相方が膝をやって救急搬送。
数日前から「膝が痛い」と言っていたのに、自分の疲れにかまけて、あまり深刻に捉えていなかった。もっといろんな可能性を考えるべきだったし、もっと真剣に耳を傾けるべきだった。
相手のことを相手より真剣に考える。
誰かと暮らすってそういうことなのかも。
悪い想像をしそうにもなるけど、とにかく早く良くなりますように。
相方が膝をやって救急搬送。
数日前から「膝が痛い」と言っていたのに、自分の疲れにかまけて、あまり深刻に捉えていなかった。もっといろんな可能性を考えるべきだったし、もっと真剣に耳を傾けるべきだった。
相手のことを相手より真剣に考える。
誰かと暮らすってそういうことなのかも。
悪い想像をしそうにもなるけど、とにかく早く良くなりますように。
半年間お世話になった整体の先生が転院することになった。
コロナ禍の中で、間違いなく最も多く会話をした他人だったし、そもそも職場以外で定期的に話をする唯一の他人だったかもしれない。
しかし、先生と患者なので当然連絡先などは交換していない。
先生の転院は、即座に先生との「別れ」を意味する。
私が最後に誰かとキチンと別れたのはいつだろう?
別れるためには出会う必要があるし、単発あるいは不定期に会う相手の場合は、たとえ会わなくなったとしても「別れ」とは言わないだろう。
風邪の時だけ行く診療所の先生とか、隣の部署の係長とかは、会わなくなっても、それを別れとは認識しない。
それよりは、行きつけのコンビニのシフトの厚い店員さんの退職の方が、まだ別れを感じられると思う。
とにかく、別れることができるのは、出会って、ある程度定期的に会い、きちんとやりとりをした相手に限る。
そして、メールやSNSが出現してからというもの、そういった相手とは連絡先だのアカウントだのを交換し合うハメになりがち。
(それは積極的に関わりたい相手かどうかはさておき「とりあえず」「礼儀として」「ノリで」連絡先を聞いたり聞かれたりして、それに対して「とりあえず」応えただけというものも多分に含まれる)
一度繋がってしまえば、たとえその友人・知人と会えずとも、相手の近況を何となく把握できてしまったり、その気になればいつでも連絡を取れてしまったりする。(本当にその気になるかはどうかはさておき)
あの人は元気かな?と思いを馳せるより先にスマホの画面を撫でて、
便箋やインクの色に迷う間もなくフリック入力。
もう物理的な距離は、人間関係において以前ほどの意味や力はないのかもしれない。
それは時々とても嬉しいことだけど、ちょっとつまらない気もする。
21世紀生まれの人たちは、卒業や転居の寂しさや切なさを、どれくらい切実に受け止められるんだろう?
70〜80年代くらいまでに生まれ人たちが感じてきたであろう執行猶予感ゼロの否応のない別れを(元気なうちは)実感することなく過ごしていくのかもしれない。
それは幸せなことかもしれないけど、人生からそういう切実さを失くすことは、少しもったいない気もする。
それに、別れが薄まると、出会いも、そこからの新しい関係も薄まるような気がする。
人間、一度にちゃんと向き合える、ちゃんと関心を持って関われる人の数には上限があるんじゃないかと思ってる。
だから、なんとなく繋がったままの人、とりあえず繋がってる人が増えると、一人一人との密度はどうしても薄まってしまう気がする。
かつて、卒業や転居や転職などにより否応なく代謝してきた人間関係は、圧倒的な別れと共に、新鮮な出会いも呼び込んでいたはず。
その流れの繰り返しの中で、嬉しい出会いやピンとこない出会いがあって、流れに抗って関係を繋ぎ続けたいと思いあえた人や、偶然に再会できた人たちと関係深めていくことで、砂金みたいに大切な関係を選分けたり積み重ねたりしていったんだと思う。
最近の自分は一期一会してないなって感じる。
だから、たとえ相手が整体の先生であったととしても、久々に本当のさよならをして、少し寂しいけどとても清々しい気分にもなった。
本当のさよならは新しい何かへの第一歩でもある気がするんだ。
私は時々、私が私個人という命ではなく
「私たち」という命の一部、細胞の一つのように感じることがある。
そういう時、私にとって私個人の命の重さは軽くなるように思う。
そもそも命は朽ちて当たり前だし、
「私たち」という生命体にとって、代謝は必要で、
かさぶたがはがれ、毛が抜けるように、私という細胞も執着なくハラリと去るべきかと思うことがある。
しかし、私が私個人を軽んじようとするとき、私は私以外の個人をも軽んじてしまいそうである。
あなたも私もただの細胞。
そう勘違いしてしまいそうになる。
「世のため、人のため」と「全体主義」の違いを見失いそうになっている気がして怖い。
「一人はみんなのために」という言葉が力を持つのは
「みんなは一人のために」という言葉が実態をもって存在しているときだけのはずである。
自分が「頭いいなぁ〜」って思う人は、大体2パターンに分かれる。
一つは既存のシステムの中で、その仕組みを最大限に活かしたり、乗っかったり、発展させたりして、大きな成果を出す人。
もう一つは既存のシステムそのものを疑ってかかる人。
きっと前者の方がスマートに見えて、お金を稼いで、色んな人から憧れられたりしてる人が多いんだと思う。
けど、その既存のシステムがそもそも善きシステムかどうか検討してから乗っかってるのか、怪しく感じることもある。
少しくらい不恰好でも、捻くれ者に見えても、その検討を怠らず、より善いシステムを探したり構築したりしようとする人の方が素敵だなって思う。
「良かれと思って」という言葉を使う人が、あまり好きではない。
良かれと思って声をかけたり、
良かれと思って片づけをしたり、
良かれと思ってアドバイスしたり、
良かれと思ってご馳走したり、
良かれと思ってサプライズしたり、
良かれと思って、良かれと思って、良かれと思って・・・
もちろん自分も、良かれと思って行動することはある。
良かれと思って、あえて何もしないこともある。
それが本当に良かった時、きっと「良かれと思って」という言葉は必要ない。
それが結果的に良くない行為だった時、初めて「良かれと思って」という言葉が出てくる。
つまり「良かれと思って」と言いたいような事態になっているときは、
全然良くない状態なのである。
きっとその良くない状況に対して、
勇気を出して、あるいは我慢の限界を超えて、
Noを伝えてくる相手に言うべき言葉は
「ごめん」とか「すまん」が適当なんだと思う。
「良かれと思って」という言葉を使うとき、
その人はきっと誤魔化そうとしているか、逆切れしているか。
いずれにせよ相手のつらさには向き合っていないと思われる。
だから「良かれと思って」なんて口にするのは全然良くないことだと思う。
老眼かもしれない。
旅したら視野が広くなると思ってた。
旅するほど広くなると思ってた。
実際、行ったことある場所のニュースは、行く前よりも関心を持てたりする。
行ったことないところでも、本気出せば行けるって思えるからか、他人事とは思えないことが増えた。
見知らぬ土地や見知った土地の、難民、災害、差別、テロ、色んなことに憤りや同情を覚える。
そして、何もできない自分を歯がゆく思ったりもする。
ああ、視野が広くなったなぁ。
そのくせ、手の届く範囲、身近な出来事、目の前のひとに対してはどうだろう?
遥か遠くの、自分が直接力になれない(から何もしなくても本質的には心が痛まない)事柄に対しては義憤をあらわにするのに、実際に力になれる距離の人たちにのための行動や、やろうと思えばできることは疎かにしてる。
これじゃ何もしないで気持ちよくなりたいだけの人だ。
視野が広くなったわけじゃなく、手元が見えなくなっただけ。
いや、見ようとしないだけなのかも?
ほな老眼と違うなぁ。
差別をなくしたい人は、自分が差別したくない&されたくないだけでなく、世の中から差別や、その被害者をなくしたいわけだから、「各々の自由」では意味が無いのである。
色々な局面で「指図をするな」「他者を巻き込むな」という言い分もあるけれど、環境問題とか、銃の規制とか、いじめとか、感染症対策とか、社会的な影響が大きく、被害者が存在するようなことに関しては「各々の自由」というのは中立的意見とはなりえず、それどころか利己主義への加担でしかない。
そういう利己主義や自己チューを、中立風の言い回しや、薄っぺらな両論併記で誤魔化すのは卑怯だ!
と世界の中心で愛の代わりに叫びたい。
そして、だまされるもんかー!と握りこぶしを握りしめる。
「各々の自由」と締めくくることが不向きな案件が世の中にはたくさんある。
面倒くさすぎて思考停止したくなって「もう各々の自由でよくね?」って言っちゃいたくなる時もあるけど、しんどくてもめんどくても、真摯に向き合い考えていかなきゃいけないことが、この世の中にはあるんじゃなかろうかと、コロナ禍の巣籠りにうちで踊らず考えてる。