いつもは年末最後に歩いているコースですが、今年は忘年会を新宿で行うため二週早くなりました。
東大教養学部正門
駒場博物館とメタセコイア
時計台がある建物は旧制一高の本館で、駒場博物館は旧制一高の図書館でした。博物館に入ったことはないのですが、美術品と自然科学系の展示物があるそうです。一度行ってみようと思います。
山手通り沿いの三田用水跡
東大教養学部と山手通りの境には暗渠となった三田用水が残っていたのですが、何か工事をするたびに取り壊されてゆきます。山手通り整備の後も残されたこの部分だけは、ずっと残されてゆくことを望みます。三田用水は恵比寿にビール工場がやってくるきっかけとなった、地域の重要な遺産です。
松濤のおうち
奇麗な菊が飾られていました。松涛は維新後禄を失った藩士のために開かれた鍋島家の茶園、「松濤園」から由来しています。ただしこの場所でお茶を栽培していた期間は短く、東海道線が開通して静岡からの茶葉の輸送が可能となり、茶業は衰退してゆきます。関東大震災後地盤の安定した山の手が人気となり、大きな区画で分譲された松涛は高級住宅地となりました。
クロガネモチの実と紅葉
旧観世能楽堂
NHK放送センター
都内の紅葉も終盤を迎えていますが、赤い実は印象的です。観世能楽堂の能舞台は銀座シックスに移設され、こちらは売却された模様。NHK放送センターは東京オリンピック1964を機会に日比谷から移転してきました。それ以前この場所はアメリカ陸軍の将校住宅が建つワシントンハイツでした。
渋谷公会堂改築現場
ドーモ君
国立代々木体育館
最近このあたりを歩いていなかったので知らなかったのですが、代々木体育館の敷地内を通り抜けることが出来なくなっていました。日本スポーツ振興センターのお知らせを引用します。
さて、当センターが管理・運営しております国立代々木競技場は、昭和39年第18回オリンピック東京大会の開催に伴い建設され、築50年以上経過いたしました。この間、昭和57年及び平成13年の改修工事を経て今日まで参りましたが、先に実施しました耐震調査・診断の結果を踏まえ、建物として必要な耐震性能の確保を図り、安全で快適な施設環境を提供するため、大規模な改修工事を実施することとなりました。また、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会において、オリンピックではハンドボール、パラリンピックではウィルチェアーラグビー及びバドミントンに利用されることが決定しています。
つきましては国立代々木競技場の営業を、7月2日(日)をもちまして、フットサルコートを除き休止させていただきます。なお、営業再開時期につきましては現時点では未定のため、改めてお知らせいたします。
利用者の皆様には大変ご迷惑をおかけ致しますが、何卒ご理解くださいますようお願い申し上げます。
岸体育館
この建物も移転が決まり、国立競技場と日本青年館の近くに現在新しいビルを建設中です。体育館か?と思っていたら「岸記念体育会館」の略なのです。Wikipediaから引用します。
第2代大日本体育協会会長・岸清一の遺言により100万円(現在の28億円ほどに当たる)が寄付されて1940年に東京府神田駿河台に建設(元総理大臣の岸信介とは無関係)。
1964年の東京オリンピック開催時に現在地に移転。建物前に岸清一の銅像が設置されている。地下1階に体育協会資料室が併設され、スポーツ関連の書物が閲覧可能になっている。
2011年7月の日本体協の創立100周年記念を迎えるにあたり、建て替えが検討されている。併せてスポーツ界に大きな功績を残した選手などを称える「日本スポーツ殿堂」を館内に設けるプランも検討されている。2010年5月には具体的な案を検討する委員会が発足したが、現在同地は東京都の都市計画公園の指定を受けている関係で建築物の規制が厳しく、検討作業は難航している。その間にも日本陸上競技連盟や日本バスケットボール協会などが、耐震設計上の観点から職員の安全確保を理由に移転しており「日本スポーツ界の総本山の屋台骨が揺らぐ事態」と懸念する声がある。
