すこやか歩こう会では二か月に一度歩行計画を郵送します。環境が整った方はネットからダウンロードしてご自身でプリントします。年明け一月二月分は十二月に発送します。初めて歩くところの下見を済ませなければならず、二月一週目に予定している七福神めぐりの下見に行きました。
小石川七福神めぐりの色紙
小石川七福神めぐり案内図
茗荷谷駅を起点とすることに決めて、深光寺からめぐり始めることにしました。七福神めぐりを通年実施しているところは珍しく、小石川七福神めぐりは元日から七日まで実施されます。深光寺さんで尋ねてみると、色紙と案内図は通年販売していますが、御朱印をもらえるかどうかそれぞれのお寺によって対応が異なるとのことでした。とりあえず色紙500円、御朱印300円、案内図100円を入手しました。色紙に深光寺さんと東京ドーム以外の御朱印がないのは、単に私がお願いしなかったためで、下見を行った11月29日でも御朱印を対応してくれるお寺もありますし、対応していないお寺もあります。ちなみに二月の本番の際は、御朱印収集を不可としスタンプ収集のみを可とします。あくまでもウォーキングクラブの活動なので、御朱印収集は改めて個人で訪れてくださいということです。
小石川七福神めぐりの由来を案内図から引用します。案内図の発行者は「小石川七福神事務局真珠院」です。以降特に断りのない場合はこちらの案内図からの引用となります。(案内板の写しを除く)
除難・招福を願う七福神詣での起源について定説はないが、15世紀頃に京都で行われていた記録もある。後世、天海僧正が徳川家康公に仁王護国経の「七難即滅、七福即生、人民安楽、帝王歓喜」を引用し「将軍には長寿・人望・威光等の七福相がある」と言上し、それに相応して寿老人他を示してから一般化した。小石川七福神は平成7年の発足である。
茗荷谷駅近くの案内板
縛られ地蔵
深光寺の手前にある林泉寺を訪れました。
縛られ地蔵
小日向4-7-2 林泉寺
人々が願いをかけるとき地蔵尊を縄で縛り願いが叶うと縄をほどくので、しばり地蔵ともいわれた。『江戸砂子』には小日向林泉寺の、しばり地蔵は大変有名であると記されている。
「昔、呉服屋の手代が地蔵さまの前で休み居眠りをしているうちに反物を盗まれしまった。奉行は石地蔵が怪しいと言って地蔵を荒縄でしばり奉行所に運んだので物見高い見物人が一緒に奉行所に入ってしまった。許しもなく入った人々に罰として三日以内に反物を持参させた。その中に盗まれた品があり犯人を検挙した。」この「大岡政談」 の話の地蔵尊は現在の葛飾区東水元(南蔵院)にあるが、「縛られ地蔵」とし有名になったのもこの頃からと思われる。
=郷土愛をはぐくむ文化財 =
文京区教育委員会
昭和60年3月
茗荷坂
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
文京区
深光寺
恵比寿 深光寺(じんこうじ)
商売繁盛、富財の福徳を授けて下さる恵比寿神は、唯一日本固有の福神です。鯛と釣竿姿は《釣りして綱せず》の言われで、清廉にして暴利を戒めた教えです。
同寺の恵比寿像は、従来から祀られていだ絵図のお前立として、石田栄一氏が作像したものです。
深 光 寺 小日向4-9-5
寺伝によれば「権現様より御三代まで仕えた御用人森源七郎(深光院殿)が、報恩と御家繁栄を祈願し、寛永年間に創建した」とする。開山は顕蓮社善誉上人。
本堂左奥に、「著作堂隠誉蓑笠居士」碑銘の唐破風型の墓石が在る。「南総里見八犬伝」などで名高い江戸の戯作者滝沢馬琴のものである。墓地に立つキリシタン灯鰭も有名。
滝沢馬琴の墓
滝沢馬琴 墓 (文京区指定史跡 )
馬琴は、江戸の人。明和4年~嘉永元年(1767~1848)。江戸時代後期の『著名な戯作者。”南総里見八犬伝 ””椿説弓張月 ”など、多数の作品を残した。
著作堂(ちょさどう)、蓑笠(さりゅう)、玄同(げんどう)など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。
墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさどういんよさりゅうこじ)」と、馬琴より先に没した妻お百の法名「黙誉静舟到岸大姉(もくよせいしゅうとうがんだいし)」があり、台石には、馬琴の蔵書印といわれる家形の模様が刻まれている。江戸時代後期の著名な戯作者の墓として、歴史的価値が高い。(墓は本堂左わき)
