みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

こころコロコロころもがえ

2015年11月21日 00時29分01秒 | みう
こんばんにゃ。

最近また
心がすごく狭くなってイライラしやすかったり、
ゆるさを見失って思った通りに自分を使えなかったり、
自分にも他人にも窮屈さを感じてしまってます。

どっちが大きくなって、どっちが小さくなったのか分からないけど、それまでと同じようなフィット感を、或る日突然いつの間にか、感じられなくなったりする。

だけど、なんだろう・・・
「めんどくさい」
って言葉を人に使う事に違和感や残酷さを感じるように(たまに言っちゃって落ち込むんだけど)
トモダチを「着替える」「更新する」
っていうのも抵抗がある。

絶対の相性なんてなくて、人間関係なんて流動的なのは分かってるつもりなんだけど。

今つまらなくても、またいつか面白くなることもあると思うんだけど。

暑いから脱ぐ。
寒いから着る。
くらいの気軽さで、色々調節できたらいいのににゃあ

トリコロールが目に沁みる

2015年11月17日 23時11分13秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

パリでのテロを受けて、一部の国では色々なものを自由平等博愛に染め上げています。
これは(もしかしたら個人の所有物を個人の意思でやってる場合もあるのかもしれないけど、他所から見たら)「その国の意見」として受け止められると思います。

そういう意味では、日本の建物をトリコロールに染めるのはあまり好きではありません。

何かに迎合してるようにも見えるし、
何かをないがしろにしてるようにも見えます。

政治的にとか、国的な親密度とか、色々あるのかもしれないけれど、自分は釈然としないのであります。


この哀悼の意の表明方法について、特に気になるのは2点

1つは【パリ市旗でいいのでは?】って事。

パリ市旗とフランス国旗では、意味が異なる気がします。

パリ市旗だった場合、パリでのテロの被害者への哀悼の意がメインに見えるけど、
フランス国旗だと、フランスの味方、
フランスを支持というニュアンスが濃くなるように見えるのは自分だけでしょうか?
この件に関して「国」という単位を持ち出すのは、なんだか怖い気がするのです。


もう1つは、やはり【今回だけ】って事

様々な意味でニュースバリューがあるのは分かるので、日本や欧米で今回だけ特別に報道が多いのは理解できます。

けど、今回だけトリコロールを掲げて、フランスのために祈りを捧げよう。というのは自分の中では違和感があります。

「祈るほどの事じゃない」と言いたいのでありません。
本当に悲惨な事だと思うし、悲しい。
だけど、ピュアに怒りを燃やす事は出来ません。
立ち止まって見回してしまいます。
そして、他のテロなどの被害に対しての扱いの違いに愕然とします。

ちょっとあんまりじゃないかな。

こーゆー扱いの差で、欧米以外のテロの被害者たちを傷つけてしまいそうで怖いです。
空爆の巻き添えを食らった人たちも釈然としないと思います。
テロリストだってますます憎悪を募らせていくと思います。
こーゆー扱いの差が、ジワジワと溝を深めていく気がします。

Aくんが転んでも見ないふり、
Bくんが転んだときだけ「痛いの痛いの飛んでいけ~」

Aくんが虐められても無視、
Bくんが虐められてたら怒る。

こんな事が繰り返されていたとして、
Bくんや、Bくんに親近感を持ってる人がグレたとして誰がそれを責められるのかな?

この先、彼らに対して「話し合おう」という提案が通用するのかな?