2013年9月には、2020年東京オリンピック開催が決定したことを受けて、現在地での建て替えを諦めた上で、新国立競技場建設に伴い建て替えが予定されている日本青年館、もしくはナショナルトレーニングセンターへの移転が検討されていると報じられた。2016年2月には、新宿区霞ケ丘町地区に新ビル(地上14階/地下1階)を建てて移転する計画が発表された。2018年11月8日、日本スポーツ協会の理事会で、岸記念体育会館の新会館について、名称を「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」に決定した。岸記念体育会館は取り壊され、2019年春に新国立競技場の隣接地にて「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」が完成予定である。新施設の館内には「岸清一メモリアルルーム」が設けられる予定である。
明治神宮第一鳥居
明治神宮南参道
明治神宮大鳥居
明治神宮拝殿
このコースを歩き始めたころの明治神宮は閑散としていましたが、今は常に混んでいます。政治的に対立しているお隣の国や、北方四島を返還してくれない国の方もたくさん訪れて、楽しそうにしています。出来るところから仲良くしてゆきましょうという知恵ですかね。
明治神宮西参道
西参道の入り口に立つ常夜灯
表参道の常夜灯ほど大きくありませんが、甲州街道近く玉川上水に面して建てられています。「旧代々幡町灯篭」というそうです。地図で確認すると近くに「西参道駅跡」も見られます。京王線が路面電車だった時のなごりですね。路面電車のなごりと言えば軌道幅にも残っています。日本の多くの鉄道が狭軌1067mmを採用し、新幹線などは標準軌1435mmです。京王線は路面電車のなごりを残した軌道幅1372mmを採用しています。ちなみに京王井の頭線のみ狭軌なので井の頭線の車両と京王線の車両は互換性がありません。
京王線の新宿駅付近の廃駅についてWikipediaから引用します。
京王線の幡ヶ谷駅以東は太平洋戦争中まで、甲州街道上を走る併用軌道であった。新宿方の起点は新宿追分交差点に設けられていた。
1927年(昭和2年)、新宿起点は新宿追分交差点上から、近隣に四谷新宿駅を建設して移転。1936年(昭和11年)、幡ヶ谷より新町までの間も玉川上水を暗渠とした上に専用軌道を敷設して移転したが、新町から四谷新宿までの間は依然として併用軌道のままであった。
しかし1945年(昭和20年)5月25日、新宿 - 初台間にある天神橋変電所が空襲の被害に遭ったため電圧が低下してしまい、新宿駅南口の跨線橋の坂を電車が上れなくなってしまった。このため同年7月24日、新宿西口の東横線予定地であった現在地にターミナルを移転した。
またそれまでは、新宿駅周辺から幡ヶ谷駅の間には駅が数多く存在していたが、これも駅間が密接する区間については不要不急施設であるとして、同時に駅の統廃合を行った。
「新宿西口の東横線予定地」が気になりますね。Wikipediaから引用します。
東横線の計画
東横線の計画は、1906年(明治39年)に武蔵電気鉄道が私設鉄道法に基づく申請をおこなったのが起源である。広尾天現寺を起点とし、恵比寿駅を経て西へ向かい、平沼駅(現在の横浜駅近くにあった東海道本線の駅)へ至る計画であった。同社は1908年(明治41年)に創立総会を開催し、1911年(明治44年)には下沼部から蒲田駅に至る支線とともに免許を受けた。
さらに1912年(明治45年)には祐天寺から、代々木練兵場(現在のNHK放送センター付近)を西に迂回し、小田急電鉄小田原線と代々木八幡駅付近で合流して並走し、新宿に至る路線の免許も得た。これが、本計画の元になった路線にあたる。
しかし、沿線は既に都市化が進み、さらに第一次世界大戦勃発に伴う地価高騰の影響などから用地買収に手間取り、着工ができなくなる状況に陥った。1917年(大正6年)に前述した私設鉄道法に基づく免許を失効させた上、新たに軽便鉄道法に基づいてほぼ同じ区間の認可を取得したが、資金が集まらないのは相変わらずであった。
東横線の建設