なお、馬琴の墓の後ろ左側には、晩年、失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた、嫁の路女(みちじょ)が眠る墓がある。法名・操誉順節路霜大姉(そうよじゅんせつろそうだいし)。
浄土宗 深光寺(じんこうじ) 文京区小日向4-9-5
文京区教育委員会 平成3年3月
釈迦坂
春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。
アロエの花
徳雲寺
弁財天 徳雲寺(とくうんじ)
諸芸・福財に因む弁財天は、普通女神とされています。古いインドの聖典に記された一女神や宇賀神将と、役割や容相が酷似しているため創られた女形神像です。
当寺のご真体は、鎌倉円覚寺の大鏡(国宝)弁財天のご分身で、男性のお顔の《人頭蛇身》です。
徳雲寺(弁財天-男)小日向4-4-1
一翁存碩觜禅師を開山とし、はじめ解脱寺と称した臨済宗円覚寺派寺院。後、白鴎山江南寺、さらに妙峯山徳雲寺と現在名に改称。開基は旗本深谷又佐衛門外2名。
新編江戸誌に「古大木の椎の木あり。元禄中比の御成の時、椎末寺なりと台命ありしより寺の名とせり」と
男弁天様の扉は閉じられ見ることはできません。正月七日までは御開帳されているようですが、撮影禁止となっているので、写真でご紹介することはできません。スタンプが見つからなかったお寺は空欄になっています。
播磨坂
高橋泥舟 山岡鉄舟 旧居跡
春日通りを歩き、播磨坂に曲がって下ってゆきます。
高橋泥舟(でいしゅう)(1835~1903) 山岡鉄舟(てっしゅう)(1836~1888) 旧居跡
小石川五丁目1
下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟 の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
泥舟は槍術の大家山岡静山 の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡家を継いだ。
二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎 の呼びかけで、近藤勇 らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜 に恭順を説き、身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟 の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛 に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
文京区教育委員会
平成26年3月
極楽水
弁財天 極楽水(ごくらくすい)
弁舌・芸術の諸才を恵んで下さるので、弁才天とされていた女神は梵天の配偶神とも言われます。今日では、多財を与える神でもあるので弁財天の語が使われます。
当舎の弁財天のご実体は、白蛇ですが、女神のお絵図が共に祀られています(スタンプは宗慶寺預)。
極楽水(弁財天-女)小石川4-16-13 小石川パークタワー公開緑地内
江戸名所記に「小石川極楽の井は、そのかみ傳通院の開山了誉聖冏上人、この地に草庵を結びし時に、龍女かたちを現して上人にまみえ、仏法の深さ旨を求めしかば、上人すなわち弥陀の本願、他力の要法を示したまう。龍女、恩に報い清泉を湧き出し奉る(概要)」とある。多々変遷の後、寵女に因む弁才天の詞は、現在小石川パークタワーの庭園内に存する。
極楽水
極楽水
文京区小石川4-16 小石川パークタワー敷地内
ここは、了誉聖冏 上人が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり」とある。
現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。
郷土愛をはぐくむ 文化財
文京区教育委員会
平成5年10月
宗慶寺
寿老人 宗慶寺(そうけいじ)
健康と寿命を司る富貴長寿の神が寿老人です。この神は中国最古の哲学道家の祖、老子の化身ともされ学問の神でもあります。道教では《寿星》といっています。
学問第一と言われた聖冏上人の創建にかかわる当寺の寿老人は、田中舒久氏の彫刻による木像です。
宗 慶 寺 小石川4-15-17
極楽水と呼ばれるようになった吉水の辺に、聖冏上人が結ばれた草庵は、伝法院とも称した。三日月上人と呼ばれて親しまれた上人は、後に寿経寺(傳通院)を開山し、幾多の学僧を育てている。家康の死後、側室の阿茶の局(松平忠輝生母)は俗世を逃れて伝法院に隠棲し、死後当院に葬られた。これ以降、法名朝覚院殿貞誉宗慶大姉に因み寺名を改称した。