こーゆー事の積み重ねが、世界の風通しを悪くしてる気もするのです。


さて、このトリコロール染めを個人レベルにした時の話ですが、それは各自の判断に委ねるしかないと思います。
やってる人は悪いとか、やめるべきって事を言いたいのではありません。
(ここ大事)
自分だって、逆に「やれ」と言われたら困るし。

ただ自分としては、
ほんの数日その国に行っただけで全て理解したかのように「あの国は**だ」と言い切る人や、
たった1人の知り合いを引き合いにして「△△人は〇〇ばかり」と語る人が時々いるように、
結局私たちは自分が希望しようとしまいと色んなものを背負ってしまってるんだと思います。
インターネットとかの中では、自分の言動が「日本人の言動」として受け止められる可能性もある気がします。
その時にトリコロールという手段で哀悼の意を表す事は、自分にはちょっと怖い手段でした。

それに自分が繋がってる人に限っても、各自の背景を知らないし。

普段から地雷踏みがちな自分だけど、こ
の件に関しては慎重になりたい。


そして、
一人一人が熟慮した上で、あるいは何気なく「フランスのために」祈るとき、1つ1つは小さくても、集まった時のエネルギーってすごく大きい気がするのです。
そういうムードに失望したり追い詰められたりしている人々がきっといる。


沢山のトリコロールは善意で行われていると思います。
だけど、
トリコロールでやろうとしている色々な事は、
トリコロールでしかできない事だったのでしょうか?

トリコロールに染めていくことで、自由平等博愛を濁らせてしまうのではないだろうか?

そんなこんなが頭の中を駆け巡って、ポチッとできませんでした。



そして話は少しそれますが、
今回改めて軽く調べてみて、報道されなさ過ぎなテロ被害者の多さに、ひいた。
頻発しすぎて麻痺してる的な事もあるだろうし、危険すぎて取材が難しいのもあるだろうし、視聴率やら購買意欲云々もあるだろうけど、もっと知らせて欲しい。
(そのためには私たちがもっと知りたがる必要もあると思う)

私たちは一億総ジャーナリスト(?)状態で、美味しい物とか楽しい場所とか悲しい事とか、誰でもドンドン発信出来るけど、まだそうじゃないエリアの、そんな余裕がない人たちの声って誰が拾ってくれるの?
まぁ、自分らも空爆とか誤爆とかで一般市民を巻き添えにしてる手前、あの辺りのことは報道しにくいってのもあるだろうけど。

そもそも空爆のような手段を採れるのって、結局 彼らの心のどこかに、親近感や愛国心なんていう甘い言葉で片付けてはいけない選民意識や優越感のようなものが、確かに存在しているように思えてしまう。

だからこそ空爆という彼の地の一般市民を巻き込みかねない方法も採れるんだろうなと。
そしてそれらの巻き添えを「やむをえない犠牲」という一言で片付けたとか片付けてないとか。


パリでのテロを「人類が共有する普遍的な価値への攻撃」だとするなら、
一般市民を巻き込むことが分かってる空爆を5000回も行い、これからも続けていく、増やしていくっていうのは、いったいどういう攻撃なんだろう。

自由平等博愛は自分達だけに授けられた特権だとでも思っているかのような振る舞いだと思えてきてしまうけど、それは平等とは言わないのではないでしょうか。


なんて、どれだけ言葉を紡いでも、むしろ紡ぐほど、自分が思っている事との微妙な溝が埋まらない。
書ききる事も、書き尽くす事もできないんだにゃあ

2015.11.13 パリでテロ

2015年11月15日 18時26分54秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ。

私はシャルリ
とは思えなかった自分です。
スミマセン。

人が人を殺すのは良くない事だし悲しい事だと思います。
だから、今回のテロでなにがしかの被害に遭われたすべての人に寄り添いたい気持ちがあります。
だけど、フランスのために祈るとか思えない自分がいます。

犠牲者に祈りを捧げるというのと、
フランスのために祈りを捧げるというのでは、
全然意味が違うと思うのです。

よくよく考えての行動なんだとは思うのですが、それでも
世界中の著名な人たちが「フランスのために祈りを捧げる」と呟いたり、
FBやランドマークがトリコロールに染まっていったり、
そういった状況に傷つけられている、傷つかなくてもいい人たちが沢山いるような気がします。

そういう傷は、世界に新しい軋轢の芽を産むような気もします。


犠牲者に
被害に遭われた方々に
心からお悔やみ申し上げます。

そして一刻も早く、話し合いのできる世界になる事を願っています。