訪れた場所はこれまでにも行ったことがある場所ですが、コースとしては初めてのコースとなります。すこやか歩こう会が発足して二十年近くになるので、目黒区内は歩きつくした感があります。従来の区内庚申塔めぐりのコースを再編しようと思って探していて見つけたのが区内文化財めぐりです。生涯学習課文化財係が担当して区内文化財めぐりを不定期で実施しています。
区内文化財めぐりの参加者を募集します。職員の解説付きで、文化財を歩いてめぐります。区内の各地域にある文化財を通して、目黒区の歴史に触れてみませんか。
ということで、次回は10月21日に碑文谷方面で実施されるようです。今ならまだ申し込みが間に合うようですよ。
今回のコースは平成22年6月13日に実施された文化財めぐりで訪れた場所を訪れます。歩くルートは私が勝手に考えたものですが、文化財めぐりで歩いたルートとそれほど違いはないと思います。
ブログの写真はいつもコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)で撮影するのですが、この日は持ってゆくのを忘れてスマホで撮影しました。歩きながらバシャバシャとるには、コンデジの方が使いやすいです。
上目黒氷川神社
大山道(現在の玉川通り)の道標
氷川神社の由来
氷川神社(ひかわじんじゃ)
大橋2-16-21
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)主神とし、天照大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)を合祀しています。
旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。
境内には花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。また、石段の下には「武州荏原(えばら)郡菅刈(すげかり)荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道への道標があります。
大山道は江戸時代、石尊参(せきぞんまい)り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
境内には、目切坂(めきりさか)上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
平成22年3月
目黒区教育委員会
氷川神社
富士浅間神社
丸旦の石碑
稲荷神社
急な階段の上のご本殿の左右に末社の浅間神社と、稲荷神社があります。丸旦は江戸時代この地域にあった富士講で、目黒元富士には丸旦の会員が富士山から持ち帰った富士山の溶岩などが埋められた富士塚があり、明治維新後目黒元富士の場所に岩倉具視の別荘が建てられる際に、溶岩や石碑が上目黒氷川神社に移されました。現在元富士の場所にはキングホームズというマンションが建ち、別荘の敷地だった場所では東京音楽大学の校舎建設工事が続いています。
東山貝塚公園
こちらは目黒区の文化財めぐりのページから引用してみましょう。
東山貝塚・東山貝塚公園
東山貝塚は、北区の西ヶ原貝塚、港区の丸山貝塚とともに都内三大貝塚とよばれた著名な貝塚でしたが、駒沢練兵場や区画整理などで比較的早い時期に消滅したものと考えられていました。
しかし、昭和58年から60年の発掘調査で縄文時代の住居跡が次々と発見され、集落の一部が残っていることがわかりました。現在まで住宅建設などの際に断続的に調査が行われ、旧石器時代の礫れき、縄文時代中期から晩期の住居跡、土坑墓(どこうぼ)、落し穴、弥生時代後期・古墳時代の住居跡、駒沢練兵場跡などが見つかっています。
区立東山貝塚公園(目黒区東山三丁目16番7号)には縄文人の生活を再現したコンクリート製の竪穴住居があります。また、貝塚が出土した公園西側の斜面のあたりから、今も水が湧き出しています。
いつもは竪穴式住居のレプリカを見るだけですが、湧水を確認してみると結構な量の水が湧きだしています。
東山街かど公園
東山貝塚遺跡
東山貝塚遺跡(ひがしやまかいづかいせき)
東山3-20-1(東山街かど公園)
この公園の地下1mのところから、縄文時代中期(約4,500年~5,000年前)の竪穴住居址が2軒発見されました。
1号住居址は直径約6mの住居で六角形に近い形をしていました。住居址の中央のやや北寄りに火をたいた炉の跡があり、壁ぎわからは大型の深鉢が横倒しの状態でみつかりました。また、この住居には建て直したあとが残っていました。
2号住居址は直径約3.5mのほぼ円に近い形をしていました。この住居址は4本の柱穴があり、炉には深鉢が埋められていました。
2号住居址のあった場所を白いタイルで表示してあります。炉のあとは赤いタイルで、柱穴は丸プレートで示しています。
この遺跡から発見された土器などは目黒区教育委員会で保管しています。
平成22年3月 目黒区教育委員会
貝塚公園は子供のころから知っているものの、こちらの公園に住居跡が描かれていることは知りませんでした。炉の跡の赤いタイルなど、プランターで隠されていて確認さえできないのですから。見に来る人もいないのかもしれませんが、地元の人たちは知っているくらいのアピールがほしいと思います。
東山小学校
昭和33年開校の区内最後の公立小学校となります。以前の校庭はアスファルトで狭かったのですが、隣接した官舎があった場所とその間にあった道路を統合して広くて立派な小学校になりました。
寿福寺
寿福寺
上目黒5-16
「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。
平成5年3月
目黒区教育委員会
烏森神社が寿福寺内に祀られていたことは知っていたのですが、明治維新前に現在の地に移されているようです。蛇崩川が削った崖から水がどこどこ湧きだし、神社を祀るにはいい場所でしたね。現在湧水は涸れてしまいました。菅刈小学校は烏森神社近くで創立されたという記事を目黒区のページから引用しましょう。
目黒の地名 菅刈
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう
芦毛塚
駒繋神社
どちらも源頼朝に関連した由緒が残っています。駒繋神社は世田谷区ですが、芦毛塚がある(道の真ん中に残されている)道は目黒と世田谷の区界で元は鎌倉街道です。ここから環七まで、鎌倉街道の跡が区界となります。江戸方面へ、蛇崩から寿福寺の前を通り目黒ゴルフ練習場から小川坂に入ります。目黒川を宿山橋で渡り、目切坂を登って江戸へむかいます。目切坂上のヒルサイドテラス内に残された猿楽塚も源氏がらみの由緒が残されています。
世田谷観音
世田谷山観音寺
昭和26年睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜山浅草寺に請い、開眼の法を修したものである。本尊は、聖観世音菩薩で、他に特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は、国のため若き命を捧げた特攻隊員4615柱の英霊の安息所とし、また、それぞれの堂には、国指定重要文化財の不動明王ならびに八木童子像が安置され、他に都指定有形文化財の五百羅漢座像が安置されている。
昭和54年3月
世田谷区教育委員会
戦後創建のわりに十二世紀期後半に作られた都内最古の仁王像があったり、国指定重要文化財の「不動明王並びに八大童子」があったり、なんかすごい観音様です。
世田谷観音御本堂
夢違観音
不動明王堂
阿弥陀堂韋駄天(いだてん)
このあたりはウォーキングでよくとおるのですが、こちらに来たのは二回目となります。9月23日は「特攻平和観音年次法要」があり、特別な雰囲気だったのですが、今度お不動様にできてみようかと思いました。
野沢龍雲寺
子供のころから野沢龍雲寺行きのバスを時々利用するので、名称はよく知っていても、訪れるのは二回目だと思います。こちらもお彼岸で多くの方がご参拝にいらしていました。
立派な槇の木
野沢三丁目にありました。近所には野沢園など造園業が多いので、造園に関係するお宅なのかもしれません。
ハギ
オバナ
萩桔梗、葛藤袴女郎花、尾花撫子、秋の七草。初めに女郎花を撮ったので後もできるだけ撮ろうと萩と尾花を撮ったのですが、女郎花の写真が使えなくてこれだけです。目黒世田谷あたりでは女郎花や藤袴が自然に生えているところはなくなかなか撮る機会がありません。葛もそれほど見かけないかな。
文化財めぐり上目黒コースはこの後碑文谷体育館まで歩きストレッチをして解散しました。次回上目黒2コースで訪れるのは
・大橋氷川神社
・天覧台碑
・池尻稲荷神社
・区立東山貝塚公園
・寿福寺