阿茶局墓碑解説板
茶阿局墓碑(ちゃあのつぼねぼひ)(小石川4-15-17)
この墓碑は、元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。
茶阿局 は、駿河(現静岡県)の人で、徳川家康の側室として、家康の第六男忠輝(松平)の生母となった。家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫(るたく)中の忠輝を案じながら、元和7年6月12日、没した。
法名「朝覚院殿貞誉宗慶大膳定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く、応永22年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大(おだい)の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。
浄土宗 吉水山朝覚院宗慶寺
郷土愛をはぐくむ文化財
東京都文京区教育委員会
昭和63年3月
エーザイ株式会社本社
真珠院
布袋尊 真珠院(しんじゅいん)
弥勒仏の化身とされ、腹の大きいのは大度量、袋一つを背負うのは分に安じた姿、ニコニコ顔は堪忍の貴さを表し《寛容の徳》を人々に与える福神です。
当院の布袋尊は『墓地中を歩く布袋さまを見た』先代老住職の夢を機に祀るようになったものです。
真 珠 院 小石川3-7-4
徳川家康公の生母於大の方(傳通院殿)の生家、松本藩のちに沼津藩主となった水野家の菩提寺。開山は運蓮社霊誉単無上人、開基は水野忠清公(真珠院殿)。歴代藩主の墓碑が存する墓域奥に、布袋大石像を祀る。
境内に、布袋に因む釈迦・弥勒・地蔵を祀る三尊堂、浄土二十五砂踏霊場や来迎二十五菩薩を配した岩山などが特色の浄土庭園がある。
小石川七福神奉納絵馬
七福神
水野家墓所
天保の改革の水野忠邦との関係は薄いようです。
処静院跡の石柱
浪士隊結成の処静院跡の石柱 伝通院 小石川 3-14-6
この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織-”浪士隊”の結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。
郷土愛をはぐくむ文化財
東京都文京区教育委員会 平成元年三月
伝通院
於大の墓
於大の墓 (区指定史跡)
享禄元年~慶長7年(1528~1602)、徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。
後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。
東京都文京区教育委員会 昭和62年3月
千姫の墓
千姫の墓 (区指定史跡)
慶長2年~寛文6年(1597~1666)。二代将軍秀忠の娘。
慶長8年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大阪城にはいる。
元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。
東京都文京区教育委員会 昭和62年3月
ツタがきれいだった墓
境内墓地参拝図
伝通院山門
ツタが鮮やかだったので写真に撮りましたが、参拝図には載っていなかったのでどなたのお墓なのかわかりません。伝通院でトイレ休憩となりそうです。
福聚院
大黒天 福聚院(ふくじゅいん)
当院の大黒天は、御身に甲骨を着して外からの災難を防ぎ、右手に宝袋、左手に宝棒を持つ、外難を防ぎ福縁を与える古い原型の姿の尊像です。後に招福開運の強調、大国主命信仰と習合し、俵に腰掛けた現在型ができました。当院尊天別称は出世大黒天・叶大黒天。
福 衆 院 小石川3-2-23
傳通院の鎮守寺として江戸時代末期に傳通院三十六世霊応上人により祀られた大黒天をご本尊として、家門繁栄・商売繁盛・心願成就・厄除け・交通安全などの祈願が大黒天のお祭り『甲子の日』に大護摩奉修される。境内には咳止め子育て地蔵があり、咳が治るとお礼に唐辛子を奉納することから「唐辛子地蔵」とも呼ばれている。
案内板に幼稚園のお知らせを貼ってしまう所が庶民的というかなんというか。境内がそのまま幼稚園になっており門が閉まっているので、中には入れませんでした。
福聚院案内板
木造・大黒天坐像一躯(文京区指定文化財)
像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれて、見るべきものがある木造彫刻といえる。
特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ると考えられることなどを含め貴重な文化財である。
大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。
江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。
しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。
傳通院山内 福聚院 大黒天
小石川三丁目2-23
文京区教育委員会
平成18年3月
善光寺坂のムクノキ
善光寺坂 のムクノキ 文京区指定天然記念物
所在地 小石川3丁目18番(ポケットパーク内)
指定 平成25年3月1日
樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木 である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。
ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。
この場所は江戸時代、伝通院 の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)の神木 として現在に至っている。
樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木 である。
平成26年1月
文京区教育委員会
えんま通り商店街
ナンテンの紅葉
こんにゃくえんま
源覚寺
毘沙門天 源覚寺(げんかくじ)
別名を多聞天とも言い、仏教の守護神四天王の一尊でもあり、憤怒の形相に甲骨をつけ、左手には福を与える宝塔を捧げ、右手には外敵を打ち砕く鉾槍を持ち、人々に勇気と威光の徳を与える神です。お堂の木彫像は、以前から拝されていた絵図に代わる尊像です。
源覚寺(こんにゃく閻魔)小石川2-23-14
樋口一葉始め多くの文学に記されている当寺は、傳通院三世定誉随波上人を開山とする。
寺名の通称は「安置の閻魔大王は、その昔小野皇一刀三礼の御作なり。宝暦の頃、眼病の老婆この尊像に治癒の願を掛く。閻魔、おのが片目を与えこの願を容れ眼病を治す。老婆、好物の蒟蒻を断ち閻魔に報う」に拠る。歯痛平癒祈願の「塩地蔵尊」も祀られている。
塩地蔵尊
汎太平洋の鐘
「こんにゃくえんま」は聞いたことがあるような気はしますがその由来は知らず、何より毎日通っていた丸ノ内線後楽園駅近くにあることは目からうろこというべきでしょうか。こちらは御朱印を受け付けていましたが、他も歯抜けだらけなのでもらわずに済ませました。
東京ドーム
福禄寿
福禄寿 東京ドーム
頭が異常なほど長くて大きく、豊かな白髭を蓄えた老翁姿が、長命と円満な人格を授けてくれる招福人徳の神、福禄寿です。この神も星宿にかかわるものです。
旧水戸屋敷に福禄寿が祀られていた縁から、跡地の東京ドームに再祀されるようになったものです。
旧水戸屋敷と東京ドーム 後楽1-3-61
水戸徳川家上屋敷として、二代光園の時完成した現後楽園庭園に、かつては福禄寿が祀られていた。庭園地続きの屋敷地に威容を構える東京ドームは、野球の殿堂、ラクーア、アトラクションズ、ホテルなど総合娯楽センターである。前記の縁で再祀される福禄寿は、22番ゲート前総合案内所横、クリスタルポイント(ガラスの三角塔)を回り込んだ奥、植込みの中にある。「アトラクションズ」ジオポリス屋上。
東京ドームの御朱印は自分で押印するもので無料だったのでいただいてきました。総合案内所の方が丁寧に教えてくださいました。
錦秋稲荷
東京ドームの敷地は広くてストレッチする場所には事欠きませんが、ちょっと恥ずかしい感じがします。ここに来る前にある礫川公園あたりがストレッチにはちょうどいいかもしれません。
今回は引用ばかりで茶色がちになってしまいました。関東大震災以降人口が増加した目黒区とは違って、江戸初期に伝通院が建立され、江戸末期には武士が住んでいた文京区は歴史の厚みが違います。武蔵野台地の東端ということもあり、谷根千とも異なる歴史文化を感じます。そんな違いを発見できる、楽しい七福神めぐりとなりそうです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
