金曜日の夜がめぐろウォーキング塾。土曜日午前中に地区活動。日曜日午前中にこまエコ散歩のお手伝いとウォーキングイベントが目白押しです。ついでに言ってしまえば来週は加賀百万石ウォーク。次の週は将軍お鷹狩ウォークの実踏と週末はほぼウォーキングのイベントが占めています。
ということで本日の地区活動にはウォーキング塾から四名の塾生が参加して、中目黒GTをスタート。目黒川舟入場でストレッチをし、水分補給をしてからウォーキングスタートです。
写真:菅刈公園日本庭園
写真:菅刈公園
写真:ヒメヒオウギ
写真:ヘビイチゴ
写真:シロツメクサ
写真:カヤツリグサ?
写真:オニタビラコ
写真:ドクダミ
写真:ハコベ
菅刈公園は西郷従道の屋敷があった場所で、西郷山公園よりも後に整備されました。Wikipediaに詳しいので抜粋してみましょう。
当地一帯は江戸時代は豊後国岡藩藩主・中川氏の下屋敷であったところであり、特に当家の回遊式庭園は名所として当時の地誌にも載っており知られていた。その後明治時代になって西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入した。しかし、西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されることになった。当地にはフランス人デスカスの設計による洋館と書院造りの和館が並んでいた。その後西郷家は1941年に渋谷に移転し当時の国鉄の手に渡った。
また第二次世界大戦による空襲により和館が焼失するなど次第に西郷邸があったころの面影は薄くなっていった。なお残された洋館は1963年に愛知県犬山市にある明治村に移築され、現在は国の重要文化財に指定されている。その後、邸宅跡地の東側にあたる台地の部分が公園として整備され、当地付近の通称であった「西郷山」(西郷従道にちなんでいる)の名を付した西郷山公園として1981年5月28日に開園している。
菅刈公園のあった場所は戦後しばらく、国鉄職員の宿舎などとして使用されていたが、1997年に目黒区が土地を取得、公園として整備され2001年3月31日に開園した。当公園付近は、江戸時代の回遊式庭園があったところで、公園整備の際の調査で、その遺構が良好に保存されていたことから、公園の一部を当時の回遊式庭園を復元する形で整備された。
一部花の名前がわからないので、ご存知の方は教えてください。
写真:ミキモトのバラ
公園を出ると装飾品のミキモトの本社があり、バラの花がきれいに手入れされており、近隣住民に愛されています。
写真:目黒川
山手通りを少し歩いてから目黒川沿いを遡ります。
写真:東山銀杏並木
東山貝塚公園を見た後、区境を歩き池尻に残る帝国陸軍の馬糧庫を過ぎると東山公園。このあたり東山公園が点在しているのですが、この場所にはかつて国土地理院がありました。東山小学校は校舎の新築工事が終わり、旧校舎の解体が行われているようです。
写真:寿福寺
区内で一番古いお寺は黒仁王の円融寺(九世紀の創建と伝えられている)と言われているのですが、この寿福寺もけっこう歴史があるようです。地元の割にはあまり知らないことなので、様々な資料を引用してみましょう。
目黒区教育委員会掲示による寿福寺の縁起
「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。(目黒区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による寿福寺の縁起
(上目黒村)壽福寺
除地3段7畝12歩、小名宿山組にあり。天台宗下目黒龍泉寺の末なり。新清山と号す。開基は下馬引澤村の人民勝五郎といひしもののよし。今も其子孫吉兵衛と称して、現に其地に住居すれども、当寺草創の年代及び開山和尚の名さへも傳へず。中興の開山を法印高順と云。享保12年10月23日示寂せり。客殿8間に6間半。本尊阿弥陀如来を安置せり。(新編武蔵風土記稿より)
天台宗東京教区の公式サイト
壽福寺は正式には新清山観明院壽福寺といい、元和元年(1615)、大阿闍梨鳳算大和尚によって現在地に創建されたと伝えられていますが、その草創は更に朔り、室町時代末期の頃にはすでに草庵が結ばれていたと推察されます。
