「福島在住はストレス」8割 福島、共同世論調査(朝日新聞) - goo ニュース
放射能が「どうのこうの」と言っているが、この状態は完全に把握することは、だれにもできない。ただ想像の、域を出ない。
専門家とか有識者といえどもそうであり、こういう完全さを把握できない以上、悪戯に口を開いて表に出せば、人々はうろたえてしまう。
それに輪をかけるのが、マスコミメディアである。
「情報の発信」を名目にし「報道の自由、表現の自由、といっているけれども、それらは神が見立てるような完全なものではないので、ただ混乱を招くものでしかない。
どんなにしても、人間は完全にはなれない。
完全になれないという事は、これで「安心安全」と思っても、必ず「想定外、意想外」が出現する。
神でも無い我々人間は、「知らぬが仏」になっていれば良い。
我々人間の生き方には、3種類ある。
その一つは「怠慢」な生き方。怠けていて、だらしがない生き方をする者の事である。
今一つは、この「怠慢」の反対に、厳しく生きようとする人たちの事を言う。これを「苦行道」ともいう。
「座禅や滝打ち、断食」などが、それである。
こうした「怠慢、苦行道」とは別に、もう一つの生き方がある。
こうした事を「浄土宗の祖」法然上人や、その法然上人の弟子であり「浄土真宗」の祖となった親鸞聖人が、示している道である。
この「易行道」という道、生き方とは、釈尊も明らかにされていられる「中道」そのものである。
釈尊は数年にも及ぶ「難行苦行」の末に到達されたのが、人間として正しく生きていくべき道が、この「中道」として示され、それを法然上人と親鸞聖人によって、「怠慢、怠情」でも無く「難行苦行」でも無い「易行道」が、普通の生活の中で得られる正道なのだと説かれている。
釈尊はこの「中道」について、かく説明されていられる。
「琴の糸は、ゆるく張っても、反対に強く張っても、良い音を発しない。
ゆるくも無く強くも無い中間の強さに張った時にこそ、琴は琴としての妙なる音を発する。それと同じように、心の持ち方、気の持ち方、精神の持ち方も、怠慢にならず、緊張させることのない中間であらねばならない」
この「中道」による「易行道」となると、どのような生き方になるかというと、一つの例を持って説明したい。
我々の家庭には、親子が住んでいる。
この家庭において、親が自分の小遣いでお菓子を買ってきて、自分だけが食べようとしている。そして子供がいるのに、分けてやらない。
このように自分が買ってきたお菓子だからと言って、子供がいるのに分けてやらずに一人で食べていて美味しいだろうか。
親子が一緒になって食べ合った方が、家庭が和やかになって美味しいし楽しいことだろう。
ここで、親が一人で食べようとするなら、「お菓子を買ってくるな」というのは、「苦行」になる。
菓子は買ってきても、一人では食べずにみんなで分け合って食べるという事が、「易行道」の精神だと言える。
ところが世間は、自分だけが金持ちになろうと一生懸命である。仕事で得られた利益は、がっしり懐に掴んで離そうとはしない。
仕事の利益だけでなく、仕事そのものも奪いあい、国家同士では領土の取り合いに資源の取り合いと、ここには「相手への思いやり」というものが無くなっている。
こういう環境では、人間社会の平和というものは、とてもではないがおぼつかない。
今人間社会に持ち込まなければならないのは、「宗教」であり、この写右京によってもたらされる「思いやり」を育ませていき、全ての人々が「易行道」に、「中道」に生きていくことしかない。
「青い鳥」は、それを願う・・・・・。