東横線の建設は、鉄道院官吏から武蔵電気鉄道の常務に就任した五島慶太の手に委ねられることとなる。武蔵電気鉄道建設予定地に田園都市会社という宅地会社が大規模な開発を手掛けていた、またその田園都市会社の傘下である荏原電気鉄道が取得していた現在の大井町線に当たる区間の免許を始まりに、鉄道の建設を計画していた。五島は小林一三の推薦を受け田園都市会社の鉄道事業に参画。田園都市会社の鉄道事業計画は目黒蒲田電鉄へ分離されて、目黒 - 蒲田間の鉄道建設が行われた。五島は、つづいて武蔵電気鉄道を目黒蒲田電鉄の傘下におさめ、東京横浜電鉄へと改称した。東京横浜電鉄により、住宅開発を兼ねる形で東京 - 横浜間の鉄道が建設されることになり、同時に起点は渋谷駅とされた。山手線との接続ができ、将来の発展が見込めるというのが理由であった。かくして渋谷駅を起点として東横線が建設された。
新宿延伸計画と頓挫
東横線の開業後、五島は都心への進出を模索し、有楽町への延伸計画も再び立ち上げたが、関東大震災後の都市計画見直しと資金の都合で流れた。一方、祐天寺 - 渋谷 - 新宿間の免許のうち、未着工であった渋谷 - 新宿間については、構想を五島に一任した上で、施行期限の延長申請を出すなどして保持し続けた。当時の計画では、現在のJR渋谷駅の西側から北に向かい、代々木練兵場を西に迂回し、代々木八幡駅付近で小田急線と合流し、新宿駅まで並走するルートだった。
1910年代から1920年代にかけては、新宿に複数の鉄道ターミナル駅が集まり、副都心としての将来性が有望視されるようになった時代であり、新宿延伸線については東京市(当時)の都市計画構想にも組み込まれ、東横線乗り入れスペースは小田急電鉄の駅敷地の西側に確保されていた。しかし山手線との並行路線を、わざわざ明治神宮の西側を迂回してまで建設するだけの資金や意義もない上、五島の関心が東京における地下鉄建設を目指した東京高速鉄道(東京メトロの前身の一つ)に移っていたこともあって、1936年(昭和11年)にこの免許も失効した。
なお、新宿駅に確保されていた東横線新宿駅の用地は、1945年(昭和20年)に京王線が空襲による変電所被災によって甲州街道のガード橋を渡れなくなった際、代替として新宿駅西口に乗り入れるための駅用地に転用された(京王線の新宿駅付近の廃駅も参照)。
太平洋戦争終戦直後の1947年(昭和22年)には、東京急行電鉄(戦時中に東京横浜電鉄から改称)が、太平洋戦争終戦直後の復興事業について東京都と帝都高速度交通営団が揉めている状況にあったことから、自前で東京駅や品川駅・新宿駅へ各線を延伸させる免許を申請した。しかし、当時の運輸省は資材や資金の不足する時代に建設できるのかと疑問を投げかけ、結局は都市交通審議会によって営団地下鉄(当時)日比谷線の計画が発表されたことなどから、1957年(昭和32年)に免許申請は取り下げられた。
銀世界稲荷神社
甲州街道を渡りこれまでは新宿パークタワーの東側を歩いていたのですが、少し趣を変えて西側を歩き、このお稲荷さんを発見しました。この場所には江戸時代大名屋敷があり梅の花見の名所で「銀世界」と呼ばれていました。それがお稲荷さんの名前になったのですね。白梅が多かったのかな?その後ガスタンクが作られ、その跡地に作られたのが新宿パークタワーです。ガスタンクが取り壊されたのが昭和42年ということで、この場所にガスタンクがあった頃、私は見ていないのだと思います。
都庁舎
ちびゴジラ
ちびゴジラは絵本のキャラクターのようですね。ゴジラに破壊されないための魔除けかと思いました。
都庁北展望台からの風景
都庁の45階には北と南に二つの展望デッキがあります。現在南展望台は改修工事が行われているため北展望台のみの運用となり、エレベーターに乗るまで15分、降りるのに10分の待ち時間がありました。上から見ると都心の真ん中にテニスコートが。東京ヒルトンの施設のようです。
この日は忘年会だったので、都庁から歩いて新宿三丁目のライオン会館へ向かいました。歩いた後の飲み会はしょっちゅうですが、30人を超える忘年会はちょっと雰囲気が違い、楽しい時間を過ごしました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
