青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

「宗教観」のまとめ   上

2011年12月21日 | 宗教観

人は、信ずることができる時、「ほっ」として平安を得る。

人は、望みがある時、「生きていこう !」という意欲がわいてくる。

人は、愛を感じる時、「あっ、生きていて良かった」という感謝がわいてくる。

この時に人は、柔和になる。

 

人生は、経験によって納得的に理解される。実験によっては、本当の理解に至らない。

 

人間は、人間としての自分に目覚めてみて、人間としての価値観を見る。

この価値観が、自分がどこへ行き、どのような境遇に見舞われても一緒になって附いてくる。「喜び、嬉しさ」なら「喜び、嬉しさ」のままに、「苦しく、悲しい」なら「苦しく、悲しい」ままに。

 

人間には、その潜在意識として「魂、霊」が存在している。

人生という命の経過は、この「潜在意識に存在する「魂、霊」の発掘作業となる。この「潜在意識の中の魂、霊」の思いに目覚め受け入れるなら、人生は楽しい。

しかしながら人間は、「潜在意識」にたどれない「深層意識」の持つ「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」に押し潰されてしまい、心の平安、精神の平安が得られないでいる。これは何によって押し潰されるかと言うと、人間は「体と心、精神」を自分自身という思いがあることによる。

この思いが「深層心理」を形成し、「深層意識」化していき、自分と外界との軋轢に混乱している。
こうした「深層心理の深層意識」を、「命の本質」である「魂、霊」の思いを受け入れさせることによって、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」感を氷解させていくのが信仰ということとなる。

別に言うと、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」を氷解させようということは捨て去る事となり、しかしただ捨てたなら廃棄する事としかならず、その行く末が定まらない。
行く末が定まらなければ「迷う」。「迷う」ということは、「亡霊、幽霊」となってしまう。
こうした行く末に迷い「亡霊、幽霊」とならないようにと、十字架の上で張り付けられ、すべての「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」感、即ち「原罪」を背負っていったのが「キリスト」である。
そしてその果てに、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」感を持たない新しいものとして「復活」していく。

それ故が持ってして、ここで言う「キリスト」とは、「自分がいて、キリストがいる」という事のキリストではない。
自分の中にキリストを持ち、その自分の中のキリストに、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を背負わせ、それを自分の手で持ってして十字架に掛けて処刑してしまおうということである。
その後、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などの「原罪」がきれいに処刑させてしまった後、こうした「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などの「原罪」を持たない新たなる人間としての自分が誕生する。それが「復活」なのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする