みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

人と暮らす

2023年06月28日 23時29分00秒 | みう・つれづれ

相方が膝をやって救急搬送。

数日前から「膝が痛い」と言っていたのに、自分の疲れにかまけて、あまり深刻に捉えていなかった。もっといろんな可能性を考えるべきだったし、もっと真剣に耳を傾けるべきだった。

相手のことを相手より真剣に考える。

誰かと暮らすってそういうことなのかも。


悪い想像をしそうにもなるけど、とにかく早く良くなりますように。





私なんか

2023年05月22日 08時51分00秒 | みう・つれづれ
朝から親と喧嘩。

ここ数日?数週間?同じような質問、話題を何度も振られ、その度に笑って返してたけど、だんだんと自分でも悲しくなってきてしまって破裂してしまった。

稼ぎは少なく
病気は多い。

そういう『非生産的』な自分を、自分で受け入れてるつもりでも、1日おきにそれを自分で言葉にするのは、やっぱりメンタルに来る。

そして、そういう自分なりに、これまでフラフラやってきた。
実家に寄生しつつではあるけど、稼いで遊んでじわじわ貯めて老後に備え、おひとり様としてやっていくスタイルを母も認めてくれていたし、余計なことは何も言わずにいてくれたのに。

そんな人じゃないと思いたいけど、
本当は娘に『フツー』を期待してたのかな。『フツー』から逸脱してるの娘のこと、どっかで嫌だったのかな。とか、考えてもしまう。

私は『非生産的』な人間で、今の日本で生きていくのには不利な人間だし、積極的に他人様を巻き込むなんてできないし、そんなこと考えるのもおこがましいんだよ。って説明を母にするたびに、その母への説明の言葉で、自分自身を傷つけていた。その積み重ねが(とても楽しい週末を過ごせた翌)月曜の朝にきてしまって、本当に悲しい。
(もちろん人間を生産性で区分けしてくるような空気感を醸し出してくる今の社会や政治もおかしいのだけど)

私なんか
なんて言いたくない。




本当のさよなら

2021年10月06日 21時01分00秒 | みう・つれづれ

 



半年間お世話になった整体の先生が転院することになった。

 

コロナ禍の中で、間違いなく最も多く会話をした他人だったし、そもそも職場以外で定期的に話をする唯一の他人だったかもしれない。

しかし、先生と患者なので当然連絡先などは交換していない。

先生の転院は、即座に先生との「別れ」を意味する。

 

私が最後に誰かとキチンと別れたのはいつだろう?

 

別れるためには出会う必要があるし、単発あるいは不定期に会う相手の場合は、たとえ会わなくなったとしても「別れ」とは言わないだろう。

風邪の時だけ行く診療所の先生とか、隣の部署の係長とかは、会わなくなっても、それを別れとは認識しない。

それよりは、行きつけのコンビニのシフトの厚い店員さんの退職の方が、まだ別れを感じられると思う。

 

とにかく、別れることができるのは、出会って、ある程度定期的に会い、きちんとやりとりをした相手に限る。

 

そして、メールやSNSが出現してからというもの、そういった相手とは連絡先だのアカウントだのを交換し合うハメになりがち。

(それは積極的に関わりたい相手かどうかはさておき「とりあえず」「礼儀として」「ノリで」連絡先を聞いたり聞かれたりして、それに対して「とりあえず」応えただけというものも多分に含まれる)

 

一度繋がってしまえば、たとえその友人・知人と会えずとも、相手の近況を何となく把握できてしまったり、その気になればいつでも連絡を取れてしまったりする。(本当にその気になるかはどうかはさておき)

 

あの人は元気かな?と思いを馳せるより先にスマホの画面を撫でて、

便箋やインクの色に迷う間もなくフリック入力。

 

もう物理的な距離は、人間関係において以前ほどの意味や力はないのかもしれない。

それは時々とても嬉しいことだけど、ちょっとつまらない気もする。

 

21世紀生まれの人たちは、卒業や転居の寂しさや切なさを、どれくらい切実に受け止められるんだろう?