東大教養学部正門
駒場博物館とメタセコイア
時計台がある建物は旧制一高の本館で、駒場博物館は旧制一高の図書館でした。博物館に入ったことはないのですが、美術品と自然科学系の展示物があるそうです。一度行ってみようと思います。
山手通り沿いの三田用水跡
東大教養学部と山手通りの境には暗渠となった三田用水が残っていたのですが、何か工事をするたびに取り壊されてゆきます。山手通り整備の後も残されたこの部分だけは、ずっと残されてゆくことを望みます。三田用水は恵比寿にビール工場がやってくるきっかけとなった、地域の重要な遺産です。
松濤のおうち
奇麗な菊が飾られていました。松涛は維新後禄を失った藩士のために開かれた鍋島家の茶園、「松濤園」から由来しています。ただしこの場所でお茶を栽培していた期間は短く、東海道線が開通して静岡からの茶葉の輸送が可能となり、茶業は衰退してゆきます。関東大震災後地盤の安定した山の手が人気となり、大きな区画で分譲された松涛は高級住宅地となりました。
クロガネモチの実と紅葉
旧観世能楽堂
NHK放送センター
都内の紅葉も終盤を迎えていますが、赤い実は印象的です。観世能楽堂の能舞台は銀座シックスに移設され、こちらは売却された模様。NHK放送センターは東京オリンピック1964を機会に日比谷から移転してきました。それ以前この場所はアメリカ陸軍の将校住宅が建つワシントンハイツでした。
渋谷公会堂改築現場
ドーモ君
国立代々木体育館
最近このあたりを歩いていなかったので知らなかったのですが、代々木体育館の敷地内を通り抜けることが出来なくなっていました。日本スポーツ振興センターのお知らせを引用します。
さて、当センターが管理・運営しております国立代々木競技場は、昭和39年第18回オリンピック東京大会の開催に伴い建設され、築50年以上経過いたしました。この間、昭和57年及び平成13年の改修工事を経て今日まで参りましたが、先に実施しました耐震調査・診断の結果を踏まえ、建物として必要な耐震性能の確保を図り、安全で快適な施設環境を提供するため、大規模な改修工事を実施することとなりました。また、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会において、オリンピックではハンドボール、パラリンピックではウィルチェアーラグビー及びバドミントンに利用されることが決定しています。
つきましては国立代々木競技場の営業を、7月2日(日)をもちまして、フットサルコートを除き休止させていただきます。なお、営業再開時期につきましては現時点では未定のため、改めてお知らせいたします。
利用者の皆様には大変ご迷惑をおかけ致しますが、何卒ご理解くださいますようお願い申し上げます。
岸体育館
この建物も移転が決まり、国立競技場と日本青年館の近くに現在新しいビルを建設中です。体育館か?と思っていたら「岸記念体育会館」の略なのです。Wikipediaから引用します。
第2代大日本体育協会会長・岸清一の遺言により100万円(現在の28億円ほどに当たる)が寄付されて1940年に東京府神田駿河台に建設(元総理大臣の岸信介とは無関係)。
1964年の東京オリンピック開催時に現在地に移転。建物前に岸清一の銅像が設置されている。地下1階に体育協会資料室が併設され、スポーツ関連の書物が閲覧可能になっている。
2011年7月の日本体協の創立100周年記念を迎えるにあたり、建て替えが検討されている。併せてスポーツ界に大きな功績を残した選手などを称える「日本スポーツ殿堂」を館内に設けるプランも検討されている。2010年5月には具体的な案を検討する委員会が発足したが、現在同地は東京都の都市計画公園の指定を受けている関係で建築物の規制が厳しく、検討作業は難航している。その間にも日本陸上競技連盟や日本バスケットボール協会などが、耐震設計上の観点から職員の安全確保を理由に移転しており「日本スポーツ界の総本山の屋台骨が揺らぐ事態」と懸念する声がある。
