新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は1971年の作品で、この時期に「芙蓉の人」や「孤高の人」など、山岳小説を多数発表している。
先日、新青森駅から乗ったタクシーは女性運転手でかなり饒舌で、高倉健主演の「八甲田山」映画DVDを8回見たとか、映画と史実は随分違うとか微細に説明するので、八甲田山遭難の情報は否応なく頭にインプットされた。
八甲田山雪中行軍遭難資料館は幸畑墓苑の中にあり、日本陸軍第8師団青森の歩兵第五連隊の210名のうち199名が凍死他で亡くなった凄まじい山岳遭難だ。合掌。
この遭難は明治35年1902年1月下旬の大寒波があった時期で、日露戦争1904年の直前だ。ロシア軍が津軽海峡と陸奥湾を封鎖して八戸方面に上陸することを想定し、青森や弘前から援軍を送る作戦の一環で、八甲田山の山麓を迂回して八戸方面に行く訓練だった。南下を続けるロシア軍との戦闘はそれほど現実味があり、切羽詰まっていた。
現場は八甲田山の山頂ではなく少し下った高原であるが、当時の大寒波はマイナス20℃の猛吹雪が連続しており、遭難現場は2km程度の範囲で3夜の野営を強いられている。このホワイトアウトの中でリングワンデリング(環形彷徨)を繰り返している。吹雪の中のリングワンデリングは典型的な山岳遭難で、真っ直ぐ進んだつもりでも少しずつ曲がって行進し、何度も直進したつもりでもまた同じ場所に戻って来て、力尽き果て死に至る。
当時の兵士の耐寒装備は充分とは言えず、足にトウガラシをはさんで油紙を巻きワラ靴を履いたという。ほとんどの人は手足が凍傷になりゴム長靴の1人は凍傷を免れたという。当時では望むべくもないが現在ではゴアテックスやメリノウール、ダクロンなど耐寒や調湿機能が良くなり、化繊で氷雪が付着せず装備も軽量化している。ただしどんなに装備が充実しても吹雪と寒さは怖くて容赦なく命を奪う。
同時期に訓練で現地を通過した弘前の歩兵31連隊38名は1名の犠牲者もなく、八甲田東麓を通り青森に到着している。新田次郎の小説は2つの歩兵連隊の記述が史実と少し違うようで、資料館に新田次郎の名前は出てこない。
余談だが、新田次郎の「孤高の人」は神戸の三菱重工造船所技師の加藤文太郎をモデルにした小説で、ボクが若いころは彼の単独行にかなり影響を受けた。ちなみに数学者でエッセイスト、お茶の水女子大学の藤原正彦先生は新田次郎のご子息だという。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます