私は時々、私が私個人という命ではなく
「私たち」という命の一部、細胞の一つのように感じることがある。
そういう時、私にとって私個人の命の重さは軽くなるように思う。
そもそも命は朽ちて当たり前だし、
「私たち」という生命体にとって、代謝は必要で、
かさぶたがはがれ、毛が抜けるように、私という細胞も執着なくハラリと去るべきかと思うことがある。
しかし、私が私個人を軽んじようとするとき、私は私以外の個人をも軽んじてしまいそうである。
あなたも私もただの細胞。
そう勘違いしてしまいそうになる。
「世のため、人のため」と「全体主義」の違いを見失いそうになっている気がして怖い。
「一人はみんなのために」という言葉が力を持つのは
「みんなは一人のために」という言葉が実態をもって存在しているときだけのはずである。