★ 地球(つち)無くば 人生きること ままならず
尊みてこそ 人は生き行く 2011/10/23
人が生きるには、人間が中心になって行けば良いものではない。
人を生み出した、地球にこそあり、これを尊んでいくべきである。
相対論の行方 世界が注目(産経新聞) - goo ニュース
素人考えだが、光も、その組成要素は「ニュートリノ」となる。
だとしたら、「時間」の概念は、「ニュートリノ」が基礎となる。
こう考えると、「相対性理論」は、「光」ではなく「ニュートリノ」を中心にしておくべきこととなる。
生徒怒り、現場無力感…わいせつ教師続出の静岡(読売新聞) - goo ニュース
道議会出席拒否の北電社長、反発受け出席へ(読売新聞) - goo ニュース
平松市長「独裁標榜する政治家に振り回されぬ」(読売新聞) - goo ニュース
こんな調子の政界、そしてなんら「社会正義」に対しては、強者におもねるマスコミメディアの姿勢により、だんだんと悪化して行く。
「自らを正していこう」という、それは「信仰心」が薄いから、このように人々の心は荒んでいく。
「正しき信仰心」を身に付ける、努力が、今ほど必要としている時は無い。
★ 悲しさと 辛さの中に 光見る
幸せの中に 見えぬ光が 2011/10/21
「悲しさに耐え、辛さに耐え、苦しさに耐え」る中で見る、見つけ出す光は、「豊かになり、楽しみ、楽(快適、便利)」に生きようとする者には見られない、尊い光である。
「悲しさを避けず受け入れ、辛さを避けず受け入れ、苦しみを避けず受け入れよ」と・・・・・。
国の借金、年度末に1千兆円突破…復興債などで(読売新聞) - goo ニュース
土地取引2年後に書類作成 小沢氏「たまたま」(朝日新聞) - goo ニュース
「事務所費」と計上していたものが、「自分名義」として登記してあるが、「個人資産にする気はない」というのは、何とも並外れた迷言である。
こういう「迷言」が、たくさんまかり通っている。
そういう時代に、なったのだな。
それも、政治家が率先してやっている。
北海道電社長、やらせ問題で道議会出席を拒否(読売新聞) - goo ニュース
今の世の中では、三つのものが得意でなければならないらしい。
その一、 誤魔化し
その二、 言い訳
その三、 無責任
これら三つが揃えて持った人物ほど、世の中でもてはやされる。
全くどんなに事故や被害をもたらして、何度も何度も頭を下げても、後は何知らぬ顔で悠々自適にしている。
こういうのが、上に立つものほど、政治の上でも、社会の上でも、企業の首脳でも多い。
実に「天晴れ」なほどである。
しかし今の今日では、世界各地で「格差デモ」が続発している。
ゆめゆめ、油断あらせられるなよ。
「座禅」とは、前述したように「気配り」の上に立つものだが、ところが普通の我々は、この「気配り」に感情を入れてしまう。
生活全般において何かがあると、すぐに「喜怒哀楽」で応じてしまうのである。何かがあったなら、何かが起こったなら、それをそのままに受け入れない。「あったこと、起こったこと」に対して、感情で応えてしまっている。
「座禅」は、こうした「あったこと、起こったことけ」をさらりと受け止めて動じない精神状態に、自分自身の精神の安定を図っていく必要がある。
「精神の安定」を図っていくということは、普通は「あったこと、起こったこと」などに対して「喜怒哀楽」ということにしか執着できないでいて、「有りのままを受け入れる、有りのままに見る」ということに心を閉ざしていた扉を、思い切って完開し、「全てのものを有りのままに受け入れ、全てのものを有りのままに見る」ということとなる。
これは「心の扉」を開かない限りできない。「あったこと、起こったこと」に対して「喜怒哀楽」むき出しにしてそのことに執着していたなら、「愚痴、怒り、貪り」の三界に陥る。
だが「心の扉」を開くとき、外界のもの全てを受け入れるだけではなしに、自分自身の内部のもの全てを惜しみなく晒すことともなる。
「自分自身の内部を晒す」ことによって、それは「外部の全てを受け入れる」要素とも要因ともなる。
この「心の扉」を開き、外部のものを受け入れ、自分自身の内部を惜しみなく晒す、そしてこの「内部を惜しみなく晒し」て「外部のものを受け入れる」ということは、「気配り」であり、これは「能動性と受動性」であることを示し、その根幹を意味する事となる。
弘法大師が立てられた「真言密教」には、「胎蔵」という教えがある。
これは概要で述べると、我々が苦しみや辛さ、悲しさから解放されないでいるのは、秘密の蔵の扉を閉ざしたままでいるから、この秘密の蔵の扉を開きなさいという教えである。
そしてこの秘密の蔵の扉は、どこかにあるのではなく、自分自身が「自我、欲望」によって隠され、かつ閉ざしてしまっているもので、この「自我と欲望」を修行によって消滅させていかせるというのが「胎蔵」という名の示す通り、自分自身が隠してしまっている秘密の蔵を開かせることなのである。
しかし「修行や座禅」は、「修行や座禅」ではない。
「参禅必ずしも山水を持ちえず、心頭を滅却すれば火もまた涼し」
「修行にも座禅にも」、拘りなきままが、「修行であり座禅」である。
★ 窓の辺に 色付く山が 長寿園 2011/10/19
ディサービスでお風呂に浸かっていると、窓から小山が見えます。杉の木ばかりの小山のようですが、色付き始めました。
逃げずに犠牲「ばかなやつ」=平野復興相、発言後に陳謝(時事通信) - goo ニュース
誰も彼もは、いつも安穏としていられるものではない。
誰かの「犠牲」の上に、安穏としていられる。
そういう事を、政に関わるものが判らないという「幼稚」さ。
こういうのが、企業のトップにも多い。
何のために、その年になるまで人生体験してきたのやら、情けない事夥しい。