国債発行額、過去最大 12年度、174兆2313億円(朝日新聞) - goo ニュース
首相も閣僚も官僚も、そろってやり繰り下手だ。
我々庶民は、欲しいものがあっても借金を控え、控えるばかりでなく何かと物価高の折、無駄を切り詰めている。
ところが「松下政経塾」出身と言いながら、こんなやり繰り下手な首相や閣僚や官僚はいない。
今に、この借金に責任取らず、消えていく。
「帝王学」とは、君主となるために修めなければならない学問である。「君主」となり「君主」とならんが為に「帝王学」を治め、国民の手本となり、より良い社会を作り、またそれが他国との関係が良好に保つように努められる。これは単に学問であればいいのではなく、実践や行為と示すことに意義がある。
今年春の「東日本大震災」時、今上天皇はいち早く被災地に駆けつけられ、被災者たちを慰められ、労われている。またこの震災に伴い発生した「原発事故」のための節電には、率先して皇居内の節電に努められ、猛暑の夏期も耐えてこられた。
一方の「君主」とも言える首相や閣僚、官僚の方は、「事故被害」の隠匿や、「情報隠し」したりしていて、被災地域の方たちばかりでなく国民を混乱させてしまっている。この為に今だまだ「放射能汚染食品」などや「電力逼迫」などでも、腰が定まらない。
それどころか、自分たち国家公務員の給料やボーナスは削減せずに、「消費税増税、社会保障や年金給付」などは削減させたり、一旦決めた事をひっくり返してしまって平気でいる。
こうした事は巷にも多々あり、企業の首脳が会社の金を使って100億もの賭博をしたりするやら、粉飾決算、脱税なんかしている。
一般社会でも、校長や警察署長などが盗影するやら、親や子や妻を虐待する、そればかりか保護者のモンスターペアレントとか言われる自分勝手な要求などが、今の世に氾濫している。
「帝王学」とは、何も国主たるもののための学問ではない。
一般庶民の私たちとしてもこの「帝王学」を治め、「良き夫や妻に、親に、子に、社会人としての隣人に」なっていくために、絶対的に大切で必要とする学問である。
そしてこの「帝王学」で得られたものを、実践していかなければならない。
この「帝王学」の要となるものは、「信仰であり宗教」である。
人生で、一番貴いのは「体験」である。
「体験」の深いものや豊富な人は、自然と輝いている。
この「経験」ともいうべき境涯に耐えた体験は、真似をすることはできない。その人その人が、自分で体験しいき経験していくことによってのみ、育っていく。
この「体験や経験」は、自分自身の思い、それは「魂、霊」の住処が確立していなければ成り立たない。ちょっとした「喜怒哀楽」で揺れ動くのでは、「魂や霊」の落ち着ける住処が無くなってしまう。
しかしこの「魂や霊」の住処は、恒常的ではない。
「真理」を目指した一本道に向かって、脇目も振らずに新しい道を探し求めて、恥辱や苦難に耐えていかなければならない道である。
だが困ったことに、この「魂や霊」は見る事が出来ない。自分が持っていて胸の底に住み着いているのに、どれほど眼を凝らしても、また歳を重ねても、おいそれとは姿を現わしてはくれない。
この正体不明の「魂と霊」に目覚めさせてくれるものが信仰になる。
そしてこの「魂と霊」に目覚めた「心」こそ、本当の自分自身の「心」になる。この二つとない「心」に、一生を賭けよう。
先般述べたようにキリスト教では、キリストに「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を背負わせ、そのキリストを自らの手で処刑してしまう事によって、新たなる自分を再生「復活」させるというような教えになっている。
他方「三大宗教」の中の仏教においては、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を、「行い」によって自らが正していく「実践」を重んじている。
これを「勧善懲悪」ともいう。「良い事を行い、悪い尊は行わない」ということである。
しかし仏教というと、何だかんだと七難しい言葉を並べたてる。僧侶が読経するものも、それは元々到来した国の言葉であって、こちらの言葉ではない。こちらの言葉では無いが故に、読経を聞くものは眠気に誘われてり、退屈してしまう。
何れにせよ、言葉の文句というものは、云ってみれば「学問」であり「教育」みたいなものである。それを諳んじていれば、「信仰の何たるか、宗教の何たるか」を、身に着く事も着かせる事もできたものではない。
「勧善懲悪」というものは、それは実践するものであり、七難しい言葉の受け売りなどをするものではない。
ではどうすべきかというと、釈尊にまつわる次のような話が伝わっている。
釈尊には、老若男女の多くの弟子がいられた。
この中に兄弟の弟子がいて、兄の方は利発で賢い人なのだが、弟の方はその兄とは反対に「愚頓」な人だったという。云ってみれば「精神薄弱者、白痴」と言えるようだったという。この為この弟は、いくら釈尊の説教を聞いても、すぐに忘れてしまい、それで「自分は僧侶には向かない」と思って釈尊に還俗することを伝えている。
釈尊はその弟に、還俗する前に「埃を拭い、塵を払う」という行いを務めるように諭されました。
弟はこの釈尊の言葉に従って「埃を拭い、塵を払う」よう務めるのですが、こういう短い言葉も、すぐに忘れてしまう。それを兄や同輩の助けで勤めていって、この「埃を拭い、塵を払う」という事が、「心の埃を拭い、塵を払う」ことだと気が付いて、この事を更に勤めて、賢いといわれる兄より先に悟ってしまった。
我々は、何だかんだと七難しい文句に捉われる必要はないのである。今の釈尊にまつわる話に出た「白痴の弟」のように、ただひたすら「心の埃を拭い、塵を払う」ことに努めればいいのである。
それは「念仏、お題目」の「南無阿弥陀仏」とか「南妙法蓮華経」というものに、「阿弥陀仏に帰依する」という事、それは「阿弥陀仏」に「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を託してしまい、何の後腐れもない思いで「心の埃を拭い、塵を払う」という事に「専念しなさい」という事でもあり、ここに変わりない信仰心と宗教心とがある。
ただ「イスラム教」についてはよく知らないので、何等ともいえない。