青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

真の武装 (下)

2009年02月12日 | 人生設計

この世に存在するものの全ては、「生命あるもの」といわなければならない。たとえそこにある石ころといえども、無からの生成があり、成長があり、そして崩壊して生物と同じように無に帰っていく。
すなわち、全てが「生命体」なのである。

こうした生命体が、生命体である時に、生命体らしくあろうと努力する。それは、その生命体がいつまでもあり続けるようにと、成長や病原菌や災害や何かの被害への予防や備えをするためだ。
それが、ここでのテーマである「武装」である。

この「予防や備え」は、単なる「予防と備え」に終わらない。生命あるものは、その生命を全うしていくために、生存競争にさらされていくからである。こうした生存競争に、打ち勝たなければならないからである。
生存競争に打ち勝つ手段として、「予防と備え」と同時に、「保身」という行為をする。この「保身」という行為は、いわゆる偽装でもある。
自分を飾り立てたり立派に見せたり、強く大きく見せたりする。そうして相手を、欺きだます行為がある。


だが「予防と備え」や「保身」は受身でしかなく、どうしても生命あるものは「攻撃的」にならざるを得なくなってくる。それは何か相対するものから、栄養分を得なければならない事による。このため生命体は、この栄養分を得ようと必死になる。
しかし、種が種を脅かすという事はない。又同じ種に対して「攻撃的な武装」をするということも無い。

ところが私達人間は、他の生命体に対してばかりでなく、同じ種である同種の人間に対しても、「攻撃的な武装」をしている。そしてそれは、概ね「保身」を名目にしている。
その形は、いちじるしい。騙したり偽装したり、果ては贈収賄もする。虐げ、いじめ、中傷、誹謗もする。権謀術数の限りを尽くす。
そして「やられたら、やり返す」という「報復、復讐」に出る。それも執拗なまでに行う。

こうした「武装」は、生命が生命らしく生きていくという心を超えた、過剰な「武装」になっている。それが私たち人間がしている「武装」なのである。
しかし悲しい事に、私達人間は、そうした過剰な武装をしないではいられないほどに「不安」になっている。
なぜ不安になるかと言うと、相手に不信を抱く事にある。それは、ひるがえって自分自身に不信を抱いている、その裏返しでもある。
自分自身を信じれば、このように過剰な「武装」をすることはあるまい。人として、人らしく生きるための「真の武装」を身に着けるだけでよい。
私たちには「智慧」が与えられている。その「智慧」によって「教養」が身につけられる。この「教養」を、無益な殺生になるような「武装」にすべきではない。伊達に、「智慧」は与えられたのではないからだ。

この「智慧」に基づいた「教養」を持って、「真の武装」をして、人は人らしく生きて欲しい。

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