「易行道」とは、「南無阿弥陀仏」である。即ち「念仏」であり、これを「称名念仏」という。
これはまた「キリスト教」では、「十字架」に対して「アーメン」と唱えることであり、イスラム教では「アッラーの神に礼拝」することだと言える。
一般に我々は、行為というものを行う場合、「したいと、したくない」に分別している。
だが人間として、生命を抱かされた人間であるならば、「したいのに、してはならない」ことや、「したくないのに、しなければならない」という相対的で矛盾した事とに対応していかなければならない。
例えば掃除。
掃除してきれいにしておくべきなのだが、面倒くさい。そういう面倒くさいことなどしないで、遊んでいたい。それが「遊ぶような事をしないで掃除をしなさい」と言われてしまう。
しかし「易行道」は、前回でも述べたように片方に偏らない道である。
掃除をすることにしても、「掃除してきれいになった、みんなに喜んでもらえた」という様な、どちらとも偏らない中間の和やかさにあふれてくる道である。
普通「利己的、自己的」になりがちなのが我々なのだが、これを「他己的」を加えていく。
「自他一体」にである。
東日本大震災あす1年 仮設暮らし26万4000人(河北新報) - goo ニュース
東日本大震災に、それに伴った大津波も重なって原発事故の影響が、放射能汚染の瓦礫処理が進まない。風評被害も、払拭されない。
そういう状態にありながら、各地の停止中の原発を、経済のためや地域振興のためにと再稼働を求める声が大きい。
だが、良く考えてみるといいが、瓦礫処理などが進まず復興が遅れるのは、地震や津波だけなら早やかに復興体制が整うのに、原発事故という要因が絡んだことから、遅々として進まない。
ということは、原発の廃炉は、原子炉が安定している状態の内に廃炉してしまう事が、望ましいことになる。
事故が起きてしまってからでは、遅い。
どんなに「原発事故想定」した対策を、取ろうとしてもである。
http://news.goo.ne.jp/article/kahoku/life/kahoku_K201203100A0A103X00003_213537.html