青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

青い鳥の幸福論 六、

2009年02月01日 | 人生設計

「因」が「縁」を結ぶ時、三つの形の反応が現れる。それは以前にこのブログで、「自発的対称性の破れ」の現象として二つの形、一つは「普遍的」、もう一つは「一般的」なという二つの現象が現れると述べたが、このうちの「一般的な現象」には、又二つの形の現象がある。
この二つに、「普遍的現象」を加えて三つとしたのが、今回でも述べる「因」が「縁」を結ぶときに現れる三つの形である。
普通は、この内の「普遍的」な「縁」の現れ方は、あまり馴染みが無い。
この「普遍的に現れる(縁)の現象」は後に述べるとして、先に「一般的現象」の二つの形について述べる事にする。

前にも述べたが、「自発的対称性の破れ」にしても「因果」にしても、そこには何の「思い、思惑」があって行われるものではない。ただ「行われるだけ」で、強いて言えば、「少なくなり無くなりそうなので満たそうとする」とか、「溢れてこぼれそうになったので削減させる」として、調整し調和を保とうとする行為だとも言える。
この行為として、二つの行い方がある。

一つは「自分を先に、他を後に」という行為。
もう一つは、「他を後にして、自分は後にする」という行為の、二つがある。
この二つの行為の内、私たちが主に行うのが、初めの方の「自分を先に、他は後に」という行為である。私たちが「幸福、幸せになりたい」という思いは、そういう「求める」という思いが、人よりは「自分が先に」なるように願っている。

この「自分が先に・・・」という思いは、「自主性、自立性、独立性」などを持ちながら、傲慢になりがちになる。
一方の「他を先に・・・」という思いの行為は、「謙虚、譲る、愛情、思いやり」といったものを持ちながら、引っ込み思案といったものにもなり、依存的にもなる。
もっとも「依存的」になるのは、「自分が先に・・・」という事にも、依存的な面を持っているから「自分が先に・・・」と言える訳なのだが、そういうことに気が付かないでそういっている。

いずれにせよ、この「自分が先に。。。」とか「他を先に・・・」とか言う思いから「因」に対して「縁」を結ぼうとする時、これは仏教の思想で取り上げられる思想だが「貪,瞋、痴」に陥ってしまう。 
貪(とん)」とは「欲をむさぼる」こと、「瞋(じん)」とは「怒り、腹を立てる事、「痴」とは「物事の道理を知らずに愚痴を言う」事を指す。

私たちは、一秒一刻何らかの発生する物事や事象に直面し、それに対して反応を示さなければならない。それは切望する「幸福、しあわせ」となるようにしたいと思い願って、対応する。だがその思いとは裏腹に、一般的」には「自分が先か、他が先か」という事となり、それが「貪,瞋、痴」という「幸福、しあわせ」というような「平安な、安らぎのあり、喜び、うれしさ」とは程遠いものになってしまっている。
                                                                             

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