7080年代くらいまでに生まれ人たちが感じてきたであろう執行猶予感ゼロの否応のない別れを(元気なうちは)実感することなく過ごしていくのかもしれない。

それは幸せなことかもしれないけど、人生からそういう切実さを失くすことは、少しもったいない気もする。

 

それに、別れが薄まると、出会いも、そこからの新しい関係も薄まるような気がする。

 

人間、一度にちゃんと向き合える、ちゃんと関心を持って関われる人の数には上限があるんじゃないかと思ってる。

だから、なんとなく繋がったままの人、とりあえず繋がってる人が増えると、一人一人との密度はどうしても薄まってしまう気がする。

 

かつて、卒業や転居や転職などにより否応なく代謝してきた人間関係は、圧倒的な別れと共に、新鮮な出会いも呼び込んでいたはず。

その流れの繰り返しの中で、嬉しい出会いやピンとこない出会いがあって、流れに抗って関係を繋ぎ続けたいと思いあえた人や、偶然に再会できた人たちと関係深めていくことで、砂金みたいに大切な関係を選分けたり積み重ねたりしていったんだと思う。

 

最近の自分は一期一会してないなって感じる。

 

だから、たとえ相手が整体の先生であったととしても、久々に本当のさよならをして、少し寂しいけどとても清々しい気分にもなった。

本当のさよならは新しい何かへの第一歩でもある気がするんだ。


鑑賞者としての責任

2021年07月21日 00時52分00秒 | みう・つれづれ



好きなアーティストとかがいても、
ファンクラブとか入らないし、
ラジオとかも聴かない。
それは基本的には成果物が好きなのであって、
作者(作品の出自)に興味がないから。
というのがある。

ライブや新作の情報を得るためにアカウントをフォローしても、
そこでの投稿とか見て鬱陶しく感じてしまうことも多々あり
(その人たちの好きな食べ物とか、最近買ったものとか興味が湧かないため)
作品を純粋に楽しむためにも、作者自体との距離を取っておくほうが
自分にはあっているんだと思う。

だけど、主に2つの視点で、自分のこの態度は鑑賞者として正しいのか?
と気になっている。

●バックグラウンドを知ることは、作品の理解には必須だろうか?

●鑑賞者は「知らなかった」で、どこまで許されるんだろう?

作品を鑑賞するにあたり、
作成された時代背景や、作者の生い立ち・当時の状況なんかを聞くと
全然違う見え方・感じ方が生まれるってことも珍しくない。
そういう意味で、自分の「作品だけください」的な態度は、
鑑賞者としてどうなのかな?ってちょっと思ったり。
 
でも、全部の裏側や成り立ちを知ろうとしなければいけないなら、
少なくとも自分の鑑賞行為からリラックスとか開放みたいなものはある程度失われると思うし、
それは個人的には、ちょっとキツいなとも思う。

 
そして、
ちょっと前にMETAFIVEのライブに行こうとしてたのだけど
(たまたま金欠で諦めたけど)
作品を積極的に摂取しようとすることは、その作者のどこまでを肯定することになるんだろう?
 
ピカソかなんかが、サラッと描いたイラストの値段に対して
「30秒くらいで描いたのに高すぎ!」って言われて
「違うよ。ウン十年(年齢)プラス30秒かけて描いたんだよ」
って言ったとかいう話はなるほど~って思うし、
成果物が何をどこまで背負うのかって考えだしたら
「作品が好きなだけなんです」はどこまで通用するんだろう…って、
ちょっと怖くなった。


物の出自に関しては、服や食品などでも、
その生産過程にまで気を配って選ぶ必要・責任が、
消費者にどの程度課せられるのか…
的な問題ともダブる気もする。


〜追伸〜
自分は決して「やり直しのできない社会」を求めているわけでないです。

ただ、自分には他人の反省も後悔も見極められないし判断もできないし、
いわゆる禊とか落とし前のつけ方・つき方とかも分からなくて、
知ってしまった後の受け止め方とか、自分の中での落とし所が分からなくて困ってる。