壽福寺周辺の地は武蔵野の一角とはいえ、無人の原野ではなく、縄文・弥生時代から人びとの生活が営まれていた土地で、中世時代には相当な生産力のある素朴な文化をもつ地域でした。永禄2年の「小田原衆所領役帳」に「江戸廻目黒本村」と記されていますが、この江戸廻目黒本村とは、のちの上目黒・中目黒・下目黒の三村を指すもので、後北条氏の時代には村落が形成されていたことを物語っており、当寺境内から板碑も発見されています。
寛永7年、三代将軍家光の外護により瀧泉寺が中興され、天海大僧正によって護国院と瀧泉寺の両寺一主の令書が下されましたが、壽福寺が瀧泉寺と本末関係を結んだのはこの頃と思われます。
本堂に安置される青面金剛木造は、寛文3年鎌倉の仏師、法橋三橋靱負と弟子伝之丞によって刻されたもので、寛文6年10月建立の庚申供養が、周辺地域における庚申信仰の中心となっていた事を如実に物語っています。
門前に安置される相生地蔵や石像の多くに第五世智皎と刻され、智皎代の寺運隆昌が偲ばれます。
明治に「神仏分離令」が公布され、壽福寺も子の権現、烏森稲荷の別当職を解かれ、境内地は官有地となり宗教活動に支障をきたす状態に陥りました。
明治8年2月本堂、庫裏を焼失しますが、明治13年12月孝乗和尚によって、行人坂、明王院の念仏堂を移し本堂としました。ここから壽福寺の現代史が始まります。良勉、良雄代に大正大震災と戦災の二大災害を乗り越え、昭和50年10月本堂、庫裏・山門を良文代に新築落慶、由緒ある「念佛堂」の扁額は今も掲げられています。
写真:蛇崩川緑道
写真:バラ
写真:ユリ
予定になかった川井権兵衛さんのお墓を見て、蛇崩川が削った崖路を下り蛇崩川緑道で中目黒駅方面に戻ります。上目黒二丁目公園でストレッチをし、一回目の地区ウォークは終了です。
その後有志は気になった韓国料理おばんざいソウル小町でランチ。生ビールはエーデルピルスで、サッポロ黒ラベル一缶350円とリーズナブルなお値段。今度は夜、チジミを食べに来たいと思います。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
ということで本日の地区活動にはウォーキング塾から四名の塾生が参加して、中目黒GTをスタート。目黒川舟入場でストレッチをし、水分補給をしてからウォーキングスタートです。
写真:菅刈公園日本庭園
写真:菅刈公園
写真:ヒメヒオウギ
写真:ヘビイチゴ
写真:シロツメクサ
写真:カヤツリグサ?
写真:オニタビラコ
写真:ドクダミ
写真:ハコベ
菅刈公園は西郷従道の屋敷があった場所で、西郷山公園よりも後に整備されました。Wikipediaに詳しいので抜粋してみましょう。
当地一帯は江戸時代は豊後国岡藩藩主・中川氏の下屋敷であったところであり、特に当家の回遊式庭園は名所として当時の地誌にも載っており知られていた。その後明治時代になって西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入した。しかし、西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されることになった。当地にはフランス人デスカスの設計による洋館と書院造りの和館が並んでいた。その後西郷家は1941年に渋谷に移転し当時の国鉄の手に渡った。
また第二次世界大戦による空襲により和館が焼失するなど次第に西郷邸があったころの面影は薄くなっていった。なお残された洋館は1963年に愛知県犬山市にある明治村に移築され、現在は国の重要文化財に指定されている。その後、邸宅跡地の東側にあたる台地の部分が公園として整備され、当地付近の通称であった「西郷山」(西郷従道にちなんでいる)の名を付した西郷山公園として1981年5月28日に開園している。
菅刈公園のあった場所は戦後しばらく、国鉄職員の宿舎などとして使用されていたが、1997年に目黒区が土地を取得、公園として整備され2001年3月31日に開園した。当公園付近は、江戸時代の回遊式庭園があったところで、公園整備の際の調査で、その遺構が良好に保存されていたことから、公園の一部を当時の回遊式庭園を復元する形で整備された。
一部花の名前がわからないので、ご存知の方は教えてください。
写真:ミキモトのバラ
公園を出ると装飾品のミキモトの本社があり、バラの花がきれいに手入れされており、近隣住民に愛されています。
写真:目黒川
山手通りを少し歩いてから目黒川沿いを遡ります。
写真:東山銀杏並木
東山貝塚公園を見た後、区境を歩き池尻に残る帝国陸軍の馬糧庫を過ぎると東山公園。このあたり東山公園が点在しているのですが、この場所にはかつて国土地理院がありました。東山小学校は校舎の新築工事が終わり、旧校舎の解体が行われているようです。
写真:寿福寺
区内で一番古いお寺は黒仁王の円融寺(九世紀の創建と伝えられている)と言われているのですが、この寿福寺もけっこう歴史があるようです。地元の割にはあまり知らないことなので、様々な資料を引用してみましょう。
目黒区教育委員会掲示による寿福寺の縁起
「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。(目黒区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による寿福寺の縁起
(上目黒村)壽福寺
除地3段7畝12歩、小名宿山組にあり。天台宗下目黒龍泉寺の末なり。新清山と号す。開基は下馬引澤村の人民勝五郎といひしもののよし。今も其子孫吉兵衛と称して、現に其地に住居すれども、当寺草創の年代及び開山和尚の名さへも傳へず。中興の開山を法印高順と云。享保12年10月23日示寂せり。客殿8間に6間半。本尊阿弥陀如来を安置せり。(新編武蔵風土記稿より)
天台宗東京教区の公式サイト
壽福寺は正式には新清山観明院壽福寺といい、元和元年(1615)、大阿闍梨鳳算大和尚によって現在地に創建されたと伝えられていますが、その草創は更に朔り、室町時代末期の頃にはすでに草庵が結ばれていたと推察されます。
壽福寺周辺の地は武蔵野の一角とはいえ、無人の原野ではなく、縄文・弥生時代から人びとの生活が営まれていた土地で、中世時代には相当な生産力のある素朴な文化をもつ地域でした。永禄2年の「小田原衆所領役帳」に「江戸廻目黒本村」と記されていますが、この江戸廻目黒本村とは、のちの上目黒・中目黒・下目黒の三村を指すもので、後北条氏の時代には村落が形成されていたことを物語っており、当寺境内から板碑も発見されています。
寛永7年、三代将軍家光の外護により瀧泉寺が中興され、天海大僧正によって護国院と瀧泉寺の両寺一主の令書が下されましたが、壽福寺が瀧泉寺と本末関係を結んだのはこの頃と思われます。
本堂に安置される青面金剛木造は、寛文3年鎌倉の仏師、法橋三橋靱負と弟子伝之丞によって刻されたもので、寛文6年10月建立の庚申供養が、周辺地域における庚申信仰の中心となっていた事を如実に物語っています。
門前に安置される相生地蔵や石像の多くに第五世智皎と刻され、智皎代の寺運隆昌が偲ばれます。
明治に「神仏分離令」が公布され、壽福寺も子の権現、烏森稲荷の別当職を解かれ、境内地は官有地となり宗教活動に支障をきたす状態に陥りました。
明治8年2月本堂、庫裏を焼失しますが、明治13年12月孝乗和尚によって、行人坂、明王院の念仏堂を移し本堂としました。ここから壽福寺の現代史が始まります。良勉、良雄代に大正大震災と戦災の二大災害を乗り越え、昭和50年10月本堂、庫裏・山門を良文代に新築落慶、由緒ある「念佛堂」の扁額は今も掲げられています。
写真:蛇崩川緑道
写真:バラ
写真:ユリ
予定になかった川井権兵衛さんのお墓を見て、蛇崩川が削った崖路を下り蛇崩川緑道で中目黒駅方面に戻ります。上目黒二丁目公園でストレッチをし、一回目の地区ウォークは終了です。
その後有志は気になった韓国料理おばんざいソウル小町でランチ。生ビールはエーデルピルスで、サッポロ黒ラベル一缶350円とリーズナブルなお値段。今度は夜、チジミを食べに来たいと思います。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
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