野川は私の住んでいるところから少し離れているので、それほどなじみのある川ではありません。野川下りのウォーキングを企画しようと思ったときには、これほど変化にとんだ面白いコースになるとは想像できませんでした。初めは二子玉川から野川の上流へ向かってゆくコースを想定しており、今回下見をしたあたりで川が直線に流れている部分がとても退屈に思えていました。
京王線柴崎駅付近の公園
前回“深大寺編”で、ここまで歩いてきて、この公園をお借りしてストレッチをしました。次回もまたこの公園をお借りしてストレッチすることになるでしょう。
ピラカンサ?
夏ミカン
赤い実をつける様々な木や、ミカンが秋の深まりというか冬のはじまりを彩ってくれます。もうしばらくすると梅の花が咲くまで、色のない景色になります。この先品川通りを横断します。品川沖の海水を大國魂神社へ運ぶ古代の街道です。
野川
枯葉
このあたりの野川も川岸に降りることができます。面白い枯葉だと思って撮ったのですが、名前がわかりません。
小金橋
合流
分岐
この先の野川は不自然にまっすぐで、「河川改修しました」という感じがありありです。小さな河川の合流に様に見えるのですが、地図を見ても川なのか下水なのかわかりません。この橋から南方向に始まる緑道があり、改修前の野川の跡かなぁといった感じがあるので、直線の流路ではなくこちらを歩いてみることにします。
西野川樹林地
大橋改修記念碑
この樹林地は、東京都区市町村保存樹林地等公有化資金により保存されたものであり、狛江市内に残された貴重な樹林地を将来にわたり保全するものです。
狛江市
いつの間にか調布市から狛江市に変わりました。この看板から、この川は野川ではなく西野川なのかと思ったら、西野川は地名で松原通を挟んで東野川もありました。東野川も現在の野川の西側にあるので、この緑道が野川の跡と考えて間違いなさそうです。小金橋の合流はこの緑道の流れとつながりそうなので、古い野川の跡なのかもしれません。たいした川幅ではないのですが、大橋通りもあるくらいですから、かつては大きな橋だったのかもしれませんね。
ボケ
岩戸川緑地公園
御台橋
岩戸川についてWikipediaから引用します。
東京都狛江市・世田谷区を流れる多摩川水系野川支流の河川。清水川とも呼ばれ、現在は大部分が暗渠。
このあたりには支流なのか水路なのかよくわからない流れの跡が縦横に張り巡らされていてよくわかりません。このあたりの様子について狛江市のページから引用します。
御台橋かいわい
まだ護岸工事をしていない戦前の野川は雑木林の間を流れていた。しかし、水がきれいで深みのある御台橋の辺りは子どもたちの絶好の遊び場となり、夏になると大勢の子どもたちが集まってきては橋の上から跳び込んだり、泳いだりして喚声を上げていた。
魚も豊富だった。夕方になると釣り人が来て釣り糸を垂らしたり、ドウを沈めて入ってくる魚を待った。そこには黄色いシジミさえいた。
しかし豊かな水も溢れることが多く、三島の田んほは湿田だったし、神代団地の辺りでは田植えをする時、丸太を2本並べて浮かべ、その上に乗って苗を刺しながら後ずさりしていくほどだった。また、北久保の畑が水につかると、せっかく実ったジャガイモやサツマイモが腐るので、すばやくたらいを浮かべ、その中に収穫物を入れて引いたという。
御台橋のすぐ下には堰(せき)があった。ここから分かれた水は千手院の裏を流れて三島田んぼの潅概用水になっていた。また御台橋の上流は大橋まで、下流は丸山橋まで橋らしい橋はなかった。
御台橋の辺りの道は夜になると真暗らでこわいところだった。店屋はカサヤとアメヤしかなく、あとは点在する農家だけだった。そのうえ今の御台橋商店街を通り橋を渡るとすぐ左に曲がる狭い道が古い道で、自動車などめったに通ることなく、御台橋は手すりの低い小さな橋であった。
昭和30年代に入ると野川流域はたびたび水害に見舞われるようになり、川底のしゅんせつや護岸工事が行われるようになった。
一方、道路のほうも、新しい都道が北の方からだんだん伸びてきて、昭和36年に新しい橋が完成。昭和38年に和泉まで開通したとき吉祥寺からのバスがやってきた。まもなく銭湯ができ、ストアーができ、やがて今の商店街が形成されてにぎわいを一層増していった。そして都道が松原までできた41年、バスは仙川・調布間に変更になった。
野川緑地公園
このあたりから名前が変わっており岩戸川=野川と考えてよさそうです。この先緑道は市役所東通りに沿って不自然にまっすぐになります。このあたりの事情も狛江市のページから引用します。
野川の改修
旧野川は、狛江に入るとまず、箕和田(上小足立)と上覚東の間を流れ、御台橋からはだいたい右岸が和泉で、左岸は下小足立・三島(下覚東)・岩戸の境をたどリ、ミツヤで六郷用水に合流した。ジザイ堀・三島用水・水車堀など左右いく筋もの用水堀を備え、よく陽の当たる田畑の中、水田と差のないほどの高さを、ゆうゆうと蛇行していた。昭和初年、いま市役所の東、北谷だけは耕地整理をして、流路が直線となった。
野川流域の田んぼは深いところが多い。水を引き入れる苦労はないが、神代団地の辺りは、戦後暗渠排水工事をしたほどである。洪水の被害も受けやすく、くぼんで低くなっていた登記所の通りや御台橋付近は、しばしば水浸しになった。北谷の耕地も時に一面海のようになった。
もっとも、6月から9月まで町役場の建設課長が「雨が降ったらおちおち寝ていられない」ほど、野川が氾濫するようになったのは、戦後沿岸に住宅が増えてきてからであった。深い田や水をかぶりやすい畑は、地主が手放すのも早かった。かつて、降った雨は広い田畑にじくじくしみ込んでいたのに、今度は屋根をつたって道路の側溝に流れ、一気に川に集まってあふれ、ほとんど毎回浸水するようになってしまった。六郷用水との合流点近辺では、何度か決壊もした。水が小田急の線路を越えたこともある。すると、岩戸と和泉・猪方・駒井との境に沿って押し流し、あたかも六郷用水の開さくにより350年も前に失われた野川の原始の流路を、まのあたりにするかのようであった。中でも昭和41年6月の台風四号の被害は、1690世帯、田畑41ヘクタールに及び、狛江町始まって以来の大災害といわれる。町の行政は、応急手当てに奔走する一方、昭和35、6年から沿岸各市町村と共に野川改修期成同盟をつくって都に働きかけた。下流から始まった工事が完成し、野川の流れが町の北端の新野川に移ったのは昭和44年。今、旧野川の地下は下水道、地上は野川緑地公園として再生(昭和52年)している。
世田谷通り
狛江市役所の先でいちょう通りに出て、小田急線の高架下を通ります。かつて調布のテニスコートに通っていたときによくここを通り、踏切だったころを覚えています。この先世田谷通りに出てしばらく通りを歩きます。南側の歩道にはやけに広い植え込みがあり、これが野川の跡かなぁといった感じ。ビルの上のゴリラも見覚えがありますが、なぜここにこれをおいているのか詳しい説明は発見できませんでした。二の橋交差点から世田谷通りと別れて東へ向かう道は筏道と呼ばれ、かつて「品川みち」を歩いた際にとおりました。木材を筏に組んで多摩川を流して運んだ職人が、上流へ戻る際に利用していた道です。
今回のコースはもう少し世田谷通り沿いに東へ向かい、こちらの分かれ道を右へ向かいます。
滝下橋緑道
次太夫堀の歴史と周辺の史跡
次太夫堀(六郷用水)の由来
慶長2年(1597)から15年もの歳月をかけて、慶長16年(1611)に完成した次太夫掘りは、多摩川の水を和泉村(現狛江市)で取り、野川、仙川などの小河川と合流し、多摩川沿いの武蔵国荏原郡世田谷領十四箇村(和泉、猪方、岩戸、喜多見、大蔵、鎌田、岡本、瀬田、上野毛、下野毛、等々力、小山、上沼部、下沼部)を通り、下流の六郷領(現大田区)に注いでいました。
次太夫掘りは、江戸時代の始め江戸近郊の開発を進めた徳川家康の命により、幕府の用水奉行小泉次太夫吉次の指揮・監督によって開削された、世田谷地方における最初の農業用灌漑用水路です。主に六郷領35箇村の水田開発を目的とした水利事業「六郷用水」と命名されましたが、婦女子の労働力に頼ったといわれる工事のため、俗に「女堀」とも呼ばれていました。一方、世田谷地方の人々は、小泉次太夫の功績をたたえ、六郷用水とは呼ばずに独自に「次太夫掘」と呼んでいました。
全長23km、川崎側の二所ヶ領用水との同時並行工事のため、長期にわたる難工事となり、沿岸農民の扶役も相当過重だったようです。しかし、世田谷領、六郷領併せて49箇村は、新田の造成等により大幅に村高が増加し、大きな恩恵を受けました。
このような由緒ある歴史を持ち、玉川八景などにも謳われた美しい環境の中に流れていた次太夫掘も、戦後の急激な都市化によってその役割を終え、一部が「丸子川」と改称されて、わずかに往時の面影を残すのみです。
平成5年3月設置 世田谷区教育委員会
ネットでいろいろと調べることができますが、現場に教育委員会が設置したこのような案内板が生きた教材だと思います。
野川
野川の川原
喜多見ふれあい広場
滝下橋緑道の先で野川とぶつかっています。下流に次太夫堀公園があるのですが、今回はここから上流へ向かい、喜多見駅で解散とします。川原の通路は少なくなり、世田谷通りをくぐる分だけありました。このコースは一月の実施予定です。暖かくなるといいのですが。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
京王線柴崎駅付近の公園
前回“深大寺編”で、ここまで歩いてきて、この公園をお借りしてストレッチをしました。次回もまたこの公園をお借りしてストレッチすることになるでしょう。
ピラカンサ?
夏ミカン
赤い実をつける様々な木や、ミカンが秋の深まりというか冬のはじまりを彩ってくれます。もうしばらくすると梅の花が咲くまで、色のない景色になります。この先品川通りを横断します。品川沖の海水を大國魂神社へ運ぶ古代の街道です。
野川
枯葉
このあたりの野川も川岸に降りることができます。面白い枯葉だと思って撮ったのですが、名前がわかりません。
小金橋
合流
分岐
この先の野川は不自然にまっすぐで、「河川改修しました」という感じがありありです。小さな河川の合流に様に見えるのですが、地図を見ても川なのか下水なのかわかりません。この橋から南方向に始まる緑道があり、改修前の野川の跡かなぁといった感じがあるので、直線の流路ではなくこちらを歩いてみることにします。
西野川樹林地
大橋改修記念碑
この樹林地は、東京都区市町村保存樹林地等公有化資金により保存されたものであり、狛江市内に残された貴重な樹林地を将来にわたり保全するものです。
狛江市
いつの間にか調布市から狛江市に変わりました。この看板から、この川は野川ではなく西野川なのかと思ったら、西野川は地名で松原通を挟んで東野川もありました。東野川も現在の野川の西側にあるので、この緑道が野川の跡と考えて間違いなさそうです。小金橋の合流はこの緑道の流れとつながりそうなので、古い野川の跡なのかもしれません。たいした川幅ではないのですが、大橋通りもあるくらいですから、かつては大きな橋だったのかもしれませんね。
