青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

掲示板  一、

2009年08月10日 | 人生設計
掲示板に書き込んだ記事・・・・

孟子の教えに限らず、先人の教えや言葉は、それは彼らが「勝手に正しい」と感じたものを述べたに過ぎない。
それが受け止め方によって「豚に真珠、馬の耳に念仏、それから何とかに小判」になったり、あるいは一転して「水戸黄門の印籠」になったりする。道端の小石も、「何だ石ころか」と思うものもいれば、「これは磨けば金剛石だぞ」と持って帰るものもいる。
それは受け取る人の「性質、性格、教養、知識、見識」などの力量に左右される。
だが「孟子」などの教えに接しても、一般には真偽が判明しない。それで自分の解釈が「正しく、人の解釈は誤っている」と競う合う。それは意味がない。
受け取り方は、どうしてもその人の性格などで特異な解釈がなされている。それを「こう知った」でいるのは「宝の持ち腐れ」なもの、金剛石の原石も磨かなければ光を放たないように、「知った」事も実際に行ってみて確かめて証明しないことには、それが「正しいものかどうか」判然しない。

先日家内が、バレーボール大のかぼちゃを切ってくれという。皮が硬くて女手で余る。男手でも余る。
このかぼちゃを、孟子の教えなど学問、教養、知識で実際に切ろうとしても、できない。切る人の「癖、体力」などに合わせた、コツがある。
「かぼちゃ」という「絶対的価値」があるものの前に、切るものは「個性」で、知識よりも包丁をどう動かしていくかを試行錯誤してやって、当たらなければならない。一夜漬けで、できたりせず、何度も試行錯誤して体得、習得していってこそ、できたときは「知った」ことが自分のものになる。
ただ「知った、判った」では意味がないし、「自分の考えと、人の考えの優劣」などは、論外のこととなる。
コメント
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