あと、時事的なことで言えば、展覧会や本やライブなど、
基本的に興味のある人だけがアクセスする場での活動に比べて、
作者単体に興味のない人も絡んでくるような場での活動では、
より繊細で慎重な判断が必要になるとは思う。

〜〜〜〜〜

これも好きなアーティストの好きな曲を聴きながら書いてたけど、
彼らも鬼畜だったらどうしよう…って怖くなってしまった。

音楽、美術、映画、芝居、ダンス、本、
そしてスポーツや五輪を、
無邪気に楽しめてた頃が懐かしい。

嗚呼、なんかもうハゲそう。



★これは自分が「鑑賞者の責任」などについて悶々としてしまっていることを抱えきれずにダダ漏れにしてしまっているだけもので、誰かや何かを責める目的のものではないです★

私/私たち

2021年06月18日 16時00分00秒 | みう・つれづれ


 

私は時々、私が私個人という命ではなく

「私たち」という命の一部、細胞の一つのように感じることがある。

そういう時、私にとって私個人の命の重さは軽くなるように思う。

そもそも命は朽ちて当たり前だし、

「私たち」という生命体にとって、代謝は必要で、

かさぶたがはがれ、毛が抜けるように、私という細胞も執着なくハラリと去るべきかと思うことがある。

しかし、私が私個人を軽んじようとするとき、私は私以外の個人をも軽んじてしまいそうである。

あなたも私もただの細胞。

そう勘違いしてしまいそうになる。


「世のため、人のため」と「全体主義」の違いを見失いそうになっている気がして怖い。

「一人はみんなのために」という言葉が力を持つのは

「みんなは一人のために」という言葉が実態をもって存在しているときだけのはずである。


頭がよい人/頭がよくて優しい人

2021年06月06日 13時47分00秒 | みう・つれづれ




自分が「頭いいなぁ〜」って思う人は、大体2パターンに分かれる。

一つは既存のシステムの中で、その仕組みを最大限に活かしたり、乗っかったり、発展させたりして、大きな成果を出す人。

もう一つは既存のシステムそのものを疑ってかかる人。

きっと前者の方がスマートに見えて、お金を稼いで、色んな人から憧れられたりしてる人が多いんだと思う。

けど、その既存のシステムがそもそも善きシステムかどうか検討してから乗っかってるのか、怪しく感じることもある。

少しくらい不恰好でも、捻くれ者に見えても、その検討を怠らず、より善いシステムを探したり構築したりしようとする人の方が素敵だなって思う。


良かれと思って・・・

2021年02月22日 17時11分47秒 | みう・つれづれ




「良かれと思って」という言葉を使う人が、あまり好きではない。

 

良かれと思って声をかけたり、

良かれと思って片づけをしたり、

良かれと思ってアドバイスしたり、

良かれと思ってご馳走したり、

良かれと思ってサプライズしたり、

良かれと思って、良かれと思って、良かれと思って・・・

 

もちろん自分も、良かれと思って行動することはある。

良かれと思って、あえて何もしないこともある。

 

それが本当に良かった時、きっと「良かれと思って」という言葉は必要ない。

それが結果的に良くない行為だった時、初めて「良かれと思って」という言葉が出てくる。

 

つまり「良かれと思って」と言いたいような事態になっているときは、

全然良くない状態なのである。

 

きっとその良くない状況に対して、

勇気を出して、あるいは我慢の限界を超えて、

Noを伝えてくる相手に言うべき言葉は

「ごめん」とか「すまん」が適当なんだと思う。

 

「良かれと思って」という言葉を使うとき、

その人はきっと誤魔化そうとしているか、逆切れしているか。

いずれにせよ相手のつらさには向き合っていないと思われる。

 