ボケ
岩戸川緑地公園
御台橋
岩戸川についてWikipediaから引用します。
東京都狛江市・世田谷区を流れる多摩川水系野川支流の河川。清水川とも呼ばれ、現在は大部分が暗渠。
このあたりには支流なのか水路なのかよくわからない流れの跡が縦横に張り巡らされていてよくわかりません。このあたりの様子について狛江市のページから引用します。
御台橋かいわい
まだ護岸工事をしていない戦前の野川は雑木林の間を流れていた。しかし、水がきれいで深みのある御台橋の辺りは子どもたちの絶好の遊び場となり、夏になると大勢の子どもたちが集まってきては橋の上から跳び込んだり、泳いだりして喚声を上げていた。
魚も豊富だった。夕方になると釣り人が来て釣り糸を垂らしたり、ドウを沈めて入ってくる魚を待った。そこには黄色いシジミさえいた。
しかし豊かな水も溢れることが多く、三島の田んほは湿田だったし、神代団地の辺りでは田植えをする時、丸太を2本並べて浮かべ、その上に乗って苗を刺しながら後ずさりしていくほどだった。また、北久保の畑が水につかると、せっかく実ったジャガイモやサツマイモが腐るので、すばやくたらいを浮かべ、その中に収穫物を入れて引いたという。
御台橋のすぐ下には堰(せき)があった。ここから分かれた水は千手院の裏を流れて三島田んぼの潅概用水になっていた。また御台橋の上流は大橋まで、下流は丸山橋まで橋らしい橋はなかった。
御台橋の辺りの道は夜になると真暗らでこわいところだった。店屋はカサヤとアメヤしかなく、あとは点在する農家だけだった。そのうえ今の御台橋商店街を通り橋を渡るとすぐ左に曲がる狭い道が古い道で、自動車などめったに通ることなく、御台橋は手すりの低い小さな橋であった。
昭和30年代に入ると野川流域はたびたび水害に見舞われるようになり、川底のしゅんせつや護岸工事が行われるようになった。
一方、道路のほうも、新しい都道が北の方からだんだん伸びてきて、昭和36年に新しい橋が完成。昭和38年に和泉まで開通したとき吉祥寺からのバスがやってきた。まもなく銭湯ができ、ストアーができ、やがて今の商店街が形成されてにぎわいを一層増していった。そして都道が松原までできた41年、バスは仙川・調布間に変更になった。
野川緑地公園
このあたりから名前が変わっており岩戸川=野川と考えてよさそうです。この先緑道は市役所東通りに沿って不自然にまっすぐになります。このあたりの事情も狛江市のページから引用します。
野川の改修
旧野川は、狛江に入るとまず、箕和田(上小足立)と上覚東の間を流れ、御台橋からはだいたい右岸が和泉で、左岸は下小足立・三島(下覚東)・岩戸の境をたどリ、ミツヤで六郷用水に合流した。ジザイ堀・三島用水・水車堀など左右いく筋もの用水堀を備え、よく陽の当たる田畑の中、水田と差のないほどの高さを、ゆうゆうと蛇行していた。昭和初年、いま市役所の東、北谷だけは耕地整理をして、流路が直線となった。
野川流域の田んぼは深いところが多い。水を引き入れる苦労はないが、神代団地の辺りは、戦後暗渠排水工事をしたほどである。洪水の被害も受けやすく、くぼんで低くなっていた登記所の通りや御台橋付近は、しばしば水浸しになった。北谷の耕地も時に一面海のようになった。
もっとも、6月から9月まで町役場の建設課長が「雨が降ったらおちおち寝ていられない」ほど、野川が氾濫するようになったのは、戦後沿岸に住宅が増えてきてからであった。深い田や水をかぶりやすい畑は、地主が手放すのも早かった。かつて、降った雨は広い田畑にじくじくしみ込んでいたのに、今度は屋根をつたって道路の側溝に流れ、一気に川に集まってあふれ、ほとんど毎回浸水するようになってしまった。六郷用水との合流点近辺では、何度か決壊もした。水が小田急の線路を越えたこともある。すると、岩戸と和泉・猪方・駒井との境に沿って押し流し、あたかも六郷用水の開さくにより350年も前に失われた野川の原始の流路を、まのあたりにするかのようであった。中でも昭和41年6月の台風四号の被害は、1690世帯、田畑41ヘクタールに及び、狛江町始まって以来の大災害といわれる。町の行政は、応急手当てに奔走する一方、昭和35、6年から沿岸各市町村と共に野川改修期成同盟をつくって都に働きかけた。下流から始まった工事が完成し、野川の流れが町の北端の新野川に移ったのは昭和44年。今、旧野川の地下は下水道、地上は野川緑地公園として再生(昭和52年)している。
世田谷通り
狛江市役所の先でいちょう通りに出て、小田急線の高架下を通ります。かつて調布のテニスコートに通っていたときによくここを通り、踏切だったころを覚えています。この先世田谷通りに出てしばらく通りを歩きます。南側の歩道にはやけに広い植え込みがあり、これが野川の跡かなぁといった感じ。ビルの上のゴリラも見覚えがありますが、なぜここにこれをおいているのか詳しい説明は発見できませんでした。二の橋交差点から世田谷通りと別れて東へ向かう道は筏道と呼ばれ、かつて「品川みち」を歩いた際にとおりました。木材を筏に組んで多摩川を流して運んだ職人が、上流へ戻る際に利用していた道です。
今回のコースはもう少し世田谷通り沿いに東へ向かい、こちらの分かれ道を右へ向かいます。
滝下橋緑道
次太夫堀の歴史と周辺の史跡
次太夫堀(六郷用水)の由来
慶長2年(1597)から15年もの歳月をかけて、慶長16年(1611)に完成した次太夫掘りは、多摩川の水を和泉村(現狛江市)で取り、野川、仙川などの小河川と合流し、多摩川沿いの武蔵国荏原郡世田谷領十四箇村(和泉、猪方、岩戸、喜多見、大蔵、鎌田、岡本、瀬田、上野毛、下野毛、等々力、小山、上沼部、下沼部)を通り、下流の六郷領(現大田区)に注いでいました。
次太夫掘りは、江戸時代の始め江戸近郊の開発を進めた徳川家康の命により、幕府の用水奉行小泉次太夫吉次の指揮・監督によって開削された、世田谷地方における最初の農業用灌漑用水路です。主に六郷領35箇村の水田開発を目的とした水利事業「六郷用水」と命名されましたが、婦女子の労働力に頼ったといわれる工事のため、俗に「女堀」とも呼ばれていました。一方、世田谷地方の人々は、小泉次太夫の功績をたたえ、六郷用水とは呼ばずに独自に「次太夫掘」と呼んでいました。
全長23km、川崎側の二所ヶ領用水との同時並行工事のため、長期にわたる難工事となり、沿岸農民の扶役も相当過重だったようです。しかし、世田谷領、六郷領併せて49箇村は、新田の造成等により大幅に村高が増加し、大きな恩恵を受けました。
このような由緒ある歴史を持ち、玉川八景などにも謳われた美しい環境の中に流れていた次太夫掘も、戦後の急激な都市化によってその役割を終え、一部が「丸子川」と改称されて、わずかに往時の面影を残すのみです。
平成5年3月設置 世田谷区教育委員会
ネットでいろいろと調べることができますが、現場に教育委員会が設置したこのような案内板が生きた教材だと思います。
野川
野川の川原
喜多見ふれあい広場
滝下橋緑道の先で野川とぶつかっています。下流に次太夫堀公園があるのですが、今回はここから上流へ向かい、喜多見駅で解散とします。川原の通路は少なくなり、世田谷通りをくぐる分だけありました。このコースは一月の実施予定です。暖かくなるといいのですが。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール