているので、まとまった文章なんて書く気にもならない。ということで、今年度を駆け足で振り返り、今日はおしまいにしたい。
個人的なことばかりなので、読んでも意味不明です。こんなん全然スキップしてください。では、はじめ!
今年はたくさん映画が見られた、『バナナブレッドのプディング』はやはり大傑作だ、西山朋佳と伊藤沙恵の将棋がおもしろくて惚れる、今さらレッチリにハマる、ハワード・ホークスはもっと評価されていい、『遊星通信』『旅行人』のバックナンバーが大量に手に入ってホクホク、ドミニク・ティームのワイパースイングにウットリ、たまむすび、キョートリアル、タマフル、三四郎のオールナイトなどラジオっ子だった時代を思い出す、ネット上の暴言や差別発言には心底かなしくなる、結局のところもっともプレースタイル的にあこがれるのはジル・シモンかもしれない、特撮野郎だけどなぜか『ウルトラセブン』だけはピンとこない、いくつになっても選挙は苦手だ、杉田祐一がようやっと来てくれた、杉作J太郎に続く人生の師は平山夢明だ、蔵前編集長のノートがすごすぎて感動、チームスカイとサッカーのドイツ代表の「理想のラスボス感」がすごい、『ジャパンチェスマガジン』発行に超期待、紙か電子書籍かでいちいち迷う現状がめんどくさい、『シン・ゴジラ』は玄人の仕事だ、今年は旅行に行けなかったなあ、スロヴェニアとかアルバニアとかグルジアみたいなマニアックな東欧国に行ってみたい、自転車レースでお気に入りはマイカとクフィアトコフスキー、『弱虫ペダル』と『ゴールデンカムイ』がおもしろかったから来年はマンガをたくさん読もうかな、
■今年面白かった本。
マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』
江戸川乱歩『孤島の鬼』
アーネスト・クライン『ゲーム・ウォーズ』
サラ・ウォーターズ『茨の城』
インドロ・モンタネッリ『ローマの歴史』
青山南『アメリカ短編小説興亡史』
フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』
ニコルソン・ベイカー『ノリーのおわらない物語』
早坂吝『〇〇〇〇〇〇〇〇殺人事件』
スティーヴ・ハミルトン『解錠師』
P・G・ウッドハウス『ジーヴスの事件簿』
深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』
アレックス・グレシアン『刑事たちの48時間』
長崎尚志『闇の伴奏者』
ロバート・A・ハインライン『銀河市民』
大島幹雄『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか』
■おもしろかった映画
『セッション』
『大陸横断超特急』
『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』
『ラッシュ/プライドと友情』
『猿の惑星:創世記』
『用心棒』
『赤ひげ』
『椿三十郎』
『天国と地獄』
『突破口』
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』
『宇宙人ポール』
『少女は自転車に乗って』
『ザ・グリード』
『スローターハウス5』
『王になろうとした男』
『ミッドナイト・イン・パリ』
その他書ききれず。
今年はあまり出かけなかったんで、ネットを見る機会が増えたんだけど、そこにある記事や発言にすごいものが多くておどろかされっぱなし。
そういった「ヘイト」めいた言葉の大半が、発言者の自意識ではおそらくは「正しいこと」として発せられているのだ。疑いなどなく。
だとしたら、自らの信じる「正しいこと」というものは、われわれの正しく生きたいという意志や願いに対して、なんと無力なのだろう。
ドイツの作家であるエーリヒ・ケストナーの代表作『飛ぶ教室』にこんな一節がある。
かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかなく、勇気をともなわないかしこさなどクソにもならない。
世界の歴史には、かしこくない人々が勇気を持ち、かしこい人が臆病だった時代がいくらでもあった。
今がそうでないことを静かに祈りながら、本年度はここまで。
サンキューバイバイ!
また来年。
女子高生が、イヤボーン(追いつめられた女の子が「イヤー!」とさけんだ瞬間に能力が覚醒して大爆発が起こるSFアニメの「あるある」シーン)で河童や天狗と戦う『パンティ爆発』(原題もバッチシ『Panty Explosion』だ!)。
人類滅亡が近い近未来で、ドラッグ漬けの放火魔や露出狂が大活躍する『ASYLUM』
ゾンビになって、ロメロのようにショッピングセンターで暴れまわったり、中世ヨーロッパによみがえって村を恐怖で支配したり。
主君である浅野内匠頭を殺された47体のゾンビが吉良邸に討ち入ったり。
果てはカンフーの達人ゾンビがヌンチャクを手に吠えまくる『燃えよゾンビ』なんかが遊べちゃう『オール・フレッシュ・マスト・ビー・イートン』
キミもNINJAになってハンバーガーの配達をしよう!
