青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

教育基本法のあるべき理念

2009年02月15日 | 人生設計
元の、元の首相で、政権を投げ出してしまった人が、又何かとしゃしゃり出てきた。
曰く、

「国を愛する事を教えるべき」
「道徳心を教えるべき」

それは在任中に、「改正教育基本法」を成立させたからかもしれないが、それにしては政権を投げ出すような無責任なことをしておいて、自分の行動を棚に上げて「何を・・」と思う。

それに、一般的概念なんかとしては、「教育基本法」は子供たちの教育に関する法律であると言われがちだが、私はそうとは受け取らない。即ち、「教育基本法」の対象は、子供たちだけに限定する事は、間違いだと、言いたいのである。そして、「教育基本法のあるべき理念とはどういうものか」と言うものを、次のように思っている。

今日ニュース種になっている「人事院総裁、日本郵政社長」などのおかしな振る舞い。中でも「人事院総裁」は、公務員改革や行政改革や天下り斡旋、それに「わたり禁止の政令」なんかに反対しているが、その理由として「公務員全体の奉仕者」であるからだと言う。
だが原点としての「国民への奉仕者」と言う、原則としての基本を忘れてしまっている「無教育者」である。
こう言う「無教育者」は、よく政策の言動にぶれる首相ばかりでなく、贈収賄や汚職、偽装や捏造など、そのさまは政官界から財界や一般社会まで広がっている。
派遣社員切や内定取り消しなどを行うというのも、雇用社員のお陰で自分たちが安泰でいられると言う教育的論理観が、麻痺してしまっている。

最もひどいのは、「マスコミメディア」など報道機関である。いわゆる「国民の知る権利」を旗印に上げて「報道、表現の自由」を強調しているが、その行為が「マインドコントロール(洗脳)」行為的な教育になっていると言う自覚を持っていない「無教育」さがある。
それ故に「馬鹿笑い、下司な表現、暴行」などといったような描写などが表現される。

こう言う状態化にあるにせよないにせよ、「教員の免許更新制度」ではないが、誰しもが再教育を受ける必要がある。
「教育基本法」は、教育年齢を終わったからと言って、それで用がなくなればよいという法律であってはならない。国民全てが、老若男女にかかわらず、生涯に渡って受け入れるべき必要のある法といわなければならない。
そうしないと、この「教育基本法」の精神が生かされなくなる。

「教育基本法のあるべき理念」とは、教育と言うものは「哲学であり宗教」である事を自覚すべき事にある。
何故かと言うと、「こう言うことであるから、こう言う結果になる」と言う事を教えるものなのだから・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こう言う論理が堂々と

2009年02月13日 | 人生設計
元時津風親方全面否認「制裁ではない」(日刊スポーツ) - goo ニュース

「ははーーん !」
「ふーーん!」
と言いたくなる。
次の元親方が釈明した、こう言う理論、論理、道理、条理、概念なんていうものが通用するらしい。

「ビール瓶などで殴ったりしたのは、死因につながる暴行行為ではなかった」

そうなると、「人をナイフで刺し」ても、「死因につながる行為ではなかった」と弁明することができる。さらには、今流行の「振り込み詐欺」にしても、元々「騙す気は無かった」と弁明しているし、汚染流通米にしても、「最初から騙す気は無かった」で済まそうとしているのと同種である。
こうした事に弁護士が連なっており、弁護士は一体「被害者」側か、それとも「加害者」側なのかと、こんがらがる。

「こう言う論理」は、政界や財界なんかでも「堂々」とまかり通っている。
一々言ったらきりが無いし情けないから止めとくが、こうした「論理観」が無くなっているのは、宗教観が希薄になっているからだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実績会計主義に

2009年02月13日 | 人生設計
北陸新幹線の建設費増、新潟県が負担拒否「説明不十分」(朝日新聞) - goo ニュース

我々庶民には、収入に見合った支出をするように心掛けなければ、たちまち生活は行き詰まってしまう。前年度の収入、あるいは先月の収入実績で、今月分の支出の予定を立てる。

ところが国家予算や自治体予算編成などは、前年度実績から今年度の収入予想をして、その上で支出を決めると言う予算編成になっている。
これは「まだ無い金を使う」と言う、実績も実態も無いものを、支出に割り振ろうとしている訳で、後できちんと辻褄の合った決算ができるはずが無い。
収入には、その時々の情勢によって変動するから、どうしても「ローン地獄」のような有様に陥る事になる。

学校教育などでも、持ち金以上の買い物をしてはならない事を教えているはずだが、そうした事を教える立場の大人社会が、身の丈以上の支出をするような予算編成をすることを改め、「実績会計主義」を取るべきだろう。
そして事業を始めることに備えて、常に積み立て(預金)を心掛けていかなければならない。

今回のような事は、そういう「実績会計主義」が無かった事に原因がある。それにより、負担増しでもめる事になっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真の武装 (下)

2009年02月12日 | 人生設計

この世に存在するものの全ては、「生命あるもの」といわなければならない。たとえそこにある石ころといえども、無からの生成があり、成長があり、そして崩壊して生物と同じように無に帰っていく。
すなわち、全てが「生命体」なのである。

こうした生命体が、生命体である時に、生命体らしくあろうと努力する。それは、その生命体がいつまでもあり続けるようにと、成長や病原菌や災害や何かの被害への予防や備えをするためだ。
それが、ここでのテーマである「武装」である。

この「予防や備え」は、単なる「予防と備え」に終わらない。生命あるものは、その生命を全うしていくために、生存競争にさらされていくからである。こうした生存競争に、打ち勝たなければならないからである。
生存競争に打ち勝つ手段として、「予防と備え」と同時に、「保身」という行為をする。この「保身」という行為は、いわゆる偽装でもある。
自分を飾り立てたり立派に見せたり、強く大きく見せたりする。そうして相手を、欺きだます行為がある。


だが「予防と備え」や「保身」は受身でしかなく、どうしても生命あるものは「攻撃的」にならざるを得なくなってくる。それは何か相対するものから、栄養分を得なければならない事による。このため生命体は、この栄養分を得ようと必死になる。
しかし、種が種を脅かすという事はない。又同じ種に対して「攻撃的な武装」をするということも無い。

ところが私達人間は、他の生命体に対してばかりでなく、同じ種である同種の人間に対しても、「攻撃的な武装」をしている。そしてそれは、概ね「保身」を名目にしている。
その形は、いちじるしい。騙したり偽装したり、果ては贈収賄もする。虐げ、いじめ、中傷、誹謗もする。権謀術数の限りを尽くす。
そして「やられたら、やり返す」という「報復、復讐」に出る。それも執拗なまでに行う。

こうした「武装」は、生命が生命らしく生きていくという心を超えた、過剰な「武装」になっている。それが私たち人間がしている「武装」なのである。
しかし悲しい事に、私達人間は、そうした過剰な武装をしないではいられないほどに「不安」になっている。
なぜ不安になるかと言うと、相手に不信を抱く事にある。それは、ひるがえって自分自身に不信を抱いている、その裏返しでもある。
自分自身を信じれば、このように過剰な「武装」をすることはあるまい。人として、人らしく生きるための「真の武装」を身に着けるだけでよい。
私たちには「智慧」が与えられている。その「智慧」によって「教養」が身につけられる。この「教養」を、無益な殺生になるような「武装」にすべきではない。伊達に、「智慧」は与えられたのではないからだ。

この「智慧」に基づいた「教養」を持って、「真の武装」をして、人は人らしく生きて欲しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真の武装 (上)

2009年02月09日 | 人生設計
この世に存在するものは、全てのものがそれぞれに、それらしくなろうと手立てに勤めている。それが「素粒子の自発的対称性の破れ」という現象によって行われる。この「素粒子の自発的対称性の破れ」という現象によって、それぞれのものはそれぞれのものらしくなろうと努力している。
鉱物は鉱物らしく、液体は液体らしく、気体は気体らしく、そして生命体は、植物は植物らしくなろうとし、動物は動物らしくなろうと勤め励んでいる。
だが悲しいかな、完全にはなれない。それぞれが長所と短所を、併せ持つ。この欠点を補うために、絶え間ない努力を続けている。それは又、この欠点を突かれ、攻め込まれないために「武装」することでもある。

動植物でいえば、生き延びるために、そして繁殖していき子孫を残していくために、体格を大きくするとか色鮮やかにするとか、空を飛ぶとか水中に生きるとか、寒暖に強いとか、色々な環境に順応できるように変化させていった。そうした事が、動植物の「武装」だったといえる。
ところが私たち人間の「武装」は、こうした同じ生物でありながら、その武装の仕方は、「次元」が異なっている。

私たち人間の「武装」は、主に「報復と復讐」感情に満ちている。
もちろん「予防」という災害や資産管理や感染症への「武装」の仕方もあるが、今日の世情に満ちているのは「やられたからやり返す」といったような、その為の「武装」みたいなものが溢れている。
国会論争でも、裁判沙汰でも、テレビ番組でも、それらは早く言えば「報復と復讐」合戦みたいなものである。

