なんていう、金持ちな政党だこと。
「財源が、どうのこうの」といっていながら、この様はどういうこと。
私たち、障害者や年金生活者、解雇された派遣社員に非正規社員などは、そういう弁当でさえ、なかなか戴くことができないでいる。
そんなに相手の党の候補者に見せびらかすようなものなのなら、私たちに廻してもらいたい。
終戦記念日に際し、戦争と平和について・・・・
我々人間は、自分を「高等な生命だ」と思っている。「思っている」というよりも、「思っている節、きらい」がある。
だがよく己というものを見詰めてみると、これほどの「下等な生命」はいないことがよく判るはずだ。それはなぜかというと、我々人間ほど「権利意識」を持っている生命体は、ないからである。
「権利意識を持つ」という事はどういう事かというと、「権利主張」をすることである。それは「自己主張」であり、「利己主張」のことで、これらの行為を何故行うかというと、それは「幸せになりたい」からという思いにある。この「幸せになりたい」という事はどういう事かというと、それは「豊かになり、楽しめて、楽をする」ことであり、我々人間はそのために「そうなる権利を持っている」と言って権利を行使する。
そうした「権利」を持った上で我々人間は、この「幸せ」を実現させようとしてあらゆる物を利用しようとする。利用するばかりでなく、同じ種である人間同士が、取り合いをする。その様は「批評、批判」して、更には「非難、誹謗、中傷、陵辱」して、そして「いじめ、暴力」から「戦闘、戦争」へと発展していく。こうしたことを行う行為をするのは、我々人間という生命だけである。
他の自然に存在するものの生命は、人間のように「権利主張」をしない。生きていくために他種を食餌にはするが、同じ種同士が殺戮しあうことはない。ただ「ボスの座」をめぐって争うことはある。だがこれは、種を率いるためであり、「自己主張のための権利主張」ではない。
戦争は、人間が「権利意識を持つ」という、いわゆる「自我」を持つがために「自己主張」し、そして「幸せになりたい」がために「豊かさ、楽しさ、楽」を持つ「権利を持っている」と勘違いして取り合っていることから発している。
という事は、こうした下等な「権利意識」を放棄し、その逆に、「自我」無くして「無我」になり、「権利を持つ」ということを、「他のものに活かれているのだから、自分も他のものの役に立ち、他のものの力にならせていただく権利」と諒解するところに、我々人間ばかりでなく、人間と自然共、全体の普遍的な平和を目指すことができるだろう。