吾々人間が人間として生まれさせてもらい、そうして人間として生まれさせてもらったということを、行為で示す必要がある。
だが普通吾々は、そうした事には関心を持たず、ただ「愉快に、楽しみ、楽をする」といったことに明け暮れてしまう。それは「娯楽に、スポーツや芸能事」にとか、あるいは身を飾るとかして過ごしている。
こうしたことが齢重ねて、「退職したから、子育てが済んだから」と言っては、こういう事に明け暮れようとする。
こういう人たちに、週刊誌などでは「不倫、浮気」をそそのかすような記事さえ見られ、人間としての余生や終生に対する論理観がない。そのためにその時になって慌てている。
「何で自分が、こんな目に合うのか」というようにである。
例えば現在の異常気象や自然災害に遭遇するとか、思いもしなかった「ガン」に侵されていたとか、蓮如上人がのたまわれた「朝に紅顔、夕べにサレコウベとなれし身なり」のごとく、一寸先はどうなるか判らない。
もっとも「後は野となれ、山となれ」と言っていられるならいいが、そんな事を言っていても、厭が上でも泣くことになる。
われわれは、学年年齢に達すると学校へ行き勉学している。学問に講じていた。
だがそれが、学業を終えると、後は好き勝手のし放題にしている。
しかし我々が人間として、人間らしく生きていこうとするならば、この人間らしく生きていくための対処と善処法を、一生涯にわたって探し求めて行く必要がある。それを勉学し、学問して求めていかなければならなくなる。
そうして行かないと、いざという時に慌ててしまうことになる。
「ウザウザ、愚図愚図」していては、ならない。