・烏森稲荷神社
・目黒銀座観音
となっていますが、どうなりますやら。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
区内文化財めぐりの参加者を募集します。職員の解説付きで、文化財を歩いてめぐります。区内の各地域にある文化財を通して、目黒区の歴史に触れてみませんか。
ということで、次回は10月21日に碑文谷方面で実施されるようです。今ならまだ申し込みが間に合うようですよ。
今回のコースは平成22年6月13日に実施された文化財めぐりで訪れた場所を訪れます。歩くルートは私が勝手に考えたものですが、文化財めぐりで歩いたルートとそれほど違いはないと思います。
ブログの写真はいつもコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)で撮影するのですが、この日は持ってゆくのを忘れてスマホで撮影しました。歩きながらバシャバシャとるには、コンデジの方が使いやすいです。
上目黒氷川神社
大山道(現在の玉川通り)の道標
氷川神社の由来
氷川神社(ひかわじんじゃ)
大橋2-16-21
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)主神とし、天照大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)を合祀しています。
旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。
境内には花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。また、石段の下には「武州荏原(えばら)郡菅刈(すげかり)荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道への道標があります。
大山道は江戸時代、石尊参(せきぞんまい)り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
境内には、目切坂(めきりさか)上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
平成22年3月
目黒区教育委員会
氷川神社
富士浅間神社
丸旦の石碑
稲荷神社
急な階段の上のご本殿の左右に末社の浅間神社と、稲荷神社があります。丸旦は江戸時代この地域にあった富士講で、目黒元富士には丸旦の会員が富士山から持ち帰った富士山の溶岩などが埋められた富士塚があり、明治維新後目黒元富士の場所に岩倉具視の別荘が建てられる際に、溶岩や石碑が上目黒氷川神社に移されました。現在元富士の場所にはキングホームズというマンションが建ち、別荘の敷地だった場所では東京音楽大学の校舎建設工事が続いています。
東山貝塚公園
こちらは目黒区の文化財めぐりのページから引用してみましょう。
東山貝塚・東山貝塚公園
東山貝塚は、北区の西ヶ原貝塚、港区の丸山貝塚とともに都内三大貝塚とよばれた著名な貝塚でしたが、駒沢練兵場や区画整理などで比較的早い時期に消滅したものと考えられていました。
しかし、昭和58年から60年の発掘調査で縄文時代の住居跡が次々と発見され、集落の一部が残っていることがわかりました。現在まで住宅建設などの際に断続的に調査が行われ、旧石器時代の礫れき、縄文時代中期から晩期の住居跡、土坑墓(どこうぼ)、落し穴、弥生時代後期・古墳時代の住居跡、駒沢練兵場跡などが見つかっています。
区立東山貝塚公園(目黒区東山三丁目16番7号)には縄文人の生活を再現したコンクリート製の竪穴住居があります。また、貝塚が出土した公園西側の斜面のあたりから、今も水が湧き出しています。
いつもは竪穴式住居のレプリカを見るだけですが、湧水を確認してみると結構な量の水が湧きだしています。
東山街かど公園
東山貝塚遺跡
東山貝塚遺跡(ひがしやまかいづかいせき)
東山3-20-1(東山街かど公園)
この公園の地下1mのところから、縄文時代中期(約4,500年~5,000年前)の竪穴住居址が2軒発見されました。
1号住居址は直径約6mの住居で六角形に近い形をしていました。住居址の中央のやや北寄りに火をたいた炉の跡があり、壁ぎわからは大型の深鉢が横倒しの状態でみつかりました。また、この住居には建て直したあとが残っていました。
2号住居址は直径約3.5mのほぼ円に近い形をしていました。この住居址は4本の柱穴があり、炉には深鉢が埋められていました。
2号住居址のあった場所を白いタイルで表示してあります。炉のあとは赤いタイルで、柱穴は丸プレートで示しています。
この遺跡から発見された土器などは目黒区教育委員会で保管しています。
平成22年3月 目黒区教育委員会
貝塚公園は子供のころから知っているものの、こちらの公園に住居跡が描かれていることは知りませんでした。炉の跡の赤いタイルなど、プランターで隠されていて確認さえできないのですから。見に来る人もいないのかもしれませんが、地元の人たちは知っているくらいのアピールがほしいと思います。
東山小学校
昭和33年開校の区内最後の公立小学校となります。以前の校庭はアスファルトで狭かったのですが、隣接した官舎があった場所とその間にあった道路を統合して広くて立派な小学校になりました。
寿福寺
寿福寺
上目黒5-16
「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。
平成5年3月
目黒区教育委員会
烏森神社が寿福寺内に祀られていたことは知っていたのですが、明治維新前に現在の地に移されているようです。蛇崩川が削った崖から水がどこどこ湧きだし、神社を祀るにはいい場所でしたね。現在湧水は涸れてしまいました。菅刈小学校は烏森神社近くで創立されたという記事を目黒区のページから引用しましょう。
目黒の地名 菅刈
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう
芦毛塚
駒繋神社
どちらも源頼朝に関連した由緒が残っています。駒繋神社は世田谷区ですが、芦毛塚がある(道の真ん中に残されている)道は目黒と世田谷の区界で元は鎌倉街道です。ここから環七まで、鎌倉街道の跡が区界となります。江戸方面へ、蛇崩から寿福寺の前を通り目黒ゴルフ練習場から小川坂に入ります。目黒川を宿山橋で渡り、目切坂を登って江戸へむかいます。目切坂上のヒルサイドテラス内に残された猿楽塚も源氏がらみの由緒が残されています。
世田谷観音
世田谷山観音寺
昭和26年睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜山浅草寺に請い、開眼の法を修したものである。本尊は、聖観世音菩薩で、他に特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は、国のため若き命を捧げた特攻隊員4615柱の英霊の安息所とし、また、それぞれの堂には、国指定重要文化財の不動明王ならびに八木童子像が安置され、他に都指定有形文化財の五百羅漢座像が安置されている。
昭和54年3月
世田谷区教育委員会
戦後創建のわりに十二世紀期後半に作られた都内最古の仁王像があったり、国指定重要文化財の「不動明王並びに八大童子」があったり、なんかすごい観音様です。
世田谷観音御本堂
夢違観音
不動明王堂
阿弥陀堂韋駄天(いだてん)
このあたりはウォーキングでよくとおるのですが、こちらに来たのは二回目となります。9月23日は「特攻平和観音年次法要」があり、特別な雰囲気だったのですが、今度お不動様にできてみようかと思いました。
野沢龍雲寺
子供のころから野沢龍雲寺行きのバスを時々利用するので、名称はよく知っていても、訪れるのは二回目だと思います。こちらもお彼岸で多くの方がご参拝にいらしていました。
立派な槇の木
野沢三丁目にありました。近所には野沢園など造園業が多いので、造園に関係するお宅なのかもしれません。
ハギ
オバナ
萩桔梗、葛藤袴女郎花、尾花撫子、秋の七草。初めに女郎花を撮ったので後もできるだけ撮ろうと萩と尾花を撮ったのですが、女郎花の写真が使えなくてこれだけです。目黒世田谷あたりでは女郎花や藤袴が自然に生えているところはなくなかなか撮る機会がありません。葛もそれほど見かけないかな。
文化財めぐり上目黒コースはこの後碑文谷体育館まで歩きストレッチをして解散しました。次回上目黒2コースで訪れるのは
・大橋氷川神社
・天覧台碑
・池尻稲荷神社
・区立東山貝塚公園
・寿福寺
・烏森稲荷神社
・目黒銀座観音
となっていますが、どうなりますやら。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール