『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』
美術鑑賞は主観的でよい、色々な解釈があってよい、と言いつつ、「(読者も含めての)私たち」という主語を使ってきたり、作品の解釈を断定的に書かれている部分もあり、なんか違和感。
「私にはこう見えた」「私はこう感じた」というのは分かるけれど、「この絵はこういうものだった」などと書かれると、なんだかなぁ…って感じ。
作品解説本ではないはずなのに、主語が「自分」ではなく「作品」や「人々」となっていたり、しかも自分以外を主語としながら感覚的なことを述べているような部分には押し付けがましさを感じてしまい、読んでいてちょっと辛かった。
本の内容とも矛盾していると思う。
また、美術鑑賞からは離れた部分では、見える人・見えない人などの安易なカテゴライズに対する違和感について書いていたはずなのに、ステレオタイプやバイアスも甚だしい「さすが関西人」「技術者の"男の"人たち」というような表現が頻出するのも不快。
あと、私にとっては文体がややエモすぎる。描いてる方は気持ちよさそうだけど、個人的には読んでてちょっと気持ち悪かった。
作中に出てくる色々な人たちの語る言葉はとても興味深くて面白いのに、それを読んで自分が何かを感じかけても、作者の言葉が怒涛の勢いで塗りつぶしてしまう。
個人的には、そこに出てくる色々な人たちの言葉をもっと"生のまま"で受け止めたかった。
それは作者自身の言葉にも言えることで、ステキだなと思える気づきや着眼点なども、コテコテのエモさでデコレーションされてしまって受け取りにくくなってしまっていた。
なんというか、美味しい生野菜にマヨネーズをぶっかけたようなもったいなさだと思う。
主観と客観の曖昧な使い分けや、エモめの言葉遣いなどの影響か、友人との長電話のような雰囲気で、それが読みやすさとなり、多くの人の支持に繋がり、本屋大賞ノンフィクション大賞を取るに至ったのかもしれないけど、どうしても独善的に感じてしまう。
色んなことのライトな入り口としてはいいのかもしれない。人と人との関わりとか、アートとの向き合い方に新しい視点や気づきを得る読者もたくさんいると思う。
ただ、個人的に目新しい内容はなく(だからこそ登場する個性的な方々の言葉は私にとってはすごく大切だった)、読み物としても私の趣味にも合わなかった。
もしかしたら「エッセイ」や「ブログ」と思って読んでいたら、少しは感じ方も違ったのかもしれない。
(後から著者の紹介を読むと、旅行記やエッセイを書かれている方とのことで、ある意味で納得)
(なお、個人的にエッセイ全般が苦手とか、旅行記・探検記が嫌いということはないです)
余談だけど
ノンフィクション部門ってこれまで気にしてこなかったけど、小説部門に関して言えば、そもそも本屋大賞ってピンとこないことが結構あった。(すごく好きなのもあったけど…)
本は好きなつもりなのに全国の書店員さんたちとフィーリングが合わないって、なんか寂しいorz
そして更に余談だけど、
美術館の中で喋っているのを注意された時の作者の「美術館はあなたの占有物じゃないんですよ」という内心の反応は、個人的にはどうかしてると思った。
行き過ぎたマナーや同調圧力などに対する息苦しさは自分にも覚えがあるし、もう少し社会が寛容になればという願いも、文字面では共感する。
ただ、彼女が求める「自由」や「寛容さ」は、時々随分と身勝手にも感じられた。
自分は「食べたいものを食べられない」のと「食べたくないものを食べさせられる」のとでは我慢や苦痛の質が違うと思っている。
食べたいものは別の機会に食べたり、別の好きなものを食べたりできるかもしれないけれど、食べたくないものは口に押し込まれた瞬間に終わる。
美術館では一言も喋るなとは言わないが、静かに過ごしたい人のことを無視してはいけないと思うし、(もしかしたら散々我慢した挙句に)静かにしてほしいと言ってきた人の事を「不寛容」の権化のように見なすのは違うと思う。
喋りながら鑑賞したい人もいれば、自力で鑑賞したい人もいるだろうし、目の見えない人がいるように、耳の敏感な人もいるんじゃないかな。
なんか愚痴っぽくなっちゃった。