だから「良かれと思って」なんて口にするのは全然良くないことだと思う。


社会的老眼あるいは無視

2021年02月11日 22時06分00秒 | みう・つれづれ





老眼かもしれない。


旅したら視野が広くなると思ってた。

旅するほど広くなると思ってた。

実際、行ったことある場所のニュースは、行く前よりも関心を持てたりする。

行ったことないところでも、本気出せば行けるって思えるからか、他人事とは思えないことが増えた。


見知らぬ土地や見知った土地の、難民、災害、差別、テロ、色んなことに憤りや同情を覚える。

そして、何もできない自分を歯がゆく思ったりもする。

ああ、視野が広くなったなぁ。


そのくせ、手の届く範囲、身近な出来事、目の前のひとに対してはどうだろう?


遥か遠くの、自分が直接力になれない(から何もしなくても本質的には心が痛まない)事柄に対しては義憤をあらわにするのに、実際に力になれる距離の人たちにのための行動や、やろうと思えばできることは疎かにしてる。

これじゃ何もしないで気持ちよくなりたいだけの人だ。


視野が広くなったわけじゃなく、手元が見えなくなっただけ。

いや、見ようとしないだけなのかも?

ほな老眼と違うなぁ。



各々の自由?

2021年01月29日 14時13分01秒 | みう・つれづれ



例えば「差別反対と叫ぶことも、差別をすることも、各々の自由である」という言い分を、差別をなくしたい人と、差別をしたい人(あるいは、これは差別ではないと主張する人)の双方に対する中立的な意見と捉える人もいるらしいが、それは大間違いである。こんなのは差別の放置でしかないわけで、全然中立的な意見ではない。

差別をなくしたい人は、自分が差別したくない&されたくないだけでなく、世の中から差別や、その被害者をなくしたいわけだから、「各々の自由」では意味が無いのである。

色々な局面で「指図をするな」「他者を巻き込むな」という言い分もあるけれど、環境問題とか、銃の規制とか、いじめとか、感染症対策とか、社会的な影響が大きく、被害者が存在するようなことに関しては「各々の自由」というのは中立的意見とはなりえず、それどころか利己主義への加担でしかない。

そういう利己主義や自己チューを、中立風の言い回しや、薄っぺらな両論併記で誤魔化すのは卑怯だ!

と世界の中心で愛の代わりに叫びたい。

そして、だまされるもんかー!と握りこぶしを握りしめる。

「各々の自由」と締めくくることが不向きな案件が世の中にはたくさんある。

面倒くさすぎて思考停止したくなって「もう各々の自由でよくね?」って言っちゃいたくなる時もあるけど、しんどくてもめんどくても、真摯に向き合い考えていかなきゃいけないことが、この世の中にはあるんじゃなかろうかと、コロナ禍の巣籠りにうちで踊らず考えてる。


イチロー

2019年03月22日 19時14分25秒 | みう・つれづれ
イチローの言葉、沁みた。
自分が思うor自分が憧れてる「旅人」的な姿があった。
 
「外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れた」
 
自分には旅人コンプレックスがある。
正確には出遅れ旅人コンプレックスかな?
・海外旅行デビューが遅い
・英語を話せない
なので、
周囲の旅人に比べると、圧倒的に
・異文化に触れてない
・異文化交流できてない
そして、
それらをしてきた旅人たちって、絶対的に
差別に敏感で、
多様性に寛容で、
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
にいる人たちなんだと思ってた。
てか、
自分の心の中にいる旅人は、そうだった。

けど、
先輩旅人に触れる機会が増えたら、学ぶことも多いけど、
旅人に幻滅する機会も増えた。
もちろんそれは「自分にとっての理想的旅人像」に嵌らなかったってことでしかないから、
善悪じゃないんだけど、でも、
寂しいし、悲しい。
 
