みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

牯嶺街少年殺人事件

2017年03月29日 19時01分49秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ



牯嶺街少年殺人事件
と書いて
クーリンチェ少年殺人事件
と読むです。

14歳の少年が、同い年の少女を殺した。
という新聞記事を見かけて、
そこから勝手に物語を作ったとの事。
知らんけど。

きっと、分かることを書いたんじゃなくて、
分からないから、知りたいから、書いたんじゃないかなと思う。


25年前の35mmのデジタルリマスター版とのこと。
2200円と、妙に高いが行ってきた。
しかも二回(笑)

行って良かった!
大正解!

画の感じ、すごく好き。
ちょっとした瞬間も美しくて意味ありげで、キュッとなる。
主役のシャオスー、どストライクのビジュアル。大人にならないで〜。
ヒロインのシャオミンはじめ、少年少女が、上手下手はともかく、みんな魅力的でキラキラしてる。

緻密・精密な感じと、
フレッシュ・生ものな感じが、
ギリギリで同居してる感じで、
サラッサラの砂で作ったお城、
プルップルの氷でできた彫刻、
みたいな、
緊張感?あやうさ?
がヒタヒタしてて、
とても良かった。

てか、全然説明できない。
日本語の下手さ、語彙の少なさに絶望orz


最後は「せつない」とか「やるせない」とか「かなしい」に似てるけど違う、名前のつかない感情がヒタヒタしてきて、これまた名前のない涙がツツーーーッと流れるのであります。

ちなみに4時間の長編でした。


ここまで褒めといてアレですが、実は1回目は寝ました。

眠くなるところなんて1秒も無かったのに寝てしまったのは、体調不良&集中しすぎが原因かなと。

よく調べもせず
「2時間ちょいかな?」と思い込み、
「体調イマイチだけど、今日で終わっちゃうし(@川崎)」と強行軍。
始まってすぐ、心掴まれつつも、
当時の台湾情勢がチラつけば「池上さんが解説してた!」とか、
役名のフリガナを見るたびに「四と書いてスー。麻雀読みで良いのね」とか、
「あれ?この人って、さっきの人?」とか、
「今の絵面最高!」とか、
右脳と左脳がフル回転。
そして唐突に寝る。

イメージとしては、ディズニーでテンションぶち上がって遊びまわり、プロジェクションマッピングの直前に寝ちゃう子供orz

二回見て分かったけど、本当に最後の20分くらいだけ寝てたorz

すでにこの映画に人生の中で8時間を割いてるけど、もう一回見に行きたい!
人にオススメはしないけど、いい映画だった。
嗚呼、幸せ

艱難辛苦の原因論

2017年03月20日 02時33分15秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

いま、めっちゃ恋人とか欲しいのですが、いません。
てか、長年いません。

それを
外見のせいだと思いたくない反面、
外見のせいであってほしいと思っています。

自分の場合、外見も内面も決して褒められたものではありませんが、
世の中には、同じような方々もたくさんいると思いますし、
それでも素敵なパートナーと、ハッピーライフを楽しんでる方も、大勢いると思います。

結局は運なんだ。
そう思いたいし、
実際、そういう部分もあると思います。

分かっているけど、
それでも外見や内面の事を無視することはできません。
そして、無視できないからこそ、若干の惨めさや虚しさを感じます。


これは、いじめられっ子などにも共通する思考回路だと思うのですが、
「偶然」とか「運が悪かった」では納得できないのだと思います。
今の辛さや寂しさが、「運」で片付けられるなんて理不尽だし、
もしそうなら、自分の力で脱出できる可能性がとても低く感じられてしまいます。

「いじめられても仕方がない」
そう納得したくて、
少しでも理不尽を解消したくて、
わざわざ理由を見繕うのです。
「自分に至らない点があるのだろう」と。
そして、いじめられても仕方がないと、自分を納得させるのです。
いわば、因果関係の捏造です。