ただし、30分たっても届かないときは責任を取って切腹だ! 『ニンジャバーガー・ザ・ロールプレイング・ゲーム』
今回も45億人以上が集まっています。さあスタート。優勝者以外は、これから人生で読む本は辻仁成とジェイムズ・ジョイスの二択限定だあ!
12月といえば、世間ではやれクリスマスだ年越しは海外だとかまびすしいかもしれないが、私はオコタで本。
師走といえば先生も走るいそがしさだが、私はそんなこと知ったこっちゃなく、図書館、古本屋、ネット書店をめぐってあれこれ買いこむのが楽しい。
白い息を吐きながら、重たい本をかかえて帰る家路のほほがゆるむことよ。デートは待ち合わせ場所で相手を待ってるときが一番楽しいというけど、それは本も同じなのだ。
というわけで、今年度の年末年始読書マラソン出走者を発表します。では一斉にドン。
デイヴィッド・ゴードン『二流小説家』
塩野七生『サイレント・マイノリティ』
コニー・ウィリス『混沌ホテル』
北村薫『太宰治の辞書』
クリストファー・プリースト『奇術師』
ジェイムズ・トンプソン『凍氷』
玉村豊男『東欧 旅の雑学ノート』
ミュリエル・スパーク『バン、バン! はい死んだ』
マット・ラフ『バッド・モンキーズ』
沢木耕太郎『地の漂流者』
アーナルデュル・インドリダソン『湿地』
フィル・ポール『バルサとレアル―スペイン・サッカー物語』
ニコルソン・ベイカー『中二階』
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』
マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』
ジュール・シュペルヴィエル『海に住む少女』
徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』
ピエール・ルメートル『その女アレックス』
安田均『安田均のファンタジーゲームファイル』
エルヴェ・コメール『悪意の波紋』
月村了衛『機龍警察』
サマセット・モーム『お菓子と麦酒』
松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』
トーマス・M. ディッシュ『いさましいちびのトースター』
杉作J太郎『応答せよ 巨大ロボット、ジェノバ』
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』
高橋秀実『はい、泳げません』
中でも最も楽しみなのが、私が勝手に「ロールモデル」にしているドイツ文学者、池内紀先生のドデカい一冊『戦争よりも本がいい』。
なんという、すばらしいタイトルなのか。世界中にいる文化系人間の総意といってもいい、泣きたくなるくらい素敵なフレーズだ。
声高に憎悪をあおる扇動家や、あらゆる暴力、抑圧、差別、搾取、ハラスメントを肯定する「強者」の声が聞こえたら、そっとこの言葉を唱えるのがいいかもしれない。
そう、戦争よりも本がいい。
われわれが、理性と知性を重んじる存在であることを忘れないための護符の呪文として、何度も、何度でも。
前回(→こちら)の続き。
2001年、オーストラリアとフランスによるデビスカップ決勝は、いよいよ大詰めをむかえつつあった。
双方ゆずらず2勝2敗となり、最終シングルスで決着のはずが、オーストラリア・チームのパトリック・ラフターが、ケガで万全ではない。
なら代打か? それとも故障を押しての強行か。
本来ならオーストラリアには、ここでマーク・フィリポーシスという第3のエースがいるはずだった。
だが、このときは故障だったか、はたまたナショナルチームと折り合いが悪い時期だったかで、この決勝のメンバーには入っていなかったのだ。
じゃあ、一体だれが出るんやろ。
パソコンのモニターの前で固唾を呑む、私とクニジマ君の前に、一人の男の名前が映し出されたのである。
「Wayne Arthurs」
これには私とクニジマ君も思わず「うわあ」と、のけぞりそうになった。
「えーっ!!!」
「マジか?」
「ここでまた地味な男が……」
そんなことになってしまったのも、ゆるしてほしいのは、前も言ったが、ウェイン・アーサーズとはオーストラリアの中堅選手だ。
もちろん、ナショナルチームに選ばれているのだから、実力自体は充分だが、この国の命運がかかった、超のつく大一番をまかせるには、ややたよりないところもある。
なんといっても、本来出るはずのパトリック・ラフターは元世界1位、USオープン2連覇、ツアー通算11勝、男前で選手会長も務めたスーパーナイスガイ。
一方ウェインは、自己最高ランキングが44位、グランドスラム最高成績4回戦、ツアー1勝。
でもって、まったく余計なお世話だが、見た目も超ふつうと、その格差は相当なものなのだ。
まあ、そこはデ杯でエースが欠場すると、だいたいが
「だれやねん」
みたいな選手が出てくるのは、わりとよく見る「デビスカップあるある」だ。
たとえば、2014年に優勝したスイスは、ロジャー・フェデラーとスタン・ワウリンカが単複両輪で戦う最強チームだった。
が、仮にフェデラーがなんらかの理由で途中棄権すると、ランキング230位とかの選手が「エース」として戦うことになる。
それとくらべるとかなりマシだけど、苦しいことには変わりない。
しかもだ、ウェインには
「ダブルスのスペシャリスト」
という側面もあるせいか、デ杯のシングルスで戦ったことなど、ほとんどないはず。
そもそもが、おそらくはラフターの代わりの、ダブルス要員で選ばれているはずなのだ。
そこを、初のシングルスデビューが決勝戦。
しかも、すべてが決まる3日目の最終戦。
クニジマ君がポツリと、
「これは……ちょっとキツいなあ」
私も思わず、
「オレやったら、トイレ行くフリして、そのまま消えるね」
むかし、水島新司先生の『大甲子園』で、はじめて甲子園でプレーした補欠の目黒選手が1点ビハインドの9回2死満塁でバッターボックスに立つ羽目になり、
「なんで、はじめてのスタメンで、こんな場面になるんだ……」
とビビりまくるシーンがあるけど(まあ、目黒君の場合は山田が代打で出たんだけど)、それを彷彿させたものだ。
ウェインも、さぞかし言いたかったろう。
こんなん無理やって!