って、書いてて思ったけど、
これ他にも当てはまるのかも。
読書下手糞コンプレックスとか
芸術無理解コンプレックスとか
色々コンプレックスがある自分なので、
先輩芸術鑑賞家、先輩読書家、などなどにも同様の現象が発生しがちな気がする。
勝手に自分の理想像と比較して、
勝手に落ち込んでるだけなんだけど。
 
目的は人それぞれなんだけど、
自分的には、旅もフィクションも
摂取したその先で、
人間への理解
みたいなものが深まったらいいなって思ってる。
で、それが、
優しさの原動力になったらいいなって思ってる。

嗚呼
ってか、これ、もう、
自分が思うor憧れてる「旅人」的な姿っていうより、
自分が思うor憧れてる「人」の姿だ。

野球のことはよく分からんが、やっぱイチローすごい。


ちなみに
「できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい」
これも好きだにゃあ

つまずいた人に

2019年03月21日 18時04分54秒 | みう・つれづれ

つまずいた人に、
「ちゃんと足元見なよ」とか、
「ちゃんと靴紐結びなよ」とか、
「なんでそんな靴で来たの」とか、
「自己責任」とか、
「ダメ!絶対!」とか、
多分全部正論。
間違ってること言ってない。

でも、

手を差し伸べたり、
杖を渡したり、
靴紐を結び直したり、
自分の靴と交換したり、
仙豆あげたり、
できたらいいなと思う。

ぜんぶできなくても、
なんもできなくても、
せめて、その人が、
自力で立ち上がるのを待っていたい。

そーゆー人にわたしはなりたい


杉田水脈議員の寄稿文を読んでみた。

2018年07月27日 00時08分42秒 | みう・つれづれ

こんばんにゃ。
杉田水脈議員の寄稿文を読んでみました。
「LGBTは子供を生まないので生産性がなく、
そんな彼らに税金を投入するのはいかがなものか?」
的なやつです。

ネットニュース等の記事のタイトルや、ものすごく要約されてるであろう概要を読んで、目の前が真っ暗になっていましたが、どんな編集やバイアスがかかっているかも分からないので、全文に目を通してみました。


全文を読む前に、一番最初に思い出したのは「相模原障害者施設殺傷事件」です。
そして一番最初に感じたのは、その事件を知ったときと同じことでした。

人間の価値を勝手に測るな。
人間の価値を勝手に決めるな。

杉田議員も植松も、自分の物差しだけで人間の価値を決めつけているところが、
とても良く似ていると思いました。

そしてすぐに念じました。
どうか誰も「LGBTの人にも生産性はあります」的な反論だけはしてくれるな、と。

彼らの生産性を証明しようとすることは、
根本的には杉田議員と同じ思想の持ち主であると言えるからです。
即ち「人間の価値は、その生産性によって計れる」
という考え方です。

これは企業やチームなど、特定の目的のために集まった人たちの中では、
当てはまることかもしれません。
しかしそれは「社員として」「選手として」などの価値であり、
間違っても「人間として」の価値などではないはずです。

国民を「生産者として」しか見られないとか、
国家への(おそらくは金銭的)貢献度により国民の価値を測るとか、
国会議員として最悪だと思います。

また、全文を読んで感じたのは、
ものすごく全体主義的な考えの持ち主であるということです。

「普通」「みんな」「世の中」を乱してはならない。
それを乱すのは、ワガママであり罪悪である。
そんな風に考えているように読めました。
(なお、この「みんな」というのは、かなり限定的な人々のようです)

「みんなはひとりのために」が無いままに、
「ひとりはみんなのために」だけを求めてくる社会は、
自分が「みんな」から弾き出された瞬間の生き難さを想像すると、怖すぎて震える、

忘れるって事について思った事。

2018年01月17日 01時32分37秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ。

どんなに怖くても、予知とか進んでも、止められない災難ってあると思う。
だからこそ、いろんなことを、今に生かして、未来に伝えていけたらって思う。

でも、もし、まだ、
今や未来より、過去の存在を大きく感じてる人がいるなら、無理しないでと言いそうになるけど、ホントは、
ちょっと無理してでも抜け出せたらいいのに。
とも思う。


