今回ご紹介するのは「ウエハースの椅子」(著:江國香織)です。
-----内容-----
あなたに出会ったとき、私はもう恋をしていた。
出会ったとき、あなたはすでに幸福な家庭を持っていた―。
私は38歳の画家、中庭のある古いマンションに一人で住んでいる。
絶望と記憶に親しみながら。
恋人といるとき、私はみちたりていた。
二人でいるときの私がすべてだと感じるほどに。
やがて私は世界からはぐれる。
彼の心の中に閉じ込められてしまう。
恋することの孤独と絶望を描く傑作。
-----感想-----
読むのが三冊目となる江國香織さんの作品はまさかの不倫の物語。
ただし不倫をクローズアップしているわけではなく、むしろそこから発生するどうしようもなさや絶望のほうに焦点を当てています。
そしてドロドロとしているわけではなく至って淡々としているのが特徴です。
主人公の女性「わたし」は38歳。
職業は画家をしています。
冒頭からの数ページは子供の頃を回想していました。
母は画家で父は雑誌の記者。
両親から主人公は「ちびちゃん」、妹は「ちびちびちゃん」と呼ばれ、主人公家族は東京のはずれに住んでいました。
回想の終わりの言葉は印象的でした。
みんな、どこにいってしまったのだろう。にぎやかだったのに。みんなどこかにいってしまった。父と母も。
私はもう、二度と彼らに会うことがない。
主人公の回りからは一人、また一人と人がいなくなっていったようです。
祖父母が死に、父が死に、母が死に、残りは妹と二人だけになりました。
他のことはなにもかも忘れてしまえる作業について、主人公は「絵をかいている時間」「蝶ちょをとっている時間」「雪の日に空を見上げている時間」の三つを挙げていました。
そして「雪の日に空を見上げている時間」について詳しく語っていました。
あの空は不思議だ。仄(ほの)あかるく、わずかに砂色を帯びて、そこからきりもなく落ちてくる雪の一片一片の、あのかたち、あの軽み。見上げていると、完全に時間の流れの外にでてしまう。
これは印象的な言葉でした。
読んでいたら雪の降る日の空の様子が鮮明に思い浮かびました。
私も雪の降る日、空を見上げたことがあります。
まさに仄あかるくわずかに砂色を帯びていて、この表現はすごく的確だと思いました。
主人公の恋人は家庭を持っていて、娘と息子が一人ずついます。
つまり完全に不倫です。
恋人は「あなたは世界一美しい」とか甘いようなことを色々言っていますがこれは陳腐に聞こえました。
また、二人は外国に移住する計画を立てていて、「いつか、マジョルカ島あたりで、二人でしずかに心地よく暮らそう」と恋人は言っています。
これはどう考えても嘘だろうと思いました。
この恋人に妻と娘と息子を捨ててマジョルカ島に駆け落ちする勇気があるとは思えません。
あくまで家庭は自分の生活の基盤としてキープしておいて、外に恋人も欲しいという典型的な身勝手さが透けて見えます。
主人公はこんな移住計画を真に受けているのか…と思いきや、そのすぐ後にハッとする文章がありました。
私と恋人の計画は完璧で、そこには何の問題もない。何の問題も。ただ、私にはその日が永遠にやってこないことがわかっている、という一点をのぞけば。
なんと本人もその日が永遠に来ないことが分かっていました。
私は最初主人公のことを「甘い言葉に騙されてしまっている人」と思いましたが、すぐに「嘘と分かっていてもすがり付いてしまう人」と考えを改めることになりました。
嘘と分かっていてもこの恋人と付き合い続けてもしまうのは弱さよりもむしろ人間が持つどうしようもなさのような気がしました。
主人公が子供のころ一番好きだったおやつはウエハースとありました。
ここで作品名にもなっている「ウエハースの椅子」のことが出てきました。
主人公は子供のころウエハースで椅子を作ったことがあります。
ウエハースの椅子は、私にとって幸福のイメージそのものだ。目の前にあるのに―そして、椅子のくせに―、決して腰をおろせない。
これを見ると、主人公の幸福はやはり恋人と一緒になることであり、しかしその幸福は掴み取れないということが読み取れます。
本気で掴み取ろうとすれば恋人には家庭がある関係で色々な問題が発生し、椅子は脆くも崩れ去ってしまうと思います。
淋しさは、突然ぽっかりと口をあける。
この文章は綿矢りささんの
「蹴りたい背中」の語り出し「寂しさは鳴る」と通じるものがありました。
綿矢りささんが第130回芥川賞を受賞した2004年1月、この時に直木賞を受賞したのが江國香織さんであり、そこにちょっとした縁を感じました。
当時は全く読まなかった江國香織さんの小説を最近は読むようになり、不思議なものだと思います。
江國香織さんの作品は文章が淡々としているのが特徴だと思います。
そのおかげでこの作品も変にドロドロせず、至って読みやすくなっています。
この淡々とした力が直木賞という大きな賞の受賞につながったのかなと思います。
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