とはいえ、ここで本当に逃げるわけにも行かないのがプロの大変なところ。
嫌々(だよなあ、たぶん)コートに立たされたアーサーズに、私とクニジマ君は
「ボロ負けだけはすなよ」
テレビ放映じゃないから祈るようにネット上の、数字だけのスコアボードを見つめる。
ところが、あにはからんや。ふつうなら尿でもちびろうかという大修羅場で、ウェイン・アーサーズは大善戦を見せる。
ファーストセットこそ落としたものの、続く第2セットをタイブレークの末に奪い返す。
この健闘には、我々も色めきだった。
「すげえ、勝つんちゃうか! 地味やけど」
「このまま行ったら大英雄やぞ! サーブしかないけど」
「ウェイン、ここまで来たら男になれ! コアなファンしか知らんけど」
もう、大盛上がりだ。
ちょっと辛口な応援になるのは、愛の裏返しと理解してほしい。
われわれ玄人のファンこそ、こういう華のない選手をも、しっかり見届けなければならないのだ。
今思えば、対戦相手のエスクデも相当な「地味界の星」だが、気持ちはどうしたって、突然極限状態に追いこまれたウェインにかたむこうというもの。
おそらく、アーサーズ対エスクデという渋すぎるカードで、日本一盛り上がったのはわれわれが白眉だろう。
激戦が続くのをモニターで追いかけながら、クニジマ君は感に堪えたように、
「なんかこう、大将戦がこの2人いうのが、デビスカップの華やよなあ」
1996年決勝ニクラス・クルティ対アルノー・ブッチとか、2013年決勝ドゥサン・ラヨビッチ対ラデク・ステパネクとか。
あと2016年決勝のイボ・カロビッチ対フェデリコ・デルボニスとかね。
プレッシャーに耐え必死に戦うウェインだったが、そこからは最高ランキング17位、オーストラリアン・オープンでもベスト4の実績もあるエスクデが徐々に実力を発揮し、一気に突き放す。
最終シングルスは7-6・6-7・6-3・6-3でエスクデが勝利。
見事フランスに、デビスカップの栄冠をもたらしたのであった。
あーあー、ウェイン、負けちゃったか。
でもまあ、よくがんばったよね。シーズン最後を飾るに、ふさわしい熱戦だった。
こうして2001年デビスカップは終わった。
興奮冷めやらぬ私とクニジマ君は、
「すごい決勝やったなあ」
「あんなこと、あるんやねえ」
と大いに語り合うこととなった。
その後も、よほどこの試合にあてられたのか、私と友は忘年会でも「デ杯はすごかった」と語り合い、「聖域なき改革」「ヤだねったら、ヤだね」を押さえて、
「大将戦、ウェイン・アーサーズ」
が、その年の局地的流行語大賞に選ばれたのであった。
☆おまけ ビッグサーバー、ウェイン・アーサーズの雄姿は→こちらから
前回(→こちら)の続き。
2001年、デビスカップ決勝は大激戦となった。
レイトン・ヒューイット、パトリック・ラフターの世界ナンバーワンコンビ擁するオーストラリア。
エースであるセバスチャン・グロージャンを筆頭に、ニコラ・エスクデ、セドリック・ピオリーヌ、ファブリス・サントロという渋い実力者で脇を固めるフランス。
両チームゆずらず2勝2敗で、勝負は最終シングルスにもつれこんだが、ここで恐れていた事態が現実となった。
この決勝戦。戦前の予想では、オーストラリアが危ないという、もっぱらの評判だった。
その理由はパトリック・ラフターのケガだ。
もともと全盛期と比べて、おとろえが見られていたラフターだが、くわえてUSオープン2連覇以来、体調不良におちいることがたびたびあり、この決勝戦前でも背中だったか腰の故障だったかで、出場が危ぶまれていたのだ。
だがそこは舞台がデ杯である。
しかも決勝、おまけに地元開催だ。こんな条件がそろっては、選手は休むなんて考えられなくなる。
特にラフターはチームをひっぱるベテランとして、責任感も強い男。
痛む体に鞭打って、チームのために強行出場を決めていたのだ。
この選択は、とりあえずは成功だった。
元ナンバーワンであり、グランドスラム大会優勝経験者の実力と意地か、ラフターは見事に初日1勝をあげ、まずはあたえられた役割をこなした。
ここまではよかったが、オーストラリアはこのラフターの勝利を生かせず、ヒューイットの試合とダブルスを落とし、勝敗の行方を3日目の最終シングルスにもつれこませてしまう。
対戦スコアを見ればわかるが、この決勝でオーストラリアはラフターをダブルスでも連投させた。
ということは、
「故障をかかえたパトリック・ラフターにまわってくる、最終シングルス前に決着をつける」
ことを想定していたに違いない。
のちに、物議をかもすこととなるジョン・フィッツジェラルド監督の采配では、ラフターの体調では、2試合出るのが限界と判断。
それなら、プレッシャーのかかるシングルス2試合よりも、シングルスひとつと、比較的負担の少ないダブルスに出させて、
「初日1勝、ダブルス1勝、最終日ヒューイットで3勝目」
もしくは
「初日に一気に2勝して、あとはダブルスかヒューイットで決める」
といった目論見であったのではなかろうか。
とにかく、最終戦前までに決めてしまい、ラフターの負担を最小限にせねばならない。
その意味では、ファブリス・サントロという玄人中の玄人がいるダブルスはともかく、結果的には初日にヒューイットがニコラ・エスクデに敗れたのが痛かったことになる。
これによって、短期決戦のプランがご破算になったのだから。
フィッツジェラルド監督が批判されたのはここで、ラフターが完全な状態でないなら、別の選手を用意すべきではなかったか。
また、ダブルスに巧者ををそろえるフランス相手に、そこを手負いのラフターで強行突破というのは無茶ではなかったか。
むしろ2日目は捨てて、最終シングルスにこそ、彼をスタンバイさせるべきではなかったか。
こういった選手の配置は難しい問題で、日本でも
「デ杯で錦織圭をシングルスに専念させるか、それとも単複3連投で力ずくの勝利をもぎ取るか」
というオーダー論は毎回のように議論になるが、たしかに外野の声は一理あるとはいえ、状態が完全ではない中「これでいく」と決めた作戦をつらぬいたのだから、結果論的な話をしても仕方ないのかもしれない。
ともかくも、3-0か3-1の電撃戦プランは、フランスの伏兵の前にくずれ去った。このあたりが、団体戦の妙ともいえる。
ここにオーストラリアは決断を迫られた。
勝負のかかった最終シングルス、戦力大幅ダウンを覚悟で控えの選手を選ぶか、それとも満身創痍のパトリック・ラフターをあえて出すのか。
そしてここに、これまで一度も名前の出なかった、あの男が突如浮かび上がってくるのだ。
そう、われらが「地味萌え」が推すビッグサーバー、ウェイン・アーサーズである。
(さらに続く→こちら)
流行語大賞といえば思い出すのは、ウェイン・アーサーズである。
というと
「それ、だれやねん」
つっこまれそうであるので、ここに説明しておくと、ウェイン・アーサーズとはオーストラリアのテニス選手。
一時期は、テニス界最速最強といわれたビッグサーブを武器に、レイトン・ヒューイットやパトリック・ラフターらがいた、第何期目かわからないオーストラリア黄金時代、ナショナルチームでも活躍した男だ。
華のあるオージー選手の中で、飛び抜けて見た目が普通とか、自己最高ランキングが44位とか、初優勝までデビューから15年もかかったとか、グランドスラムの最高成績が4回戦とか、実はダブルスのスペシャリストとか。
そんな、私のような「地味な選手萌え」にはたまらない男なのだが、そうでない人からしたら、失礼ながらもう全力で「知らんがな」な選手である。
そんな華なき男のウェイン・アーサーズが、なんでそろそろ年の瀬というこの季節、記憶に残っているのかと問うならば、話は2001年にさかのぼる。
年も押し迫った12月初旬のこと、私は友人クニジマ君と家で一杯やっていた。
テニスファンの彼となれば、当然肴となるのはテニス界のことであり、その日も、
「トーマス・エンクヴィストとウェイン・フェレイラの、どっちを評価すると、より玄人のテニスファンっぽいか」
なんて話で盛り上がっていたのだが、そこで友がこんな声をあげたのだ。
「あ、そういや、今ってデ杯の決勝やってるんちゃう?」
おお、そういえばそんなイベントもあったなあ。たしか今年は、オーストラリアとフランスで決勝やってるんちゃうかったっけ。
パトリック・ラフターとレイトン・ヒューイットの、世界ナンバーワンの2枚看板が売りのオーストラリア。
セバスチャン・グロージャンをエースにそえ、渋い実力者のそろうテニス大国フランス。
これがチーム戦を行うとなれば、盛り上がらないはずがない。
