谷川浩司はブレイクするまでに、意外と時間がかかった印象があった。
谷川といえばデビュー前から大器の誉れ高く、
「中学生棋士」
「21歳で名人獲得」
ほとんど最短距離で棋界の頂点へ駆け抜けた男。
となれば、その歴史は「勝利の歴史」のように見えるが、実はこの名人獲得以降、次の頂点である「四冠王」までけっこう苦戦していた時期もある。
これにはリアルタイムで見ていて、ヤキモキしたもの。
そう聞けば
「まあ、羽生さんがいたからねえ」
という声が聞こえてきそうだが、それより以前に立ちはだかった男が2人いたのだ。
一人は同じ関西の南芳一九段
そして、もうひとりが高橋道雄九段。
中原誠や米長邦雄といった先輩と同時に、この「花の55年組」の腰の重いライバルが、谷川の前進をはばんでいたのだ。
ちなみにウィキペディアには単に「55年組」としかないけど、古い将棋雑誌とか読めばわかるけど「花の」がつくのが正解。
もっとも、その後「羽生世代」の台頭からタイトルを取れなくなっていったので、なんとなく呼びにくくなったのでしょうが。
それはともかく、南と高橋が谷川の進撃をはばんでいた時期があった。
特に高橋は谷川が名人位を失い無冠に転落した後、やっとこさ手に入れた二冠目の棋王を奪い取ったうえに、内容的にも遜色ない将棋を見せつけ、
「最強なのは高橋道雄」
という評価を確固たるものとしていた。
しかも高橋は王位のタイトルも持っていたため、高橋道雄王位・棋王と谷川浩司九段と差をつけられることに。
棋史に残ることが確定のスーパーエリートで
「選ばれし者」
「神の子」
としてその華を振りまきまくっていた谷川にとって、追ってくる立場だった高橋にコテンパンにのされたことは、大いにプライドも傷つけられたことだろう。
このあたり私も見ていて、
「谷川は大丈夫やろか。これはもう、下手したら高橋と南に全部持っていかれるで」
なんて心配したものだが、さすが谷川もそこでシュンとしているだけではなく、徐々に巻き返しを図っており、その勢力争いは混沌としてくるのだ。
1987年の第28期王位戦は、高橋道雄王位・棋王に谷川浩司九段が挑戦することとなった。
前期は高橋相手に苦戦することが多かった谷川だが、このシーズンは復調の気配を見せており、またこのシリーズも、
「全局、ちがう戦型で戦う」
と宣言。
第2局ではめずらしい振り飛車穴熊を披露するなど、精神面での余裕も感じさせたころであった。
谷川の2勝1敗でむかえた第4局は、相矢倉から後手の谷川が右四間にかまえ、急戦調の将棋に。
飛車角を軽く使って襲いかかる谷川に対して、高橋は受けに回る。
むかえたこの局面。
後手が△13角とのぞいて、先手が▲57金と角出を防いだところ。
一見、先手が押しこまれているようだが、こういうところをガッチリ受け止め、ビクともしないのが高橋の強いところ。
△36の銀が攻めに利いているのかどうか微妙で、下手すると取られてしまう可能性すらあるが、ここから谷川が「前進流」と呼ばれた勢いの良さをみせるのである。
△27銀成、▲同飛、△35角が谷川らしい強気の踏みこみ。
飛車を取られるから、先手は▲35同角と取り返すことができない。
▲37銀と受けるのが形だが、そこで△36歩と打てるのが自慢。
▲同銀に△26飛で、やはりきれいに突破されてしまう。
まずは谷川らしい華麗なワザが決まったが、そこは高橋も負けていない。
△35角にあわてず、じっと▲88玉と上がるのが「地道高道」らしい、しぶとい手。
先制パンチをもらっても、そこで安易に折れない精神力は見習いたいところで、谷川も過去に「これで決まった」と思われたところから押し出せず、逆転負けを食らったケースもあったのだ。
以下、△26飛、▲同飛、△同角で駒損だが、▲37銀と追い返し、△71角に▲61飛と王手角取りの反撃。
これには△51飛の合駒がピッタリなのだが、そこで▲65飛成と成り返っておいて、飛車を守りに使わせたのが大きく、まだこれからだと。
谷川は△38角と打って、さらなる駒得の拡大を図るが、高橋も▲63銀と反撃。
これが、「玉飛接近すべからず」で、なかなかにきびしい。
放っておくと、▲52銀成、△同飛に▲61竜と入って、△51飛に▲52金でつぶれる。
かといって▲52銀成に△同玉は危なすぎて、考える気もしないところだが、なんと谷川は平然と△29角成。
いやいや、そんなのんびりして自陣は大丈夫なのと、谷川ファンなら目をおおいたくなるところだが、ここからスターが魅せます。
高橋は勇躍▲52銀成と取って、△同玉に▲63金とヒジ打ちをかます。
△41玉しかなさそうだが、それには▲62金から大駒を取り返して、自玉は矢倉の堅陣が残っているから先手が盛り返している。
こんな場面を見せられたら、やはりファンとしては「だから、ゆーたやん!」と声を上げたくなりそうだが、なんのことはない。
すべては谷川浩司の手のひらの上だったのである。
△61玉と、危ない方に落ちるのが、盤上この1手の絶妙手。
この局面、飛車角金銀香のどれかがあれば詰みだし、桂馬があっても▲53桂で寄るのだが、あいにく先手は弾切れ。
手持ちの一歩で▲62歩でも詰みなのだが、あいにくの二歩。
なんとここで、すでに先手の攻めは切れている。
あと一歩、指一本でも伸びれば後手玉はおしまいなのに、それがかなわない。
まさにミリ単位で相手の切っ先を見切った、完璧な受け止め方。
もちろん、この局面だけを見れば、△61玉を指せる人はいるだろう。
だがそれよりなにより、このずっと前の、おそらくは△27銀成と飛びこんだあのあたりから、
「これで受け切り」
と読み切っているわけで、それがすさまじいではないか。
なんという見事な玉さばき。まさに神業。まるで大山康晴名人のような、見事なしのぎではないか。
まさかの真剣白刃取りを前に、高橋は懸命に寄せを考えるが、ここではすでに将棋は終わっている。
高橋も劣勢の中、なんとか手をつなぐが、いかんせん戦力が足りないうえに、敵玉近くの筋に歩が立たないところも泣きどころだ。
次の手が決め手になった。
△94銀と打つのが落ち着いた受け。
ここで△57歩成は、その瞬間に▲63銀成とされて逆転する。
将棋の終盤は、本当に怖い。
谷川がそんなヘマをやらかすはずがなく、冷静な手で望みを絶った。今度▲63銀成には△83銀と取る手がピッタリ。
銀を打たれて、ここで高橋が投了。
攻守に会心の指しまわしを見せた谷川は、第5局も制して(その将棋は→こちら)王位奪取。
その後の棋王戦でも、フルセットの末にリベンジを果たし初の二冠に。
最優秀棋士賞も獲得し、ついに「最強」の座を高橋道雄から奪い返すことに成功したのだった。
(「谷川強すぎ」時代の絶妙手がこれ)
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