話せぬ被告、タブレット端末で筆談 さいたま地裁裁判で(朝日新聞) - goo ニュース
生育途上で耳が悪くにり、手話ができない人たちのためにも、こういブレットで会話できるようにするといい。
それは被告ばかりでなく、裁判員にも持たせるといい。
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASG5952Z3G59UTNB01H.htmlうダ
後絶たぬ鉄道自殺 ホームドア設置、巡回強化…「根本策ない」各社苦悩(産経新聞) - goo ニュース
安倍首相の上げる「アベノミクス、デフレ脱却」に煽られて、利益至上主義という金儲け主義に陥っているため、その波に乗れない人たちは、このように自らの命を絶っていく。
資本な主義というものの恐ろしさ。
それでもって、この金儲けけを目指して都会へ都会へと集まってきた人たちが、人の多さに弾き飛ばされて沈んでいくことになる。
一方の地方は、人口滅になり、こちらの方も過疎化が進行していき、沈没への道を歩みつつある。
第一この金儲け主義というものは、「自分だけが」という所に、世情を狂わし混乱させる要因が忍んでいる。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140511046.html
④
お釈迦様には、ある兄弟の弟子がいられた。
兄の方は目から鼻に通ずるような賢い利発な人だったが、弟の方はその反対に愚痴のような人だったという。いわゆる精神薄弱者で「白痴」と言われていた。
弟はこういう障害を持っていたために、お釈迦さまが説かれる説教を聞いても、すぐに忘れてしまう。それで弟は、「自分にはお釈迦様の弟子は務まらない」と感じて、教団を去り還俗したいとお釈迦さまにお許しを願い出ている。
これに対してお釈迦様は、
「ちりを拭い、埃を払うように努めなさい」と諭されて止めなされた。
弟は「こういう簡単なことならできる」と止まったが、しかしこれだけのことでも忘れてしまったりしたが、兄や同輩の助けで思い出し、とどのつまりに賢く利発な兄より先に悟りを開いてしまわれている。
次にこれはキリスト教の女性の修道士さんの書かれた本の、一節を紹介しておく。
一人格として生きるために
「お前は、何かにぶつかった時、反射的に行動し、
それから感じ、それから考えるという順序で生きてき たのか。
それともその逆の順序だったのかい」
「その通りです」
「だからお前はここにいるのさ。これからは逆の順序でやってみな」
まず考え、次に感じ、
その後に行動する。
考えるということは、自分と対話すること。
自分自身に語りかけ、次の行動を決めなさい。」
以上を参考にしてもらって、本題に入ることにする。
先にも述べたように、この世に存在するものすべてには対象となるものが存在し、それらは皆逆の、反対の形状や性質のものになっている。この事は、我々人間の精神、心においてもいえる。「善と悪」がそうである。
では我々人間に対する対象とは、何だろうか?
我々人間に対しての対象とは、それは「神」であり「仏」がそうである。又「天国や極楽浄土と地獄」、「此岸に対する彼岸」、そして「餓鬼畜生や悪魔に対する天使」となり、これを更には、人間に対して「宗教と信仰」が対象ということができる。
ここで仏教を例に取ると、「仏の教え」とはどういうものかと一言で言うと「勧善懲悪」という。『善いことをし、悪を成さず』ということである。
そしてではこの「人間と仏との関係」という事をどう述べているかというと、
「したくないのに、しなければならない
したいのに、してはならない」
こういう関係にある。
これを簡単に言うと、「掃除や手伝い」などは、「したくない」と思うのが我々である。
また「楽をしたい、楽しみたい、遊びたい」という上に、大人ともなると「たばこを吸いたい、賭けごとをしたい、飲酒をしたい」となり、更には「不倫や浮気をしたい」という事にまでなる。
こういう事は、先にも述べている「六感」によって心が動き、すぐに自分にとって快いものにしようとするために、「したくない、したい」と行動に出てしまいがちになる。
そうしたことをキリスト教の修道士さんが述べているように、すぐに行動に移さずに、そうするとどういう事になるか考える余裕を持たなければならない。
「掃除や手伝いをして上げる」と、どういう事になるか考えてみる。そうすると先生もお母さんなどみんなは、喜んでくれるに違いないと思うだろう。
また「したい」事をすると、みんなは怒り、恨み、悲しむことになると気が付き、そんなことは「しないでおこう」という気になるだろう。
こういうような気になるのは、物事を「自我」で考えずに「無我」になり、その「無我」は「我」が無いのではなく、自分を他のものに置き換えた「他我」ともいうべき人の身になり思いやって考えることによって気付くことになる。それによって「したくない」という事を自分から進んで「する気」になり、また「したい」という気を抑えて自分から進んで「しないでおこう」というようにしていかれることになる。
言わばこの「他我」は、自己と他己とを兼ね備えて、自他一体となり利他一体となって「無我」になっていき、お互いに助け合っていこうというものになっている。
これは仕事でする段取りいえば、「こうして、こうする」という事になり、また「こうすれば、ああなる」というような「縁起、因果、因果律」を用いたものとなる。
お釈迦様の弟の弟子も、六感で感じた物事に対して、それを受け止めた心というものに「ちりやほこり」が付いていないかどうかを、余裕を持って見詰めていき、そうして心が汚れないようにしていったことによって悟ることができた。
こうした心が汚れないようにしていくにつれて、強固に打ちつけられていた楔が、徐々に緩み始めていく。そしてポロリと抜け落ちた瞬間が、悟りの瞬間である。
その様子をお釈迦様は、鍛冶屋が使う金槌の持ち手の木が、次第次第に減っていく。それは今日はこれだけしたから、これだけ減ったなどとは判らないけれども、いつの間にか減っていき、それが持つ手に馴染むようになるという名工の如くに、荒んでいた我々人間の心も改善されていく。そして自分が自分の手で強固に閉じてしまっていた閂も門も開かれ、天国や極楽浄土へ行かれることになる。
以上のことが、「信仰と宗教」への出発点になる。そして輝かしい真の人間になれたことを、自覚できる。
校長、覚せい剤20回分所持か(共同通信) - goo ニュース news.goo.ne.jp/article/kyodo_…
新教育基本法なんかのために、極限まだ疲労がたまったりして、こういうことに手を出す。警察関係者も司法関係者や公務員も。