すぐさまパソコンを起動させると、テニス関係のページをめぐってデ杯の情報を仕入れはじめたが、この年の決勝戦は、期待にたがわぬ激戦となっていた。
オーストラリアはラフターとヒューイットが単複戦うが、フランスはグロージャンを中心に、ニコラ・エスクデ、セドリック・ピオリーヌ、ファブリス・サントロという布陣で挑む。
会場はオーストラリアのホーム。全豪オープンが開催されているロッド・レーバー・アリーナに、天然芝を敷いてフランスを迎えうった。
開幕戦で、エスクデがフルセットの末、敵のエースであるヒューイットを破るという金星をあげると、オーストラリアも負けずにラフターがグロージャンをストレートで倒し、エース破り返し。
デ杯の命ともいえるダブルスでは、ピオリーヌ&サントロ組が、ラフター&ヒューイット組のグランドスラム優勝者コンビを粉砕。
さすが、ダブルスはスペシャリストのサントロを擁するフランスが強い。
アウェーの不利さをものともせず、2勝1敗と先に優勝に王手をかける。
ただオーストラリアも、地元の観客の前で、むざむざ敗れるわけにもいかない。
3日目第1試合のエース対決では、ヒューイットがグロージャンを、なんと6-3・6-2・6-3のストレートで一蹴してしまう。
勝負は2勝2敗の最終シングルスにもつれこんだわけだが、試合経過を観ながら私とクニジマ君は、これは恐れていたことになりそうだぞと目を見合わせたのだ。
(続く→こちら)
前回(→こちら)に続いて、映画秘宝『日常映画劇場 映画のことはぜんぶTVで学んだ!』のはなし。
かつて東京12チャンネル(現テレビ東京)にて放送された、名もなきマイナー映画を熱く語るというこの本。
『メアリと魔法の花』や『相棒』が世間で取り上げられることなど、ものともせず、
『ペチコート作戦・セクシー潜水艦発進せよ』
『殺人ドーベルマン・残酷刑務所死の大脱走』
などを語り倒す本書は「男前」の一言に尽きる。
『恐怖の宙吊りロープウェー・ジャガーは跳んだ・大統領誘拐計画』
とか、タイトルが大盛りすぎて、どんな映画なのかサッパリわからない。
ロープウェーと大統領が、どう繋がるのか。ジャガーってだれ?
ただひとついえることは、この映画は間違いなく、タイトルが一番おもしろいはず、ということだ。
こうした作品群だけでも十分魅力的だが、12チャンネルの素晴らしいところは、その編集。
テレビはわざわざ「ノーカット版」と、うたうのが売りになるくらいなので、元来はカットや編集はつきもの。
しかも12チャンネルの場合は放送枠が90分、CMを考慮に入れると正味70分くらいで放送しないといけない。
そこで披露されるのが、独特の編集技術。
ストーリーの整合性など気にせず、バッサリやるのは日常茶飯事。
西部劇で劇中バリバリに生きていた奴が、CM明けにいきなり死んで、いなくなっていたりする。
もちろん、そこになんの説明もない。視聴者はどーんと置いてけぼりだが、
「とにかく、死んでもういないんだぞ、わかっとけよ!」
ということだけは伝わってくる、有無いわさぬ力業。
そこは各自「想像力でおぎなえ」ということか。なんとも男らしいハサミの入れ方だ。
編集の暴挙はこんな程度ではおさまらず、『ゾンビ』のラストシーンを改変(!)したり、カットしたところを声優さんにうまくつないでもらって、ほとんど別のストーリーに仕立て上げたり。
ヒドイのになると、ラストを丸ごとバッサリやって、お話の途中でストンと何のオチもなく、あたかも不条理劇のような終わり方をしたり。
『惑星ソラリス』を1時間20分にまとめるとか、『探偵スルース』をやはり70分におさめてしまうとか、「そんなご無体な」としかいいようのない荒技も見せてくれる。
『ソラリス』を80分! そんなん可能なんかいな。どうやって切り貼りするのか、想像もできない。
『探偵スルース』なんか、ミステリの、それも元は舞台劇だよ。
シーンのひとつひとつ、小道具の使い方、セリフの一字一句、すべてに意味のある作りこみになっているのだ、それをどうやって再編成するのか。
このあたりは、謎としか言いようがない。
そんな、まっとうな映画ファンが見たら
「バッカモーン! この作品を編集したのはだれだ!」
海原雄山並みに怒りそうなシロモノでも、ラストのあとすぐ切り替わる
「二光お茶の間ショッピング」
によってすべてが浄化される仕組みになっている。
