花びらがしわしわ。
本を捨てて部屋を掃除しないといけない。取捨選択していると捨てられないので、ゴソッと箱に放り込んで捨てるしかない。
ハードディスクが吹っ飛んだりして、写真やら何やら大事なデータも消えてなくなることがある。本もそのように捨てるつもり。
形あるものは全て滅びる、祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きアリ、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
形あるものは全て滅びる、のなら、人にとって大事なものとはなんなのだろう?
長淵剛の歌で「人間になりてぇ」という歌があった。
その歌詞に次のような一節があった。
月並みな、薄っぺらな安らぎなどに、どっぷりはまってたまるものか・・・
当時はこの歌を聴いて格好良さに快哉を叫んだものだが、勘違いしていた。
長渕は、月並みな安らぎにひたる一般人を馬鹿にしていたわけではない。
これは、月並みな薄っぺらな安らぎに飲み込まれそうになっている芸術家、長淵剛の闘争宣言なのである。Declaration なのである。
想像するに、無頼漢、暴れん坊、尖がった刃物のようなミュージシャン、というイメージで数々のヒット曲を作ってきた長渕が齢を重ねフト己を省みたら、セルフイメージとは違う自分がいた。いかんいかん、こんなのは俺じゃない、俺はもっともっと暴れ続けるんだ、という気持でこの歌をつくったのではないだろうか?
当時、自分にはそこまで読み込めなかった。ただ既存の権威だとか価値観に反抗する歌だと思っていた。
たしかこの「人間になりてぇ」の入っている「家族」というアルバムの次だと思うが、「ふざけんじゃねぇ」というアルバムに、長渕は「しあわせの小さな庭」という歌をおさめている。
自分の家族の事を素直に歌った、すごくいい歌なのだが、そこではもう「月並みな薄っぺらな幸せ」などと突っ張った事は言ってない。
歌い手は、花の東京でやっと手に入れた土地に適当におったてた家で隔離されており、引きちぎった電話線を首に巻きつけて「死にてぇ」なんて言ってみるが、その部屋の窓からは庭に咲く花々が見え歌い手の不安と恐怖を解き放ってくれる。
その庭に奥さんと子供たちと幸せの花が咲きますようにとお祈りしながらひまわりの種を播いた。5人家族の庭に背高ノッポの5本のひまわりが咲いてなぜか俺たちは黙って見上げていた。
やっと花咲かせたその5本のひまわりの花がやがてしおれ朽ち果てるとき子供たちは命の儚さに改めて気がつくだろう。
子供たちよ望むらくは真っ直ぐに伸びて苦しくても人より厳しい道を歩き続けてくれたら嬉しい。台所で料理している奥さんは気がつけば3人の母になっていた。
歌い手の老いた父親はその庭でニワトリを追いかけているが、奥さんの寝室に飾ってあるもう死んじまった奥さんの父親が何か語りかけてくる事はあるのかい。
今はただ、幸せの小さな庭で、天まで届け、ひまわりたち・・・
色々なことに折り合いをつけることができたのだろう。
幸せってなんだろうか、とぼんやり考えてうちに色んな事を思い出したものである。
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