小石川七福神めぐりの色紙
小石川七福神めぐり案内図
茗荷谷駅を起点とすることに決めて、深光寺からめぐり始めることにしました。七福神めぐりを通年実施しているところは珍しく、小石川七福神めぐりは元日から七日まで実施されます。深光寺さんで尋ねてみると、色紙と案内図は通年販売していますが、御朱印をもらえるかどうかそれぞれのお寺によって対応が異なるとのことでした。とりあえず色紙500円、御朱印300円、案内図100円を入手しました。色紙に深光寺さんと東京ドーム以外の御朱印がないのは、単に私がお願いしなかったためで、下見を行った11月29日でも御朱印を対応してくれるお寺もありますし、対応していないお寺もあります。ちなみに二月の本番の際は、御朱印収集を不可としスタンプ収集のみを可とします。あくまでもウォーキングクラブの活動なので、御朱印収集は改めて個人で訪れてくださいということです。
小石川七福神めぐりの由来を案内図から引用します。案内図の発行者は「小石川七福神事務局真珠院」です。以降特に断りのない場合はこちらの案内図からの引用となります。(案内板の写しを除く)
除難・招福を願う七福神詣での起源について定説はないが、15世紀頃に京都で行われていた記録もある。後世、天海僧正が徳川家康公に仁王護国経の「七難即滅、七福即生、人民安楽、帝王歓喜」を引用し「将軍には長寿・人望・威光等の七福相がある」と言上し、それに相応して寿老人他を示してから一般化した。小石川七福神は平成7年の発足である。
茗荷谷駅近くの案内板
縛られ地蔵
深光寺の手前にある林泉寺を訪れました。
縛られ地蔵
小日向4-7-2 林泉寺
人々が願いをかけるとき地蔵尊を縄で縛り願いが叶うと縄をほどくので、しばり地蔵ともいわれた。『江戸砂子』には小日向林泉寺の、しばり地蔵は大変有名であると記されている。
「昔、呉服屋の手代が地蔵さまの前で休み居眠りをしているうちに反物を盗まれしまった。奉行は石地蔵が怪しいと言って地蔵を荒縄でしばり奉行所に運んだので物見高い見物人が一緒に奉行所に入ってしまった。許しもなく入った人々に罰として三日以内に反物を持参させた。その中に盗まれた品があり犯人を検挙した。」この「大岡政談」 の話の地蔵尊は現在の葛飾区東水元(南蔵院)にあるが、「縛られ地蔵」とし有名になったのもこの頃からと思われる。
=郷土愛をはぐくむ文化財 =
文京区教育委員会
昭和60年3月
茗荷坂
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
文京区
深光寺
恵比寿 深光寺(じんこうじ)
商売繁盛、富財の福徳を授けて下さる恵比寿神は、唯一日本固有の福神です。鯛と釣竿姿は《釣りして綱せず》の言われで、清廉にして暴利を戒めた教えです。
同寺の恵比寿像は、従来から祀られていだ絵図のお前立として、石田栄一氏が作像したものです。
深 光 寺 小日向4-9-5
寺伝によれば「権現様より御三代まで仕えた御用人森源七郎(深光院殿)が、報恩と御家繁栄を祈願し、寛永年間に創建した」とする。開山は顕蓮社善誉上人。
本堂左奥に、「著作堂隠誉蓑笠居士」碑銘の唐破風型の墓石が在る。「南総里見八犬伝」などで名高い江戸の戯作者滝沢馬琴のものである。墓地に立つキリシタン灯鰭も有名。
滝沢馬琴の墓
滝沢馬琴 墓 (文京区指定史跡 )
馬琴は、江戸の人。明和4年~嘉永元年(1767~1848)。江戸時代後期の『著名な戯作者。”南総里見八犬伝 ””椿説弓張月 ”など、多数の作品を残した。
著作堂(ちょさどう)、蓑笠(さりゅう)、玄同(げんどう)など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。
墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさどういんよさりゅうこじ)」と、馬琴より先に没した妻お百の法名「黙誉静舟到岸大姉(もくよせいしゅうとうがんだいし)」があり、台石には、馬琴の蔵書印といわれる家形の模様が刻まれている。江戸時代後期の著名な戯作者の墓として、歴史的価値が高い。(墓は本堂左わき)
なお、馬琴の墓の後ろ左側には、晩年、失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた、嫁の路女(みちじょ)が眠る墓がある。法名・操誉順節路霜大姉(そうよじゅんせつろそうだいし)。
浄土宗 深光寺(じんこうじ) 文京区小日向4-9-5
文京区教育委員会 平成3年3月
釈迦坂
春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。
アロエの花
徳雲寺
弁財天 徳雲寺(とくうんじ)
諸芸・福財に因む弁財天は、普通女神とされています。古いインドの聖典に記された一女神や宇賀神将と、役割や容相が酷似しているため創られた女形神像です。
当寺のご真体は、鎌倉円覚寺の大鏡(国宝)弁財天のご分身で、男性のお顔の《人頭蛇身》です。
徳雲寺(弁財天-男)小日向4-4-1
一翁存碩觜禅師を開山とし、はじめ解脱寺と称した臨済宗円覚寺派寺院。後、白鴎山江南寺、さらに妙峯山徳雲寺と現在名に改称。開基は旗本深谷又佐衛門外2名。
新編江戸誌に「古大木の椎の木あり。元禄中比の御成の時、椎末寺なりと台命ありしより寺の名とせり」と
男弁天様の扉は閉じられ見ることはできません。正月七日までは御開帳されているようですが、撮影禁止となっているので、写真でご紹介することはできません。スタンプが見つからなかったお寺は空欄になっています。
播磨坂
高橋泥舟 山岡鉄舟 旧居跡
春日通りを歩き、播磨坂に曲がって下ってゆきます。
高橋泥舟(でいしゅう)(1835~1903) 山岡鉄舟(てっしゅう)(1836~1888) 旧居跡
小石川五丁目1
下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟 の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
泥舟は槍術の大家山岡静山 の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡家を継いだ。
二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎 の呼びかけで、近藤勇 らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜 に恭順を説き、身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟 の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛 に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
文京区教育委員会
平成26年3月
極楽水
弁財天 極楽水(ごくらくすい)
弁舌・芸術の諸才を恵んで下さるので、弁才天とされていた女神は梵天の配偶神とも言われます。今日では、多財を与える神でもあるので弁財天の語が使われます。
当舎の弁財天のご実体は、白蛇ですが、女神のお絵図が共に祀られています(スタンプは宗慶寺預)。
極楽水(弁財天-女)小石川4-16-13 小石川パークタワー公開緑地内
江戸名所記に「小石川極楽の井は、そのかみ傳通院の開山了誉聖冏上人、この地に草庵を結びし時に、龍女かたちを現して上人にまみえ、仏法の深さ旨を求めしかば、上人すなわち弥陀の本願、他力の要法を示したまう。龍女、恩に報い清泉を湧き出し奉る(概要)」とある。多々変遷の後、寵女に因む弁才天の詞は、現在小石川パークタワーの庭園内に存する。
極楽水
極楽水
文京区小石川4-16 小石川パークタワー敷地内
ここは、了誉聖冏 上人が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり」とある。
現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。
郷土愛をはぐくむ 文化財
文京区教育委員会
平成5年10月
宗慶寺
寿老人 宗慶寺(そうけいじ)
健康と寿命を司る富貴長寿の神が寿老人です。この神は中国最古の哲学道家の祖、老子の化身ともされ学問の神でもあります。道教では《寿星》といっています。
学問第一と言われた聖冏上人の創建にかかわる当寺の寿老人は、田中舒久氏の彫刻による木像です。
宗 慶 寺 小石川4-15-17
極楽水と呼ばれるようになった吉水の辺に、聖冏上人が結ばれた草庵は、伝法院とも称した。三日月上人と呼ばれて親しまれた上人は、後に寿経寺(傳通院)を開山し、幾多の学僧を育てている。家康の死後、側室の阿茶の局(松平忠輝生母)は俗世を逃れて伝法院に隠棲し、死後当院に葬られた。これ以降、法名朝覚院殿貞誉宗慶大姉に因み寺名を改称した。
阿茶局墓碑解説板
茶阿局墓碑(ちゃあのつぼねぼひ)(小石川4-15-17)
この墓碑は、元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。
茶阿局 は、駿河(現静岡県)の人で、徳川家康の側室として、家康の第六男忠輝(松平)の生母となった。家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫(るたく)中の忠輝を案じながら、元和7年6月12日、没した。
法名「朝覚院殿貞誉宗慶大膳定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く、応永22年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大(おだい)の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。
浄土宗 吉水山朝覚院宗慶寺
郷土愛をはぐくむ文化財
東京都文京区教育委員会
昭和63年3月
エーザイ株式会社本社
真珠院
布袋尊 真珠院(しんじゅいん)
弥勒仏の化身とされ、腹の大きいのは大度量、袋一つを背負うのは分に安じた姿、ニコニコ顔は堪忍の貴さを表し《寛容の徳》を人々に与える福神です。
当院の布袋尊は『墓地中を歩く布袋さまを見た』先代老住職の夢を機に祀るようになったものです。
真 珠 院 小石川3-7-4
徳川家康公の生母於大の方(傳通院殿)の生家、松本藩のちに沼津藩主となった水野家の菩提寺。開山は運蓮社霊誉単無上人、開基は水野忠清公(真珠院殿)。歴代藩主の墓碑が存する墓域奥に、布袋大石像を祀る。
境内に、布袋に因む釈迦・弥勒・地蔵を祀る三尊堂、浄土二十五砂踏霊場や来迎二十五菩薩を配した岩山などが特色の浄土庭園がある。
小石川七福神奉納絵馬
七福神
水野家墓所
天保の改革の水野忠邦との関係は薄いようです。
処静院跡の石柱
浪士隊結成の処静院跡の石柱 伝通院 小石川 3-14-6
この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織-”浪士隊”の結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。
郷土愛をはぐくむ文化財
東京都文京区教育委員会 平成元年三月
伝通院
於大の墓
於大の墓 (区指定史跡)
享禄元年~慶長7年(1528~1602)、徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。
後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。
東京都文京区教育委員会 昭和62年3月
千姫の墓
千姫の墓 (区指定史跡)
慶長2年~寛文6年(1597~1666)。二代将軍秀忠の娘。
慶長8年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大阪城にはいる。
元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。
東京都文京区教育委員会 昭和62年3月
ツタがきれいだった墓
境内墓地参拝図
伝通院山門
ツタが鮮やかだったので写真に撮りましたが、参拝図には載っていなかったのでどなたのお墓なのかわかりません。伝通院でトイレ休憩となりそうです。
福聚院
大黒天 福聚院(ふくじゅいん)
当院の大黒天は、御身に甲骨を着して外からの災難を防ぎ、右手に宝袋、左手に宝棒を持つ、外難を防ぎ福縁を与える古い原型の姿の尊像です。後に招福開運の強調、大国主命信仰と習合し、俵に腰掛けた現在型ができました。当院尊天別称は出世大黒天・叶大黒天。
福 衆 院 小石川3-2-23
傳通院の鎮守寺として江戸時代末期に傳通院三十六世霊応上人により祀られた大黒天をご本尊として、家門繁栄・商売繁盛・心願成就・厄除け・交通安全などの祈願が大黒天のお祭り『甲子の日』に大護摩奉修される。境内には咳止め子育て地蔵があり、咳が治るとお礼に唐辛子を奉納することから「唐辛子地蔵」とも呼ばれている。
案内板に幼稚園のお知らせを貼ってしまう所が庶民的というかなんというか。境内がそのまま幼稚園になっており門が閉まっているので、中には入れませんでした。
福聚院案内板
木造・大黒天坐像一躯(文京区指定文化財)
像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれて、見るべきものがある木造彫刻といえる。
特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ると考えられることなどを含め貴重な文化財である。
大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。
江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。
しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。
傳通院山内 福聚院 大黒天
小石川三丁目2-23
文京区教育委員会
平成18年3月
善光寺坂のムクノキ
善光寺坂 のムクノキ 文京区指定天然記念物
所在地 小石川3丁目18番(ポケットパーク内)
指定 平成25年3月1日
樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木 である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。
ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。
この場所は江戸時代、伝通院 の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)の神木 として現在に至っている。
樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木 である。
平成26年1月
文京区教育委員会
えんま通り商店街
ナンテンの紅葉
こんにゃくえんま
源覚寺
毘沙門天 源覚寺(げんかくじ)
別名を多聞天とも言い、仏教の守護神四天王の一尊でもあり、憤怒の形相に甲骨をつけ、左手には福を与える宝塔を捧げ、右手には外敵を打ち砕く鉾槍を持ち、人々に勇気と威光の徳を与える神です。お堂の木彫像は、以前から拝されていた絵図に代わる尊像です。
源覚寺(こんにゃく閻魔)小石川2-23-14
樋口一葉始め多くの文学に記されている当寺は、傳通院三世定誉随波上人を開山とする。
寺名の通称は「安置の閻魔大王は、その昔小野皇一刀三礼の御作なり。宝暦の頃、眼病の老婆この尊像に治癒の願を掛く。閻魔、おのが片目を与えこの願を容れ眼病を治す。老婆、好物の蒟蒻を断ち閻魔に報う」に拠る。歯痛平癒祈願の「塩地蔵尊」も祀られている。
塩地蔵尊
汎太平洋の鐘
「こんにゃくえんま」は聞いたことがあるような気はしますがその由来は知らず、何より毎日通っていた丸ノ内線後楽園駅近くにあることは目からうろこというべきでしょうか。こちらは御朱印を受け付けていましたが、他も歯抜けだらけなのでもらわずに済ませました。
東京ドーム
福禄寿
福禄寿 東京ドーム
頭が異常なほど長くて大きく、豊かな白髭を蓄えた老翁姿が、長命と円満な人格を授けてくれる招福人徳の神、福禄寿です。この神も星宿にかかわるものです。
旧水戸屋敷に福禄寿が祀られていた縁から、跡地の東京ドームに再祀されるようになったものです。
旧水戸屋敷と東京ドーム 後楽1-3-61
水戸徳川家上屋敷として、二代光園の時完成した現後楽園庭園に、かつては福禄寿が祀られていた。庭園地続きの屋敷地に威容を構える東京ドームは、野球の殿堂、ラクーア、アトラクションズ、ホテルなど総合娯楽センターである。前記の縁で再祀される福禄寿は、22番ゲート前総合案内所横、クリスタルポイント(ガラスの三角塔)を回り込んだ奥、植込みの中にある。「アトラクションズ」ジオポリス屋上。
東京ドームの御朱印は自分で押印するもので無料だったのでいただいてきました。総合案内所の方が丁寧に教えてくださいました。
錦秋稲荷
東京ドームの敷地は広くてストレッチする場所には事欠きませんが、ちょっと恥ずかしい感じがします。ここに来る前にある礫川公園あたりがストレッチにはちょうどいいかもしれません。
今回は引用ばかりで茶色がちになってしまいました。関東大震災以降人口が増加した目黒区とは違って、江戸初期に伝通院が建立され、江戸末期には武士が住んでいた文京区は歴史の厚みが違います。武蔵野台地の東端ということもあり、谷根千とも異なる歴史文化を感じます。そんな違いを発見できる、楽しい七福神めぐりとなりそうです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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