自分は「忘れる」って事をすごく怖がってる部分がある。
忘れる自分がひどく薄情に思えて許せなかったり、
忘れちゃうと、あの時に感じてた喜怒哀楽が嘘になる気がして。
要するに、忘れる自分が、裏切り者みたいに思えてしまって。

それが嫌で、忘れられないわけじゃないことも、無理して考え続けて、忘れないようにしてみたり。

でも、最近は少し考えが変わってきた。

忘れるのって悪いことじゃないと思う。
忘れないと思い出せないし。
思い出すことを忘れないための「記念日」は十分に機能しているし。

だから、もし自分と同じように「誰も幸せにならない罪悪感」に苛まれてる人がいるなら、
「安心して、勇気だして、忘れてごらんよ」
と、言いたいんだにゃあ

艱難辛苦の原因論

2017年03月20日 02時33分15秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

いま、めっちゃ恋人とか欲しいのですが、いません。
てか、長年いません。

それを
外見のせいだと思いたくない反面、
外見のせいであってほしいと思っています。

自分の場合、外見も内面も決して褒められたものではありませんが、
世の中には、同じような方々もたくさんいると思いますし、
それでも素敵なパートナーと、ハッピーライフを楽しんでる方も、大勢いると思います。

結局は運なんだ。
そう思いたいし、
実際、そういう部分もあると思います。

分かっているけど、
それでも外見や内面の事を無視することはできません。
そして、無視できないからこそ、若干の惨めさや虚しさを感じます。


これは、いじめられっ子などにも共通する思考回路だと思うのですが、
「偶然」とか「運が悪かった」では納得できないのだと思います。
今の辛さや寂しさが、「運」で片付けられるなんて理不尽だし、
もしそうなら、自分の力で脱出できる可能性がとても低く感じられてしまいます。

「いじめられても仕方がない」
そう納得したくて、
少しでも理不尽を解消したくて、
わざわざ理由を見繕うのです。
「自分に至らない点があるのだろう」と。
そして、いじめられても仕方がないと、自分を納得させるのです。
いわば、因果関係の捏造です。

余力があれば
「そこさえ直せば状況は変わるかも」と、しなくていい努力を始めることもあるでしょう。

余力がなければ
「でもそれは自分ではどうしようもない事だ」と、諦めるでしょう。
そして、理由があることを理由に、この状況を受け入れて、どんどん傷ついていくのでしょう。


本当は、今自分の身の上に起きていることの大半は、「運」であり「偶然」なんだと思います。

その理不尽さを受け入れてしまうことが、強さと幸せへの近道なのかもしれないんだにゃあ。


「育ち」について

2016年12月25日 01時35分50秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ。
ネットニュースをまとめて見られるアプリを登録してから、たまにポチポチと眺めていると、なんだか目につく「育ち」という言葉。

「育ちのいい人が絶対やらない7つのこと」
「恋人の育ちを疑う瞬間あれこれ」
というような記事を、結構な頻度で目にする。
世の人たちがこんなにも「育ち」というものに興味を持っていたとは!


「育ちがいい人(または、良さそうな人)」というのは、

・言葉使いがキレイ
・食べ方がキレイ
・身のこなしがキレイ
・身だしなみがキレイ

などなど、その人の色々な美しさを指標としてる事が多い気がする。

美しい人って素敵だなと思うし、
自分もそうなれたらいいなと思う。

ただ、他人の「育ち」や、それに付随する色々について、あーだこーだ話してる様子は、残念ながら素敵に見えないのよね。
それがどんなにお育ちの良さそうな人であっても。

お育ちの良さと美しさの関連は、まだ謎に包まれている部分も多いけど、
「お育ちの良さを測る指標に、心のキレイさは含まれていない」
ってことは、自分の中では確信になりつつあるんだにゃあ