聖書には、我々人間が何故「苦しみ 悲しみ」に悶えなければならなくなったのかという事を、「知恵の実を食べた」からだと述べている。
この「知恵の実」とは何を意味するかというと、「自我」を持ったということを意味している。
更にこの「自我」とは、「自立心、独立心」を持った事を意味していなくて、「おれが私が」という「自我」の内に、「おれはこんなに優れている、俺はこんな事をした」と言い、だから「お前たちは俺の下働きをしろ」というような、後の事を人にさせようという「依存心、寄り掛かり」を持ったものでしかない。
それ故に仏教で言うように、この「自我」を「無我」にしていき、自己への執着を解放させるのが、信仰の目的になっている。
「自己への執着」を解放すには、「復活」しなければならない。
「復活」とは「よみがえる」という事でもあるが、「脱化する」という事でもある。「脱化」とは、さなぎが成虫になる事を言う。
我々人間も、浅はかな「自我」のしがらみにすがっていずに脱化して、「命の本質」に目覚める「復活」を成し遂げていかなければならない。
しかし知恵を持った人間なれば、一旦復活した身であっても、そこの留まり執着していては、ならない。
更に脱化し、更に復活していく事に信仰の意義がある。