余力があれば
「そこさえ直せば状況は変わるかも」と、しなくていい努力を始めることもあるでしょう。

余力がなければ
「でもそれは自分ではどうしようもない事だ」と、諦めるでしょう。
そして、理由があることを理由に、この状況を受け入れて、どんどん傷ついていくのでしょう。


本当は、今自分の身の上に起きていることの大半は、「運」であり「偶然」なんだと思います。

その理不尽さを受け入れてしまうことが、強さと幸せへの近道なのかもしれないんだにゃあ。


楽しい会話

2017年03月19日 01時31分24秒 | みう
こんばんにゃ。

最近、誰とも共通の話題がないことに気づきはじめています。

より厳密に言うと、
誰とも「同じくらいの熱量で話せる」話題がないってことですかね。


研究熱心な性格でない上に、右脳派というか、感覚派?なので、
映画や読書や旅などの趣味的トークも、
知識量バトル的な様相を帯びてくると、
参加できないし、聴いててもあまり楽しくない。
感想でもディスカッションでもなく、
「自分の方がすごいんです大会」になっちゃってる気がして、
まぁ嫉妬も含めてなんだろうけど、
なんだか疲れてしまって苦手。

自分がいかに人よりも詳しいか、賢いか、珍しい体験をしているかという話より、
純粋な感動やトキメキや驚きや、ときには憤りや不満なんかを話したり、そこから深めたり、一緒に考察したりするのが好き。

しかし、そういう会話にハマれることって、案外難しいんだにゃあ。

海は燃えている

2017年03月09日 00時29分20秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
船が浮いて見える!って事で有名な、イタリアのランペドゥーザ島。

イタリア領最南端の島で、要するにアフリカにめっちゃ近いヨーロッパ。
年間に島民の10倍の難民が流れ着く島。

その島を舞台にしたドキュメンタリー映画「海は燃えている」
見てきた!

カメラは、島民の静かな日常と、難民の厳しい非日常を交互に映し出すけど、この2つの世界が最後まで交わらないのがすごい。

印象的だったのは、
島のお医者さんの
「悲惨さに慣れることはない」
「世界みんなで救うべき人たちだ」
って言葉。

それから難民が歌ってるシーンでの
「アフリカ人だから助けてもらえない」
って言葉には、トリコロールにばかり染められていった時のやるせなさを思い出してしまった。

島民(漁師)も難民も「生きるために海に出る」わけだけど、言葉にすると同じなのに、その意味合いのギャップが重い。

象徴的だなと思ったのは、島民の少年の弱視。

右目はちゃんと見えていて、大好きなパチンコ遊びでもよく使ってる。
ところが左目はすごい弱視。
けど、使わないから見えなくなっていることにも気づいてない。

その左目は、意識して使うことで、脳に刺激が与えられて視力が回復するとの事で、映画の中の少年は、左目でも物を見る練習を始め、ジワジワと視力が回復してくる。

こんな象徴的な出来事が起こるもんだろうかと思うと、ドキュメンタリーと言いつつ、実は台本でもあるのではないか?とついつい勘ぐってみたり。
(ノンフィクションってのとも違うのかな?)

難民の過酷さや、上陸させる側の手続きなども見られて勉強になった。

この映画を見にきた人たちの中には、そういう部分を主に期待してきた人もたくさんいると思う。
「島民パート、長くない?(いらなくない?)」的な。

でも、もし、この映画が難民パートばかりだったとしたら、
「今世界で起きていることを知りたい」という問題意識の陰にある「悲惨なものを見てみたい」というような(悪趣味だけど多くの人が少しは持っている)好奇心を満たして、泣いたりして、そんな優しい自分に酔って、それでおしまいだったかも。

それだけで終わらずに、こちら側に「当事者意識」を自覚させるのは、島民パートがあるからこそかなと。

寝てる人もいたし、数年前の自分ならウトウトしてたかもだけど、この対比が、この映画を特別なドキュメンタリーにしているんだと思う。

興味のある人には、フラットなテンションで見に行って欲しいなと思う映画でした。

http://www.bitters.co.jp/umi/