青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

座禅

2011年10月17日 | 人生設計

かってその昔、「末法思想」というのが持てはやされた。西洋で言えば、「終末思想」である。
こうした「末法思想、終末思想」が、天災地変や争い、それだけでなく「親が子を虐待し、子が親を虐待」するばかりでなく、「親が子を殺め、子が親を殺め」るのが日常茶番飯の如くなった現在、「心の安心と拠り所」を求めて、精神修行に精を出そうという人々が出てきている。
この精神修行には、いろいろな手法が紹介されているが、ここでは「座禅」について述べてみたい。

「座禅」というと、「只管打座」ともいう。
それは、「ただ座って執着を離れて無心になり瞑想」することを言っているのだが、どうもここのところが誤解されているように思う。

「座禅」とは、「無心になって静止して瞑想」することではない。「動」と「静」の中で、「自分を包み込むすべての物」に対して、「気配り」することである。この「すべての物への気配り」には自分自身」も含まれ、「すべての者に対して気配りして大切」にしていくと同時に、「自分自身を粗末」にすべきではない。
こうしたことを、ただ「座禅」している時に行えばいいというものではなく、行住坐臥、即ち生活全般においての事が「座禅」でなければならない。

この「すべてのものへの気配りをする座禅」は、必然的に「すべてのものへの思いやり、労り、心遣い」を持つことになる。これは「慈しみ、慈悲」である。「愛」ともいう。
自分ひとりだけのもののために行い物ならば、それは「座禅」ではない。

なお、「念仏業、お題目」なども、この「座禅」の一種に属せるものといえるが、騒がしさで人に迷惑をかけるのはよくないだろう。

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しめしめ

2011年10月16日 | 短歌に政治や社会

南スーダン部隊派遣へ最終調整=首相、航空観閲式で表明(時事通信) - goo ニュース

何とも、上手い事を言ってくれる。
「しめしめ」だ。
震災に大津波、それに原発事故で国民がまだ立ち直れず、それに電力不足で今冬を乗り切れるかわからず、追い打ちをかけるように消費税上げまでしようとしていて疲弊している最中、大切な税金、恐らくこれは国債発行してだろうが、PKO派遣しようとしている。
ただでさえこんな中なので、企業などは工場などの海外移転をしている処へ持ってきて、大切な財源を外部に持ち出そうというものだから、だんだんと中身は空洞化していく。 

ただ指を咥えていれば、この国は落城して行くね。

まったく「しめしめ」・・・・。

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誰も勝手に

2011年10月16日 | 短歌に政治や社会

消費税上げ「国際公約」に…G20で財務相表明(読売新聞) - goo ニュース

一般国民の多数は、誰一人消費税上げには同意していない。
それを勝手に国際公約して、後は国民に責任を押し付ける。
官僚の常套手段を使ってやっているけれど、後の付けは恐いぞ・・・・。

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原罪

2011年10月15日 | 人生設計

私は前述「人を許さずば」と「今日のディサービス」で述べたしたように、キリスト教徒ではないし、聖書に精通している訳でもない。
ただ、ひたすら「人として生まれてきたこと」の意味と、「どのように生きて行けば良いのか」を求めて止まないだけである。
そして聖書の「原罪」という言葉に出会い、突き当たる。

「原罪」とは、「今日のディサービス」の中でもちょっと述べたように、「生命あるものは生きたい、食べたい、子孫を残したい」という思いを持っている。そしてそれだけではなしに人間は、「知恵」というものを授けられたことから、「権力、財力、地位」を求めて止まないようになってしまっている。
一般としての概念に立つならば、この度を過ぎた「権力、財力、地位」志向が「原罪」に当たると言えるかもしれない。
しかしそれは「法を犯す」といった「人間の犯罪行為」を差しているもので、宗教的精神的道徳的ともなると、こうした事に限定することはできない。

我が国には親鸞聖人という、お方がいられた。
親鸞聖人は、人間はどんなに修業をしても、結果的には清浄で全くの善人になれないことを思い知らされ、人間としての自分自身を御仏の前に差し出されてしまっている。
そこには「人間自体が持つ罪、人間としての罪」という大きな命題に突き当り、この大きな命題の前には厭が上でも差し出すより外はなかったからである。

キリスト教では、罪を告白する「懺悔」という行いがあるが、これは「懺悔するもの」と、「されるもの」とが相対関係化している。親鸞聖人の場合は、「御仏の前に身を差し出す」という行いによって、「懺悔」は、自分自身に対して行い、またその「懺悔」を受けるのも自分自身という、「自他一体」化した行為になっている。
こうした親鸞聖人、その親鸞聖人の師であった法然上人の教えの元となる「絶対他力」の根本精神を垣間見ることができる。

「絶対他力」に、「原罪」を承服して行く、王道がある。

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短歌 311.

