まあ、あれはちょっと恥ずかしい話です。
美術の勉強を若いころした。
とても楽しい時間だった。私の物の考え方の基礎は、美術教育ではぐくまれたと感じている。
文学部での旦那と、ときに同調し、ときに微妙に肌合いが違うと感じるのは、そういうところだろうと思う。
私が学んだのは実にオーソドックスな美術で、
湧き上がる創作欲にまかせ、自分の手を動かして作品を作り上げるものだった。
制作過程はとても汚いし、出来上がっても・・・うーむむな感じだ。
スタイリッシュで今風の、デザイン畑の人間とは立ち姿自体が違うので、
このたびの出来事も実に「一般庶民」の感覚でしか理解が出来ない。
お金が絡むとこの醜態なんだろうなあと、…今でも傍観者だ。
だが、デザイン畑のひとに聞いてみたいことが一つ。
組織委員会が公表した「選考課程」というもののことだ。
「原案」があって「修正案」があって「完成版」に至ったというあれ!
所謂、絵描きでいうところのコンクールですよね?
そのコンクールの選考課程で手直しというものが、デザインの世界では許されるものなのか?
例えば油絵のコンクールで賞候補に並んだ作品に、
ここが悪いから直して、それ直したら大賞だよ…と言われて、描き足すこと等ちょっと想像できないのです。
立体や工芸でも、搬入の際に壊れたとしても審査の場で直すなど許されなかったし、
まして、まずこれでいいと制作の手を置いたものに、
自分の意志で作り続けるのではなく、他の人の意向を加えるという作業ができるのだろうか?
世にたった一つしかない芸術作品ではなく、デザインは使われるものという意味の持つものだから、
クライアントの意向にこたえるというのは当然のことなのかもしれない。
でもね一般ピープルの私は、「原案」から印象が大分に変わった「完成版」に違和感を持つのです。
美術は模倣から始まる。これは誰でもが通る過程ではないだろうか?
模倣から始まり、苦しみぬいて自分のものを生み出した何か…という説得力が、このデザインからは感じられなかった。
昔のデザイン科の学生は水張りした大きなパネルを抱え、これが手で引いたものかと思うほど繊細に烏口を使っていたものだ。
今回のこのエンブレムとやらも、そうやって烏口で描かれたものであったら、印象は違ったのではないだろうか?
7000万円もかけてしまった、あの発表イベント。
エンブレムがどうのよりも、そんなことにそんな盛大なイベントを開く必要がどこにあったのだろう?と、主婦感覚では憤懣やるかたない。
都庁の前の広場で「これです!」とやれば、只で済む話じゃないか!
オリンピックは、金持ちの道楽に成り下がってしまったんあだなあ・・・?
アスリートさんたちへ、もうそんなパトロンだよりの祭典はやめにしないか?
すごいなあ!!そんな感動を与えらえる仕事なのだから、もう少し自分たちで自由に公平にできると思うのだけれど・・・?