どんなバカ映画でも、無茶苦茶な編集でも、「なんやこれはー!」と怒りをあらわにしたところで、
「はい、今日の商品はこの高枝切り鋏ですね」
笑顔でいわれると、もう怒る気も失せて、シオシオのパーとなるのである。
局側の作戦勝ちといえよう。
私も映画ファンとして、こういうのを読ませられると、
「もっとB級テレビ映画を見なければ!」
熱くいきり立ってしまうが、では実際にそのために古いビデオ屋に走るかといえば、そうでもないのであった。
こういうのは、感性がやわらかく、また無駄に時間だけはある、若いときに通過しておくべき道なのである。
それを大人になってから手を出すと、もう「なんやこの阿呆な映画は!」とか、「金返せ!」とか、
「オレの2時間……て、編集してるから、まあ実質70分やけど、とにかく貴重な時間返せ!」
となってしまう。
歳をとると、酔狂に金と時間をかけるには、分別がつきすぎてしまっている。バカは若いうちにやっておくべきなのだ。
なので、大人になってのB級映画の楽しみ方は、
「話のうまい奴に見せて、そのストーリーを解説してもらうこと」
話術のある友だちを、だまくらかして見させて、
「それが、いかにくだらなかったか」
を熱く語ってもらうのが大人の優雅なスタイル。
幸い私には、バカ映画が好きな上に、それを語らせると浜村淳さんなみにうまい「B級映画講談師」ことウメダ君という友人がいる。
さっそく彼に『日常映画劇場』を貸して、秋の夜長に『地獄のデビルトラック』について語ってもらうのを、ブランデーでもくゆらしながら堪能したい。
『日常洋画劇場 映画のことはぜんぶTVで学んだ! 』を読む。
映画秘宝から出ているこのムックは、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)を主とした、
「テレビでやってた名もなきB級映画」
これへの深い愛と限りなきノスタルジーを、熱っぽく語るという内容。
私は世代的に「東京12チャンネル」というものになじみはないが(「テレビ大阪」、もしくは「Uチャン」)、経済成長に浮かれまくった日本が、
「おもしろくなければテレビじゃない」
なんてフカしていた時代に、この局が実に味のある独自路線をひた走っていたのは、だれもが知るところである。
中でもふれられているが、他局がゴールデンタイムに豪華なタレントを擁した派手な番組をやっている中、ここだけは『ハクション大魔王』の90分スペシャル(しかも再放送)を流していた。
テレビドラマ『やっぱり猫が好き』で、三谷幸喜さんが脚本を書いた『ブジラVS恩田三姉妹』は、怪獣ブジラがあらわれて日本を蹂躙するニュースを、恩田三姉妹がテレビをザッピングしながら追うという怪獣室内劇(!)だが、小林聡美さんが
「あれ、この局だけ時代劇やってる」
なんて苦笑いするというギャグにされたのも、テレビ東京であった。
そんな、愛さずにはいられない東京12チャンネルなだが、実のところ映画番組は他局に負けない充実ぶりを披露していた。
そこには制作者側の、かぎりない映画熱があった……。
わけかといえば、特にそんなこともなく、理由は単なる「ソフト不足」。
要するに、テレビ局はあれど、予算などの関係で「番組数が足りない」ということなのである。
そこで制作側が目をつけたのが映画。
これを買い付けてきて流せば、とりあえず2時間近くは埋めることができる。
というわけで、
「とにかく、あるもん全部持ってこい!」
とばかりに総力戦というか、どこで買い付けたのかよくわからないZ級ドラマや、有名映画1本に20本くらい付いてくる「抱き合わせ商品」など、有象無象わけのわからない作品が、山のようにたれ流されることとなったのだ。
その玉石混合ぶりは、タイトルを見てもわかろうというもので、『十戒』『大脱走』など、まともな映画を流すときもあれば、
『覗き魔バッド・ロナルド』
『ビースト/巨大イカの逆襲』
といった、どう見たって「王様のブランチ」では紹介されそうもないものも流れることに。
この手の映画はざっと並べるだけでも、
『人喰いシャーク・バミューダ魔の三角地帯』
『キラー・アーンツ/殺人蟻軍団・リゾートホテル大襲来』
『パニック・オブ・タランチュラ/殺人クモ軍団恐怖の大空輸!』
『ザ・ビーズ/殺人蜂大襲来、アメリカ大陸壊滅の日』
なんとも味のあるラインアップである。
本文でもつっこまれてたが、アンツでなく「アーンツ」なところに、制作側のこだわりが感じられる。
たかが蜂に、「アメリカ大陸壊滅」というのも、ハッタリがきいててナイスだ。
秋の夜長、映画といえば『シン・ゴジラ』のような話題作や『君の名は。』のような感動ものもいいが、男なら粋に
『ロックンロールレスリング少女vsアステカのミイラ男』
といった超弩級のスットコ作品も楽しんでみたいものだ。
(続く→こちら)
「相撲は国技」
「伝統あるな神事」
などと重々しく語られがちな相撲の世界だが、中は意外とゆるくできているところもあるらしい。
その最たるが、相撲の権威の象徴となっている「国技」というあつかいだが、これがまた実にアバウトな根拠で、読んでいて笑ってしまうのだった。
なぜ相撲が「日本の国技」なのか、というニュースや情報番組でスポーツライターが重々しく取り上げがちなこの謎の正体はと問うならば、
「国技館で行われるから」
え? そんな単純な理由があるかって?
いや、これがホンマにそうらしいんです。高橋さんが、どんな一所懸命に古代の文献を当たっても、
「相撲を日本の国技にする」
みたいな記述はなく、ごくごくシンプルにどこでも、
「国技館でやってるから、まあ国技って言うたらええんとちゃうか」。
くらいのあつかいなのだという。
なんちゅうアバウトな。にわかには信じがたいが、本当の本当に、
「相撲は日本の国技」
とする証拠は特にないのだった。
で、国技館だから国技。ナイスすぎる。その安直さに、ますます好感度アップである。
しかも、じゃあその国技館がなぜ「国技館」という名前になったのかといえば、完成案内状に、
「角力は日本の国技」
と(特に根拠なく)書いてあった。それを見て、
「じゃあ、国技館でええか」
となったそうな。
つまり、「相撲は日本の国技」なのは、「国技館で開催するから」だが、「国技館がなぜ『国技』館なのかといえば、「相撲は国技だから」となるわけだ。
なんだか、話がねじくれていてややこしいというか、ぐるぐる回るメビウスの輪みたいになっているが、要するに国技というのは、
「誰か(江見水蔭という人だそうです)が適当に言うただけ」
程度のものでしかないらしい。
あー、だからテレビとかで色んな人が必死に「国技」をアピールする割には、説明の意味がよくわからないのか。
「解説するだけの理由がない」ことにくわえて、もしかしたら「それがバレると困ると思っている」からかもしれない。
「国技だから国技」という循環論法になっちゃってるわけで、だからサンドウィッチマンの富澤さんのごとく、
「ちょっと、なにいってるかわからない」。
ってことになるのだ。
そんなボンクラ魂が炸裂した相撲という競技が、なぜにて「相撲道」とか時には「武士道」と重ね合わせられ、妙に格調高いものとしてあつかわれるのかといえば、要するに戦争があったから。
大東亜戦争において、日本独自の競技である相撲がやけにクローズアップされ、「前撃精神」とか、そっちにからめられて祭り上げられたのだ。
実際、当時の力士はといえば前撃精神どころか、
「腹が減ってやりきれない」
となげいて、貧弱なところをさらけ出したり、逆に勤労奉仕で働くことによって、
「一所懸命体を動かすとすがすがしい」
と社会性に目覚めたり(取り組みは一所懸命動いてないんかい!)と、やはり呑気なものである。フワッとしてるなあ。
かくのごとく、神事も国技も高橋さんののほほん文体にかかれば、なんとも能天気なものに思えてくるものだ。
えらそうなおじさんが「品格」とかうるさく言うより、よっぽどこっちのほうが親しみ持てるよ。私は断然、ゆるゆるなお相撲さんを応援します。
私は高橋さんのファンで、『からくり民主主義』や、テレビドラマにもなった『弱くても勝てます』など、主要な著作はたいていチェックしているが、今度の題材は日本の国技といわれる相撲。
高橋秀実本の大きな特徴は、一言で言えば「のほほん」。
テーマとしては「沖縄基地問題」や「オスプレイ是非論」など、一見重厚なものを取り上げているものの、読んでいる心地は、なんともその重さを感じさせないものが多い。
それは文体や、著者のさらりとした芸風ゆえのことだが、そうやって「フワッと」ながめることによって、取材対象を徹底的に客観視してしまうところが高橋流のアプローチ。
そうして、とことんフラットな視点で観察すると、人が巷であれこれ騒いでいることというのは、意外なほどどうでもいい理由でだったり、単なる思いこみだったり、意地の張り合いだったり、イメージに引きずられた一面的な見方だったりする。
沖縄にしろヘリの問題にしろ、報道だけ聞いてたら
「権力の横暴」
「正義はどこにあるのか」
みたいな気分にさせられるが、現地の人は案外と、
「へー、騒がれてるの。知らなかったわあ」
「まー、いろんな意見があるわねー」
くらいのものらしく、その温度差がなんとも腰くだけである。
もちろん、それが全部というわけではないだろうが、そういう「一般的イメージと現場の声の誤差」を否定もせず肯定もせず、まさに「フワッと」浮かび上がらせるのが、抜群にうまいのだ。
この『おすもうさん』でもその高橋節は健在で、相撲といえば「八百長問題」「朝青龍と横綱の品格」、最近では日馬富士がビール瓶で貴ノ岩を殴ったの殴らんのと、イメージを落とす事件もあったが、本書を開くとそういったところに目くじらを立てるのは、なんとも「粋でない」気分にさせられる。
まず第一章から「のほほん」である。
追手風部屋に取材に行った著者が、そこで色々と若手力士に質問をする。
私など勝手なイメージで、相撲というのは「格闘技の中で最強」説もあるぐらいだから、常にたぎっており、モハメド・アリのごとく、
「自分に勝てる力士なんて、どこにもいません。まとめてブン投げてやりますよ」
みたいな言葉とか、あるいは逆に「気はやさしくて力持ち」的な、口べたで言葉数は多くないけど、そこがまた朴訥なキャラクターにつながるのかとか想像しがちだ。
だが、実際の生の声と言えば、押しの弱い若手力士などは、横に控える先輩たちに遠慮してか、多くの問いに、
「わかんない、す」
「こわい、す」
なんとも頼りない返事しかこない。さらには、入門の動機をたずねると、
「気がついたらここにいた、という感じなんです」
のほほんである。これだけ聞いたら、皆さまも
「まったく、今の若いヤツはなんと軟弱な。昔の日本男児は、そんなフニャフニャしてなかったぞ」
などとお怒りになられるかもしれないが、高橋さんが取材を深めるため、戦前の相撲雑誌や新聞を当たってみると、当時の力士の対談では力士になった理由というのが、こうだったという。
「子供のことだからなあ。はつきりした気持ちはありませんでした」
「お母(おふくろ)がその気になりましてね」
だいぶフニャフニャしてます。「気がついたらここにいた」とまったく変わらんがな。あげくには、
「ビールをごちそうになって、相撲ってサイコーってなりました」
みたいな答えもあって、ズッコケるのだ。
ビールに釣られる! 給料日前でフトコロのさみしいサラリーマンみたいだ。果ては、
「(相撲は)嫌いだったけど、行け行けと言われてしょうがなくなりました」
とか、やる気あるんかいと、つっこみたくなるような回答のオンパレード。
「昔はよかった」はいつの時代もくり返される言葉だが、それが幻想にすぎないことを、ものの見事に証明してしまっているところが、いっそほほえましい。
人間というのは時代を経ても、たいして成長しない生物なんですね。謙虚になれます。
ニュースで相撲界の不祥事が取りざたされると、やれ「伝統」だ「神事」だ「国技」に「品格」だとか、エライ人が鬼の首でも取ったかのように語り倒すけど、高橋さんにかかれば、これらの言い分がなんとも滑稽なのが透けて見えてくる。
だって、相撲って「ボンクラ」のスポーツのような気がするんだもの。
神事がどうとかよりも、基本は「食って寝る」のが仕事。志願者もハングリーな外国人力士以外は、案外と「気がついたら、こうなった」みたいな子が多い。ゆるゆるである。
「神事」と聞くとなんだかハードルが高いが、そういった「しゃらくさいオブラート」をはがしてみると、なんと呑気でステキなんだ力士の世界!
本来なら「不謹慎だ」「国技をなんだと思ってるのか」とおしかりを受けそうな内容だが、私は逆にぐっと、おすもうさんが身近になった。
こうした高橋さんの、「のほほんによる相撲分析」によって、さまざまな相撲に対するイメージが変わっていったのだが、極めつけな腰砕けが、
「なぜ相撲が日本の国技となったのか」
という理由について調査したときの話だ。
(続く→こちら)