掲示板への投稿記事 その三、
「針と糸」に述べたようなことが、「自他一体の」形である。
だがここで述べたものはその解釈の一つであって、「自他一体」についての解釈はこの他にもいくつもある。
ここでは、次のような解釈を一つ紹介する。
我々は「あれをする、これをする」という時に、そういう自分の中に「そうしたことをしてはいけない」と言う別の自分もいる。同じ自分の思いなのに「相反」した「相対」して「対立」している。それは「自己」に対する「他己」のようなものだ。両極端な「自己」だともいえる。
この時我々は、どちらかを選択しなければならない。
それは丁度、「欲しいものがあるが使い過ぎると生活に困る」となり、では「節約倹約して質素に禁欲生活」をするとなると、栄養失調なんかになり健康を害してしまう。
だから極端な生活ではなく、ある程度欲しいものを控え、必要なものは購入すると言う「折り合い、均衡化し、収支バランスをとった」生活法が望ましい。
それは両極端の中程となり、そこに二つになりがちな自己の思いの位置を定める。
それが「自己一体」の一つの解釈だ。
この位置のことを釈尊は「中道」と名付けられ、「琴の糸は強く張っても、弱く張っても良い音は出ず、中ごろの丁度良い張り具合に張った時に、最も良い音色を出す」と解説されている。
ここに「放棄、放心」の心がある。
ところでこの「放棄、放心」になるには、真実に心の「放棄、放心」になっていなければならない。「中道」にも至れない。
>> まだ「その放心を求むる」境地は程遠いようですね! <<
とこのように言っていて、さも自分は「放心」しているかのように言われていられるが、それ以前の文章や文体に見られるように「視線、目線、見識」らが、非常に高い。そういう高い位置に固定されていて、執着してしまっている。「放心」状態には、なっていない。
「放棄、放心」状態ならば、「視線、目線、見識」らを、一番下に持って行き、
「これはこういうことだと思いますが」とか「こうではないでしょうか」
と語りかけるようにすべきでしょう。
ことにこのトビにも、難解な言葉を理解できる人ばかり揃っている訳ではありませんから、そういう不特定多数の方に対して、一番判りやすく語るべきでしょう。