私たちの生き方は、一般的には「自分が人より先に・・」か、または「他を先にして自分は後に・・・」するかの選択をした生き方となっている。
この「自分は先に・・」という生き方は、他の犠牲もいとわないし、一方の「他を先に・・・」という生き方は、自分が犠牲になる事を覚悟しなければならず、その忍耐も必要になる。こうした事から「これだけした」とか、これだけしてやった」とか言う愚痴を出す。
「幸福、しあわせ」を求めながら、ますます「貪,瞋、痴」に陥ってしまい「貪り、怒り、愚痴」に明け暮れる事になる。
「幸福、しあわせ」というものは、もとより自分がなりたいものであるし、又「他の人達」にもなってもらいたいものでもある。しかし自分における「幸福、しあわせ」というものを見ると、自分中心になると、「幸福やしあわせ」は、「貪,瞋、痴」に変わりがちになる。
かと言って「他を先に・・・」と自分を後回しにしようとすると自己犠牲にさいなまれ、惨めになる。
こうした事から、前にも述べたように「自己放棄」、すなわち「自我」を捨てなければならなくなる。
「自我を捨てる、無我になる」という事は、無責任になるという事ではない。「幸福やしあわせ」を「求める」とか「与える」という事には、一方の立場に立つと「責任」と「無責任」がない混ぜになるが、双方のとか全体の立場に立つと、「責任とか無責任」は意味を持たない。
これは私達が、「出生し生存」しているのは、「幸福やしあわせになるためにである」という事を前提としていないからである。ところが普通の私達は、この「幸福やしあわせになれる事」を前提にしている。
私達は、ただこうした事を「身勝手」に決めて、思い込んでいる。最初から「幸福やしあわせになれる」と、決め付けている、という事に問題がある。
童話「青い鳥」の内容は、「幸福やしあわせ」を外部に求めても無く、内部にあることを諭しているが、その事は取りも直さずに「身勝手」に思い込み、「最初から幸福やしあわせ」が約束されているわけではない事を物語っている。
ではこの稿も終わりにするにあたり、締めくくる事にする。
釈尊は、次のように語られている。
琴の糸は、強く張っても、弱く張っても、妙なる音を発しない。一番妙なる音を発する事をできるのは、強くも無く、弱くも無く、糸が張られた時である。私たちの心の糸も、緊張したままでは「幸福やしあわせ」には程遠く、かといって「だらけた放埓」な生き方をするのも身を滅ばす。
緊張するでもしないでもない、その中間の心を「中道」という。
この「自分は先に・・」という生き方は、他の犠牲もいとわないし、一方の「他を先に・・・」という生き方は、自分が犠牲になる事を覚悟しなければならず、その忍耐も必要になる。こうした事から「これだけした」とか、これだけしてやった」とか言う愚痴を出す。
「幸福、しあわせ」を求めながら、ますます「貪,瞋、痴」に陥ってしまい「貪り、怒り、愚痴」に明け暮れる事になる。
「幸福、しあわせ」というものは、もとより自分がなりたいものであるし、又「他の人達」にもなってもらいたいものでもある。しかし自分における「幸福、しあわせ」というものを見ると、自分中心になると、「幸福やしあわせ」は、「貪,瞋、痴」に変わりがちになる。
かと言って「他を先に・・・」と自分を後回しにしようとすると自己犠牲にさいなまれ、惨めになる。
こうした事から、前にも述べたように「自己放棄」、すなわち「自我」を捨てなければならなくなる。
「自我を捨てる、無我になる」という事は、無責任になるという事ではない。「幸福やしあわせ」を「求める」とか「与える」という事には、一方の立場に立つと「責任」と「無責任」がない混ぜになるが、双方のとか全体の立場に立つと、「責任とか無責任」は意味を持たない。
これは私達が、「出生し生存」しているのは、「幸福やしあわせになるためにである」という事を前提としていないからである。ところが普通の私達は、この「幸福やしあわせになれる事」を前提にしている。
私達は、ただこうした事を「身勝手」に決めて、思い込んでいる。最初から「幸福やしあわせになれる」と、決め付けている、という事に問題がある。
童話「青い鳥」の内容は、「幸福やしあわせ」を外部に求めても無く、内部にあることを諭しているが、その事は取りも直さずに「身勝手」に思い込み、「最初から幸福やしあわせ」が約束されているわけではない事を物語っている。
ではこの稿も終わりにするにあたり、締めくくる事にする。
釈尊は、次のように語られている。
琴の糸は、強く張っても、弱く張っても、妙なる音を発しない。一番妙なる音を発する事をできるのは、強くも無く、弱くも無く、糸が張られた時である。私たちの心の糸も、緊張したままでは「幸福やしあわせ」には程遠く、かといって「だらけた放埓」な生き方をするのも身を滅ばす。
緊張するでもしないでもない、その中間の心を「中道」という。