2011年10月15日 | 短歌に政治や社会

★ ただ一人 足元照らす 我が光
     誰に任せる この光をば  2011/10/15

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今日のディサービス

2011年10月14日 | 人生設計

先日、確か先週の水曜日だったと思いますが、新しい男性の利用者が見えられたとご紹介しました。この方は、「牧師さん」でいらっしゃられた方です。
今日もお見えになられまして、私がお会いするのは3度目。
今日この方にあって、ちょっと気にしていたことがあったので、思い切って話しかけ、お尋ねしました。
事はというと、私は私自身が記述しているブログがあるのですが、そこに先日、私はキリスト教徒でも、キリスト教については素人なのですが、「キリスト教」関係、「聖書」の事について私なりの思いを述べました。
それをセンターのパソコンで印刷して、この方に見てもらってご意見を伺った訳です。
今ではほとんど寝た切り、車いすに座ったきりで、食事も取れないお体ではありましたが、正確な「聖書」の言葉を覚えておられて、間違いの個所を指摘して頂きました。
お陰で私は、助かりました。
何せ次には、「原罪」という聖書に使われている言葉について、私なりの諒解をブログに書こうと思っていたので、とても参考になりました。
この方との話は、聖書にある「汝人を許さずば、師も汝を許さないであろう」ということについて述べ、また「何人も神と富とに兼ね仕えることはできない」、こういう述べ方がちょっと違っていたと教えていただいたのですが、それはそうと「原罪」という、人が「生きたい、食べたい、子孫を残したい」という思いだけでは無しに、それを超えた「権力、財力、地位」などを求めて止まないという「原罪」が、それが「何人も神と富とに兼ね仕えることはできない」という事に帰結すると思ってしまいます。
「権力、財力、地位」は、「私とあなた」という間柄があるからでありますが、私たちのようなディサービスを受ける身には、この「私とあなた」という間柄を持っていたら、気持ち良くディサービスを受けてはいられません。
私は昨年から、体にたくさん湿疹ができています。そんな体の私とを、ディセンターの職員さんはお風呂に入れてくれ、洗ってくれ、塗り薬を塗ってくれます。
もしここに「私とあなた」というような「分別、差別」があったなら、気持ち良く過ごすことはできないでしょう。
では聖書の「神と富とに兼ね仕えることはできない」ということとの関連となりますが、「原罪」からの脱却には、「私とあなた」との「統合、融合」による「統一」しかないことになります。云ってみれば、「私もあなたも無い、同じ命あるもの」と認め合うということですね。
「同じ命あるもの」と認め合うならば、自然と「ありがとう」と言いたくなってしまいます。
一端の拙い記述したものを見てもらったのに、牧師さんは「いいものを見せてくれてありがとう」と言って下さり、また次の日に会い、また記述したものを見てもらいたくなってしまいます。

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人を許さずば

2011年10月13日 | 人生設計

私は、キリスト教徒ではない。だから、聖書についても、詳しくはない。
その私が、今日こんな聖書の言葉に出会った。

「もし汝、人を許さずば、師も汝の罪を許さないであろう」

この言葉の意味は、すぐに理解できるだろう。
「苦しみを与えた」ものを許さずに報復したりするならば、師や神は、「このための罪を許さない」ということである。
一方私なりに諒解すると、今回の「東日本大震災」と、それに伴う「原発事故」や放射能汚染などに対して、この労苦を我々人間の罪として許さず、重ねて原発再開などして罪の見返りをしないならば、「師は汝の罪を許さず」ということになってくる。
この事を、聖書には次のように記されている。

「なんびとも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方を重んじ、他方を疎んじるからである。汝は神と富とに兼ね仕えることはできない」

この「神と富とに兼ね仕えることはできない」とい言葉は、大きなほど思い。
「安心社会、平和な世界、和やかな家庭」などは、「富」を求めるほどに崩壊していく。
むしろ「窮乏」に耐えていくことほど、「安心社会、平和な世界、和やかな家庭」などが築かれ易いといえる。
他方「富」ばかり求めていくとどうなるかというと、「取り合い、不平不満、愚痴、争い」が絶えなくなり、世の中は火炎地獄と化す。

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法治制度への挑戦

2011年10月13日 | 短歌に政治や社会

小沢氏側が異議「4億円の説明必要ない」(読売新聞) - goo ニュース

こういうような発言は、「法治制度」への、挑戦行為だ。

我々一般市民は、確定申告の時には、「収入と支出」とを明確に記述しなければならない。
それなのにこの人の場合は、「そんな必要がない」という。
それも、法制度に秀でたであろう弁護士資格を持つものが言う。

こんな具合では、「法治国家」がガタガタになってしまう。
「国民のため、国家のため」などとうまいことを言っているが、小沢一郎の腹の中は、こんなもんで「法治制度」に挑戦を挑んでいる。

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短歌 310.

2011年10月12日 | 短歌に政治や社会

★ 神無月 緑の山の 澄む空に
 今だ苦労する 被害者たちが     2011/10/12

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訴訟の相手

2011年10月11日 | 短歌に政治や社会

津波で幼稚園児死亡訴訟、園側が争う姿勢示す(読売新聞) - goo ニュース

よくもまぁ、こんなことで訴訟をしたがるものだ。
「訴訟、訴訟」といったって、この「訴訟」の相手を間違えている。
その「訴訟の相手」が誰かも判らずらに、角ばかり立てなさんな。

真の「訴訟の相手」はね、自然なんだよ。
自信を引き起こした、自然。
大津波を引き起こした、自然。
また、この自然の猛威によって原発の安全神話がもろくも崩れて、電力不安や食料品不安を駆り立てるのも、自然のなせるものだから、これも「訴訟の相手」になる。

自然を相手に、「訴訟」をしますか。

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