私たち人間には、「智慧」というものがある。
その「智慧」を、人間として人間らしく生きる為の「真の武器」として活用してもらいたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後始末は誰が

2009年02月08日 | 人生設計
誰もが皆、「ああしたい、こうしたい」と言う。
あるいは「ああしなければならない、こうしなければならない」とも言う。それに「あれが欲しい、これが欲しい」とも言う。
しかしそうは言うけれども、その「後始末は誰が」するのだろうか。

現在の金融危機、経済危機に煽られて、政府などは「景気対策」と称して赤字国債発行してまでも予算を組もうとしている。「定額給付金」も、その一環である。
又「政府紙幣」とかの発行さえ、企てる輩もいる。
だがそうした事のつけは、必ず補わなければならないが、誰がそれを後始末をして補うのだろう。

「定額給付金」を給付して、イベントなどを行い客集めして、消費が少しでも拡大するのは良いとして、それによって「ごみ」や「交通事故、犯罪」などが増えたら、その後始末はちゃんとしなければならない。

そういう「後始末」をすることを前提として、ものを述べる必要がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大器」が無い

2009年02月06日 | 人生設計
今の世の中見ていると、「こんな人が」という人が重要な地位についている。なんでも、経験とか人望がある上に、社交というものがあるからだという。しかし金融危機に端を発した混乱期に際しては、こうした人達は、口だけ出すだけで何にもしない、頼りない存在でしかない。

大体において首相にしてからが、あれこれ言う。言う事にしても、たとえば「景気対策、雇用対策、社会保障対策等の充実」とは言っても、予算が成立しない事には執行できない。その予算成立は、「ねじれ国会」のために滞っていて、首相がいくら言っても、それは予算頼みのことでしかない。
首相がそれ程までに「景気対策、雇用対策、社会保障対策等の充実」と言うのならば、自民党本部の埋蔵金を使えばいいのである。

派遣村の人々に対する救済には、自民党本部は何もしなかった。これは自民党だけでは、無い。
他の政党本部らも、口では何やかやと言いながら、救済の手は差し伸べないでいる。
経団連も、商工会議所も、えらそうな事をたて祭り上げている宗教団体なども、我関せずを装っている。

わが国では封建時代ではあったが、飢きんなどで民衆が困窮を極めたとき、領主などが蔵を開いて米などを分配している。
混乱期には、そうしたことをする「大器」ある人々がいた。
しかし今日現在には、そういう人は、上に立つものの中にはいない。個人が、ボランティアとして、個々の人々が集まり、いわゆる草の根的な活動に支えられている。

これがマスコミメディアとなると、「言論の自由」といいながら、その言い分や言葉には重みが無い。実体が伴わない。伴わないだけでなく、「言いだしっぺ」でしかないし、先日はテレビでこんなのをちょっと見た。
公開番組なんだそうだが、色々な写真に亡くなった人の「憑依していると」いう画像を出席している何人かの子供たちに見せていて、怖がらせている。
こんな番組をちょっと見たのだが、こういう番組を放送する放送局の気が知れないし、こんな事を真剣に取り上げる人達の気が知れない。何故なら、もう亡くなってしまっている人達を、侮蔑、冒涜し、いじめ、中傷し、誹謗しているようなものだからである。こう言うことを霊障家とか、水子の祟りのお払いなどをするお寺さんが言うのだし、それをテレビなどでも取り上げて視聴率を稼ごうというのだから、首相じゃないが「さもしい」限りである。

それに比べて、派遣村で炊き出しの手伝いをする人達の方が、よほど「大器ある」人達だといえる。
もっとも、こんなこと言う私のほうは、足腰立たない情けない体で、言う事だけなのだが・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青い鳥の幸福論 終

2009年02月04日 | 人生設計
私たちの生き方は、一般的には「自分が人より先に・・」か、または「他を先にして自分は後に・・・」するかの選択をした生き方となっている。
この「自分は先に・・」という生き方は、他の犠牲もいとわないし、一方の「他を先に・・・」という生き方は、自分が犠牲になる事を覚悟しなければならず、その忍耐も必要になる。こうした事から「これだけした」とか、これだけしてやった」とか言う愚痴を出す。
「幸福、しあわせ」を求めながら、ますます「貪,瞋、痴」に陥ってしまい「貪り、怒り、愚痴」に明け暮れる事になる。

「幸福、しあわせ」というものは、もとより自分がなりたいものであるし、又「他の人達」にもなってもらいたいものでもある。しかし自分における「幸福、しあわせ」というものを見ると、自分中心になると、「幸福やしあわせ」は、「貪,瞋、痴」に変わりがちになる。
かと言って「他を先に・・・」と自分を後回しにしようとすると自己犠牲にさいなまれ、惨めになる。
こうした事から、前にも述べたように「自己放棄」、すなわち「自我」を捨てなければならなくなる。

「自我を捨てる、無我になる」という事は、無責任になるという事ではない。「幸福やしあわせ」を「求める」とか「与える」という事には、一方の立場に立つと「責任」と「無責任」がない混ぜになるが、双方のとか全体の立場に立つと、「責任とか無責任」は意味を持たない。

これは私達が、「出生し生存」しているのは、「幸福やしあわせになるためにである」という事を前提としていないからである。ところが普通の私達は、この「幸福やしあわせになれる事」を前提にしている。
私達は、ただこうした事を「身勝手」に決めて、思い込んでいる。最初から「幸福やしあわせになれる」と、決め付けている、という事に問題がある。
童話「青い鳥」の内容は、「幸福やしあわせ」を外部に求めても無く、内部にあることを諭しているが、その事は取りも直さずに「身勝手」に思い込み、「最初から幸福やしあわせ」が約束されているわけではない事を物語っている。

ではこの稿も終わりにするにあたり、締めくくる事にする。
釈尊は、次のように語られている。

 琴の糸は、強く張っても、弱く張っても、妙なる音を発しない。一番妙なる音を発する事をできるのは、強くも無く、弱くも無く、糸が張られた時である。私たちの心の糸も、緊張したままでは「幸福やしあわせ」には程遠く、かといって「だらけた放埓」な生き方をするのも身を滅ばす。
緊張するでもしないでもない、その中間の心を「中道」という。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青い鳥の幸福論 六、

2009年02月01日 | 人生設計

「因」が「縁」を結ぶ時、三つの形の反応が現れる。それは以前にこのブログで、「自発的対称性の破れ」の現象として二つの形、一つは「普遍的」、もう一つは「一般的」なという二つの現象が現れると述べたが、このうちの「一般的な現象」には、又二つの形の現象がある。
この二つに、「普遍的現象」を加えて三つとしたのが、今回でも述べる「因」が「縁」を結ぶときに現れる三つの形である。
普通は、この内の「普遍的」な「縁」の現れ方は、あまり馴染みが無い。
この「普遍的に現れる(縁)の現象」は後に述べるとして、先に「一般的現象」の二つの形について述べる事にする。

前にも述べたが、「自発的対称性の破れ」にしても「因果」にしても、そこには何の「思い、思惑」があって行われるものではない。ただ「行われるだけ」で、強いて言えば、「少なくなり無くなりそうなので満たそうとする」とか、「溢れてこぼれそうになったので削減させる」として、調整し調和を保とうとする行為だとも言える。
この行為として、二つの行い方がある。

一つは「自分を先に、他を後に」という行為。
もう一つは、「他を後にして、自分は後にする」という行為の、二つがある。
この二つの行為の内、私たちが主に行うのが、初めの方の「自分を先に、他は後に」という行為である。私たちが「幸福、幸せになりたい」という思いは、そういう「求める」という思いが、人よりは「自分が先に」なるように願っている。

この「自分が先に・・・」という思いは、「自主性、自立性、独立性」などを持ちながら、傲慢になりがちになる。
一方の「他を先に・・・」という思いの行為は、「謙虚、譲る、愛情、思いやり」といったものを持ちながら、引っ込み思案といったものにもなり、依存的にもなる。
もっとも「依存的」になるのは、「自分が先に・・・」という事にも、依存的な面を持っているから「自分が先に・・・」と言える訳なのだが、そういうことに気が付かないでそういっている。

いずれにせよ、この「自分が先に。。。」とか「他を先に・・・」とか言う思いから「因」に対して「縁」を結ぼうとする時、これは仏教の思想で取り上げられる思想だが「貪,瞋、痴」に陥ってしまう。 
貪(とん)」とは「欲をむさぼる」こと、「瞋(じん)」とは「怒り、腹を立てる事、「痴」とは「物事の道理を知らずに愚痴を言う」事を指す。

私たちは、一秒一刻何らかの発生する物事や事象に直面し、それに対して反応を示さなければならない。それは切望する「幸福、しあわせ」となるようにしたいと思い願って、対応する。だがその思いとは裏腹に、一般的」には「自分が先か、他が先か」という事となり、それが「貪,瞋、痴」という「幸福、しあわせ」というような「平安な、安らぎのあり、喜び、うれしさ」とは程遠いものになってしまっている。
                                                                             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする