青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

我がもの

2009年02月22日 | 人生設計

私達の人間世界の世の中を見ていると、その世の中や社会を混乱させる「元」ともなっているのは、どうも「自己」というものに囚われ過ぎることにあるようだ。
この「自己に囚われる」という事は、何も「自分の心や肉体」にのみ囚われているのではなく、何かと「我がものという思い」に囚われているという事にある。

私達は「何かと自分のもの」にしたがる。それは「物」に限らず、人や他人を「自分の思い通り」に使いたがる。「運命」さえも思い通りにしたがり、それで吉凶を占ったりする。自分の肉体についても、我が物と思うが故に、「豊かになりたい」とか、「旨いものを食べたい」とか、「きれいになりたい」とおしゃれをしたり美容をしたりする。
一方病気になったりすると、何が何でも治りたいと足掻き、移植手術もいとわない。

これは先日実際あったことだが、子供が欲しい一念で体外受精を行って妊娠したのはいいが、その受精卵は他人の受精卵だったとかで中絶する破目になっている。
この事は「医科学を我がものにできる」という事の限界でもあり、いくら「子供が欲しい」と言う事を「我が思いにできる」と言う事への、警鐘でもある。

この事は、私達が、その存在性に「利己性」が無い事を意味している。「俺が、私が」と言う事が、できないことである。ある意味では、いつまでも「自己主張」ができないということでもある。
今日政界や社会問題になっている「かんぽの宿」問題なども、「かんぽの宿」を管理できたからと言って「我がもの」と思っていたような「日本郵政社長」など、言わば自分のものではないものを「我がもの」としていた事に非難が集中している。
企業なんかも、景気が悪くなって営業成績が悪くなったからと言って簡単に社員を解雇すると言うそれも、
会社を「我がもの」にしているような振る舞いに、更なる不況が追い討ちをかけるようになって自縄自縛のようになってしまっている。

しかしいくら「我がもの」と思っても、それらは全て自分の腕の中に抱え込んでいるものではない。一つとして自由になるものでもなく、相対するものの意図次第に関わっている。其の相対するものの意図すら、相対するものの自由になるものではないので、「我がもの」というものは、一つとしてない事になる。
それなのに私達は、何かと「我がもの」にしたがっている。

「我がもの」に拘らないでいるということは、一つの「諦め」かもしれない。
人であれ生物は、「生かされ、支えられ」て生きている。依存して生きている。だが何もかも依存して生きているわけには行かずに、「自助努力」していかなければならない。この「自助努力」の度が過ぎると、「我がもの」という思いになる。
だから、この「自助努力」の限界を知るという「諦め」を、意識しなければならない。

コメント
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