2013年9月には、2020年東京オリンピック開催が決定したことを受けて、現在地での建て替えを諦めた上で、新国立競技場建設に伴い建て替えが予定されている日本青年館、もしくはナショナルトレーニングセンターへの移転が検討されていると報じられた。2016年2月には、新宿区霞ケ丘町地区に新ビル(地上14階/地下1階)を建てて移転する計画が発表された。2018年11月8日、日本スポーツ協会の理事会で、岸記念体育会館の新会館について、名称を「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」に決定した。岸記念体育会館は取り壊され、2019年春に新国立競技場の隣接地にて「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」が完成予定である。新施設の館内には「岸清一メモリアルルーム」が設けられる予定である。
明治神宮第一鳥居
明治神宮南参道
明治神宮大鳥居
明治神宮拝殿
このコースを歩き始めたころの明治神宮は閑散としていましたが、今は常に混んでいます。政治的に対立しているお隣の国や、北方四島を返還してくれない国の方もたくさん訪れて、楽しそうにしています。出来るところから仲良くしてゆきましょうという知恵ですかね。
明治神宮西参道
西参道の入り口に立つ常夜灯
表参道の常夜灯ほど大きくありませんが、甲州街道近く玉川上水に面して建てられています。「旧代々幡町灯篭」というそうです。地図で確認すると近くに「西参道駅跡」も見られます。京王線が路面電車だった時のなごりですね。路面電車のなごりと言えば軌道幅にも残っています。日本の多くの鉄道が狭軌1067mmを採用し、新幹線などは標準軌1435mmです。京王線は路面電車のなごりを残した軌道幅1372mmを採用しています。ちなみに京王井の頭線のみ狭軌なので井の頭線の車両と京王線の車両は互換性がありません。
京王線の新宿駅付近の廃駅についてWikipediaから引用します。
京王線の幡ヶ谷駅以東は太平洋戦争中まで、甲州街道上を走る併用軌道であった。新宿方の起点は新宿追分交差点に設けられていた。
1927年(昭和2年)、新宿起点は新宿追分交差点上から、近隣に四谷新宿駅を建設して移転。1936年(昭和11年)、幡ヶ谷より新町までの間も玉川上水を暗渠とした上に専用軌道を敷設して移転したが、新町から四谷新宿までの間は依然として併用軌道のままであった。
しかし1945年(昭和20年)5月25日、新宿 - 初台間にある天神橋変電所が空襲の被害に遭ったため電圧が低下してしまい、新宿駅南口の跨線橋の坂を電車が上れなくなってしまった。このため同年7月24日、新宿西口の東横線予定地であった現在地にターミナルを移転した。
またそれまでは、新宿駅周辺から幡ヶ谷駅の間には駅が数多く存在していたが、これも駅間が密接する区間については不要不急施設であるとして、同時に駅の統廃合を行った。
「新宿西口の東横線予定地」が気になりますね。Wikipediaから引用します。
東横線の計画
東横線の計画は、1906年(明治39年)に武蔵電気鉄道が私設鉄道法に基づく申請をおこなったのが起源である。広尾天現寺を起点とし、恵比寿駅を経て西へ向かい、平沼駅(現在の横浜駅近くにあった東海道本線の駅)へ至る計画であった。同社は1908年(明治41年)に創立総会を開催し、1911年(明治44年)には下沼部から蒲田駅に至る支線とともに免許を受けた。
さらに1912年(明治45年)には祐天寺から、代々木練兵場(現在のNHK放送センター付近)を西に迂回し、小田急電鉄小田原線と代々木八幡駅付近で合流して並走し、新宿に至る路線の免許も得た。これが、本計画の元になった路線にあたる。
しかし、沿線は既に都市化が進み、さらに第一次世界大戦勃発に伴う地価高騰の影響などから用地買収に手間取り、着工ができなくなる状況に陥った。1917年(大正6年)に前述した私設鉄道法に基づく免許を失効させた上、新たに軽便鉄道法に基づいてほぼ同じ区間の認可を取得したが、資金が集まらないのは相変わらずであった。
東横線の建設
東横線の建設は、鉄道院官吏から武蔵電気鉄道の常務に就任した五島慶太の手に委ねられることとなる。武蔵電気鉄道建設予定地に田園都市会社という宅地会社が大規模な開発を手掛けていた、またその田園都市会社の傘下である荏原電気鉄道が取得していた現在の大井町線に当たる区間の免許を始まりに、鉄道の建設を計画していた。五島は小林一三の推薦を受け田園都市会社の鉄道事業に参画。田園都市会社の鉄道事業計画は目黒蒲田電鉄へ分離されて、目黒 - 蒲田間の鉄道建設が行われた。五島は、つづいて武蔵電気鉄道を目黒蒲田電鉄の傘下におさめ、東京横浜電鉄へと改称した。東京横浜電鉄により、住宅開発を兼ねる形で東京 - 横浜間の鉄道が建設されることになり、同時に起点は渋谷駅とされた。山手線との接続ができ、将来の発展が見込めるというのが理由であった。かくして渋谷駅を起点として東横線が建設された。
新宿延伸計画と頓挫
東横線の開業後、五島は都心への進出を模索し、有楽町への延伸計画も再び立ち上げたが、関東大震災後の都市計画見直しと資金の都合で流れた。一方、祐天寺 - 渋谷 - 新宿間の免許のうち、未着工であった渋谷 - 新宿間については、構想を五島に一任した上で、施行期限の延長申請を出すなどして保持し続けた。当時の計画では、現在のJR渋谷駅の西側から北に向かい、代々木練兵場を西に迂回し、代々木八幡駅付近で小田急線と合流し、新宿駅まで並走するルートだった。
1910年代から1920年代にかけては、新宿に複数の鉄道ターミナル駅が集まり、副都心としての将来性が有望視されるようになった時代であり、新宿延伸線については東京市(当時)の都市計画構想にも組み込まれ、東横線乗り入れスペースは小田急電鉄の駅敷地の西側に確保されていた。しかし山手線との並行路線を、わざわざ明治神宮の西側を迂回してまで建設するだけの資金や意義もない上、五島の関心が東京における地下鉄建設を目指した東京高速鉄道(東京メトロの前身の一つ)に移っていたこともあって、1936年(昭和11年)にこの免許も失効した。
なお、新宿駅に確保されていた東横線新宿駅の用地は、1945年(昭和20年)に京王線が空襲による変電所被災によって甲州街道のガード橋を渡れなくなった際、代替として新宿駅西口に乗り入れるための駅用地に転用された(京王線の新宿駅付近の廃駅も参照)。
太平洋戦争終戦直後の1947年(昭和22年)には、東京急行電鉄(戦時中に東京横浜電鉄から改称)が、太平洋戦争終戦直後の復興事業について東京都と帝都高速度交通営団が揉めている状況にあったことから、自前で東京駅や品川駅・新宿駅へ各線を延伸させる免許を申請した。しかし、当時の運輸省は資材や資金の不足する時代に建設できるのかと疑問を投げかけ、結局は都市交通審議会によって営団地下鉄(当時)日比谷線の計画が発表されたことなどから、1957年(昭和32年)に免許申請は取り下げられた。
銀世界稲荷神社
甲州街道を渡りこれまでは新宿パークタワーの東側を歩いていたのですが、少し趣を変えて西側を歩き、このお稲荷さんを発見しました。この場所には江戸時代大名屋敷があり梅の花見の名所で「銀世界」と呼ばれていました。それがお稲荷さんの名前になったのですね。白梅が多かったのかな?その後ガスタンクが作られ、その跡地に作られたのが新宿パークタワーです。ガスタンクが取り壊されたのが昭和42年ということで、この場所にガスタンクがあった頃、私は見ていないのだと思います。
都庁舎
ちびゴジラ
ちびゴジラは絵本のキャラクターのようですね。ゴジラに破壊されないための魔除けかと思いました。
都庁北展望台からの風景
都庁の45階には北と南に二つの展望デッキがあります。現在南展望台は改修工事が行われているため北展望台のみの運用となり、エレベーターに乗るまで15分、降りるのに10分の待ち時間がありました。上から見ると都心の真ん中にテニスコートが。東京ヒルトンの施設のようです。
この日は忘年会だったので、都庁から歩いて新宿三丁目のライオン会館へ向かいました。歩いた後の飲み会はしょっちゅうですが、30人を超える忘年会はちょっと雰囲気が違い、楽しい時間を過ごしました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール