好きなアーティストとかがいても、
ファンクラブとか入らないし、
ラジオとかも聴かない。
それは基本的には成果物が好きなのであって、
作者(作品の出自)に興味がないから。
というのがある。
ライブや新作の情報を得るためにアカウントをフォローしても、
そこでの投稿とか見て鬱陶しく感じてしまうことも多々あり
(その人たちの好きな食べ物とか、最近買ったものとか興味が湧かないため)
作品を純粋に楽しむためにも、作者自体との距離を取っておくほうが
自分にはあっているんだと思う。
だけど、主に2つの視点で、自分のこの態度は鑑賞者として正しいのか?
と気になっている。
●バックグラウンドを知ることは、作品の理解には必須だろうか?
●鑑賞者は「知らなかった」で、どこまで許されるんだろう?
作品を鑑賞するにあたり、
作成された時代背景や、作者の生い立ち・当時の状況なんかを聞くと
全然違う見え方・感じ方が生まれるってことも珍しくない。
そういう意味で、自分の「作品だけください」的な態度は、
鑑賞者としてどうなのかな?ってちょっと思ったり。
でも、全部の裏側や成り立ちを知ろうとしなければいけないなら、
少なくとも自分の鑑賞行為からリラックスとか開放みたいなものはある程度失われると思うし、
それは個人的には、ちょっとキツいなとも思う。
そして、
ちょっと前にMETAFIVEのライブに行こうとしてたのだけど
(たまたま金欠で諦めたけど)
作品を積極的に摂取しようとすることは、その作者のどこまでを肯定することになるんだろう?
ピカソかなんかが、サラッと描いたイラストの値段に対して
「30秒くらいで描いたのに高すぎ!」って言われて
「違うよ。ウン十年(年齢)プラス30秒かけて描いたんだよ」
って言ったとかいう話はなるほど~って思うし、
成果物が何をどこまで背負うのかって考えだしたら
「作品が好きなだけなんです」はどこまで通用するんだろう…って、
ちょっと怖くなった。
物の出自に関しては、服や食品などでも、
その生産過程にまで気を配って選ぶ必要・責任が、
消費者にどの程度課せられるのか…
的な問題ともダブる気もする。
〜追伸〜
自分は決して「やり直しのできない社会」を求めているわけでないです。
ただ、自分には他人の反省も後悔も見極められないし判断もできないし、
いわゆる禊とか落とし前のつけ方・つき方とかも分からなくて、
知ってしまった後の受け止め方とか、自分の中での落とし所が分からなくて困ってる。
あと、時事的なことで言えば、展覧会や本やライブなど、
基本的に興味のある人だけがアクセスする場での活動に比べて、
作者単体に興味のない人も絡んでくるような場での活動では、
より繊細で慎重な判断が必要になるとは思う。
〜〜〜〜〜
これも好きなアーティストの好きな曲を聴きながら書いてたけど、
彼らも鬼畜だったらどうしよう…って怖くなってしまった。
音楽、美術、映画、芝居、ダンス、本、
そしてスポーツや五輪を、
無邪気に楽しめてた頃が懐かしい。
嗚呼、なんかもうハゲそう。
★これは自分が「鑑賞者の責任」などについて悶々としてしまっていることを抱えきれずにダダ漏れにしてしまっているだけもので、誰かや何かを責める目的のものではないです★