青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

信仰、宗教の基本

2011年12月10日 | 宗教観

我々が「人生」というものに思いをやる時、つい身構えてしまう。
「どう生きるべきか、何をなすべきか」というように、ちょっとした緊張感で応じてしまう。
それは「信仰を持つ」という事でも、つい身構え緊張してしまうものだ。

このように「身構え、緊張」してしまうのは、「自分は生きている」という思いからなされている。しかし我々は「ただ息をしていて、したい事をする」ままに生きているものではない。
「息をしている」という事は、「命」があるということである。この命は、独りでに生まれたものではなく、「戴いた」ものである。
「親から」であり、それは「神仏」から授けられたものである。
しからばこの「戴き、授けられた」命の生き方は、必然的に「神仏」に相通じるものでなければならなくなる。
この「必然的に神仏と相通じる」生き方になっていくことを、「信仰」といい、この「信仰」に導く教えが「宗教」となる。

「信仰」に生きるためには、我々の思いと、「神仏」の思いとは、かけ離れている溝を埋める必要がある。
この溝を埋めるために「信仰、宗教」があるわけだが、その初めに、「神仏の思い」に近付くには、「したいのにしてはならない。したくないのにしなければならない」という、態度に立たなければならない。「したい事」をいつまでもしていてはならず、「したくない」と我儘言っている訳にはいかないのが、「信仰、宗教」の初歩であり出発点になる。
この「したいのにしてはならない。したくないのにしなければならない」という、態度に立たなければならない事は忍耐を必要としているものだが、そうした緊張感や身構えを持たないで、気楽にやれる方法がある。

キリスト教の聖書に、こんな記述がある。

 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(「コリントの信徒への手紙一」1031)

ここで言っている事は、「我々のすべての行いを、神仏が行う如くしなさい」ということである。言わば我々がすでに「神仏」になったつもりで生活をしなさいということである。いや生活だけでなく、「行い、言動」も、「神仏」が如き「良き行いと良き言葉」で行って行くことが、「信仰であり宗教」であるということである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳句 8.

2011年12月10日 | 俳句と川柳

★ 初雪に 暖かき園 長寿園     2011/12/9

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする