成田空港で仕事が早く終わったので、以前から行きたいと思っていた佐倉市と国立歴史民俗博物館へ行ってみました。協会バスハイクの訪問地として考えていたのですが、今回は下見というより、下見の下見くらいの感じです。
成田空港から佐倉まではJRか京成本線を利用します。都内から鉄道を使う場合もそのどちらかです。少し意外だったのは「京成佐倉駅」だと思っていたのに、路線図や駅の表示が「佐倉」になっていること。Wikipediaから引用します。
京成線内および乗り入れ路線の車内アナウンス、方向幕、駅構内の駅名標など旅客向け案内では「京成」を省略して単に「佐倉」とされ、2014年3月27日に完了した駅舎耐震補強工事に伴い駅名標など新デザインへ移行されたものの「京成」は省略されている。ただし、同じ「佐倉」の名を冠する東日本旅客鉄道(JR東日本)の佐倉駅は2kmほど離れている。
今回のテーマからちょっとずれて成田空港ネタです。都内から京成線を利用して成田空港に行こうとした時、二種類のルートがあります。北総線を経由する京成成田スカイアクセス線(京成高砂→成田空港 980円 乗車時間41分)と、京成本線(同 920円 乗車時間63分)。どちらを利用したのか判別するため、京成本線を利用した場合成田空港駅で改札を二回とおります。
上野から成田空港までスカイライナーを利用した場合は2,470円 乗車時間44分。東京駅からJR快速だと1,320円 乗車時間80分。成田エクスプレスは3,020円 乗車時間55分です。ただし成田エクスプレスには往復割引があり、都区内←→成田空港の往復切符は4,940円とスカイライナーを意識した値段設定となっており、渋谷から利用する場合はこちらがお得。渋谷→成田空港のリムジンバスは3,100円ですが、別会社で銀座→成田空港1,000円もあります。
佐倉市観光地図
京成佐倉駅前にあった地図ですが大きな違和感を感じるのは南北が逆で南が上に来ていること。縮尺通りに四角に収めなければならないので必ずしも北が真上に来るようにするのは難しいでしょうが、南北を逆にする意味はよくわからないし混乱します。
当初国立歴史民俗博物館のみを訪れるつもりだったのですが、武家屋敷なども見てみたいと思い、佐倉の町を一通り見てみることにしました。
ニッポンランナーズ
バスハイクの目的地に佐倉はどうかという話をしたときに、協会の長谷川理事から「ニッポンランナーズというのがあって」という話を何度か聞いていたので思わず写真に撮ってきました。ニッポンランナーズのホームページから引用します。
設立にあたり
2001年12月、NPO法人「ニッポンランナーズ」が千葉県の認可を受け、千葉県佐倉市で産声をあげました。
さまざまな問題が存在する現代社会、そして、スポーツ界もまた、従来の価値観を再構築しなければならない時期にきています。私たちは「スポーツ」というキーワードを手がかりに、総合型地域スポーツクラブの運営、競技選手のサポート、セミナーの開催など、さまざまな活動にチャレンジしていきます。
「スポーツを”文化”として位置付け、音楽やアートに親しんだり感動したりするのと同じように、心豊かに過ごしたい人々のための生活の一部にしていきたい」 そして、「頂点を目指すアスリートとスポーツを楽しむ人々が相互に理解し、助け合いたい」という2つの理念の展開をどうぞお楽しみに。
21世紀、スポーツの”文化としての自立--すなわちスポーツの存在意義を追及することと、社会とのよりよい共生のありかたを探ること--が、新しい「クラブスポーツ」という形で具現化し、トップアスリートのみならず、あらゆる人々の、生きがいある市民生活や活動のきっかけになることを願ってやみません。
最後に、NPO法人「ニッポンランナーズ」の設立にあたり数多くの方々の暖かいご支援、ご援助をいただきましたこと、この場をお借りして深く御礼申し上げます。
特定非営利活動法人ニッポンランナーズ理事長
金 哲彦
目黒区で行うめぐろウォーキング塾でニッポンランナーズの萩谷正紀さんにお世話になったことがあります。ニッポンランナーズとの関係はわかりませんでしたが、佐倉つながりということでWikipediaから引用します。
金メダルジョギングロード - 尚子コース(千葉県佐倉市)
シドニーオリンピック当時に高橋が在籍した積水化学陸上部がある佐倉市のジョギングコース。岩名運動公園陸上競技場を起点・終点とする往復10 kmのコース。
こちらは4travelから引用します。
有森裕子は、1966年岡山県生まれ、1992年バルセロナオリンピック女子マラソンで、陸上競技選手として64年ぶりの銀メダルを獲得する。1996年にはアトランタオリンピック女子マラソンで、銅メダルを獲得し、二大会連続のオリンピックメダル獲得は、日本女子陸上選手では有森が初めての快挙であった。ゴール後のインタビューで「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞に選ばれています。
金メダルジョギングロードの裕子コースは、この偉業をたたえ、小出義雄監督と金メダルを目指してトレーニングに励んだコースを取り入れ、設けられました。岩名運動公園をスタートして、宮前団地、京成佐倉駅前、山崎、鹿島川沿い、印旛沼サイクリングロード、土浮、萩山新田を走り、高座木を通り、岩名運動公園に帰って来る、全長13.25KMの周回コースです。
堀田家墓所の紅葉
堀田正睦公追遠之碑
堀田家墓所案内図
案内板
千葉県指定史跡
堀田正俊・正睦・正倫墓
昭和53年2月28日指定
堀田正俊はのちの堀田の祖で正盛の三男として寛永11年(1634)に生れ、将軍家光の命により春日局の養子となり、安中城主・若年寄・老中・古賀城主を経て大老に栄進した。
正睦はのちの堀田第九代・文化7年(1810)に生れ、佐倉城主にして寺社奉行・大坂城代・老中を経て老中主席・外国事務総裁となり、日米修好通商条約締結の基礎を築いた。
正倫は正睦の四男として嘉永4年(1851)に生れ、最後の佐倉城主となり、廃藩後は士族授産に努力し、さらに堀田農事試験場を開設、地方産業発展に貢献した。
昭和56年2月4日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会
墓所の紅葉がとてもきれいでした。堀田正俊は大老でしたが、将軍綱吉の時代に江戸城内で刺殺されているのですね。日米修好通商条約というと阿部正弘や井伊直弼が関与したイメージがあったので、堀田正睦についてWikipediaから引用します。正篤と正睦は同一人物です。
老中首座・幕政主導
天保14年(1843年)閏9月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。 幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
安政2年(1855年)10月2日に安政の大地震が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その1週間後の10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。この正睦の老中再任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、島津斉彬は静観した。また立花鑑寛や松平慶永らは正篤は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。
安政3年(1856年)、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。
一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が第14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。
失脚と最期
正睦が上洛中に松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、直弼は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始めた。安政5年(1858年)6月21日、正睦は松平忠固と共に登城停止処分にされた。6月23日には忠固と共に老中を罷免され、帝鑑間詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになった。
安政6年(1859年)9月6日、正睦は家督を四男の正倫に譲って隠居し見山と号した。正睦のこの隠居に関しては大老の直弼による強制的な隠居命令であり、この10日ほど前の8月27日に岩瀬忠震や永井尚忠ら一橋派が蟄居させられており、その連座処分だったとされる。ただし、直弼は時機を見ての正睦の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。
桜田門外の変後の文久2年(1862年)11月20日、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされたが、これは直弼の安政の大獄に対する報復人事であった。
元治元年(1864年)3月21日、正睦は佐倉城三の丸の松山御殿において死去した。享年55。蟄居処分は没後の3月29日に解かれた。
明治維新後、佐倉藩堀田家は華族令によって正倫に伯爵を授けられた。
井伊直弼が主導して孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したものと思っていましたが、そうではないようですね。条約調印の四日後に堀田正睦は老中を罷免されているそうです。
甚大寺
安城山不矜院甚大寺は、元和元(1615)年、慈眼大師天海大僧正が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立された寺院である。
元禄14年(1701)に山形城主であった堀田伊豆守正虎公(佐倉堀田家三代)が開基となり、当山十二世秀鏡法印が中興した。しかし、延享3年(1746)堀田相模守正亮公(五代)が佐倉城主となり転封されるのに際し、同年8月、現在の地に移したものである。
安置されている本尊、十一面観世音菩薩(市指定文化財)は、堀田正倫公(十代)の御念持仏で、我が国彫金界の泰斗である佐倉出身の津田信夫の作である。
また、金比羅尊は、堀田相模守正順公(六代)が天下泰平、万民豊楽を祈り、城内の守護仏として四国象頭山から勧請したものである。
大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失したが、現在の本堂は坂東二十八番札所滑川龍正院の建物を昭和36年(1961)に移築したもので、享保11年(1726)6月、当時下総の国を挙げて建立されたものである
境内奥には、堀田家累代の廟が静にたたずんでいる。
昭和60年3月
佐倉市
幸田家住宅(薬局)
佐倉市のホームページから引用します。
佐倉の散策コース
江戸時代、佐倉藩11万石の城下町として栄えた佐倉。
武家屋敷通り、坂道、袋小路など、およそ400年を経た現在でも基本的な町割は変わっていません。 また、佐倉城址、佐倉順天堂記念館など歴史を感じさせる建造物や史跡が点在しています。
この薬局がある場所は「蘭学通り」とあり、一本南の道は現在の成田街道で、蘭学通りは成田街道の旧道と思われます。今回は立ち寄りませんでしたがこの通りの先に佐倉順天堂記念館があります。佐倉順天堂について千葉県のページから引用します。
佐倉順天堂は、天保14年(1843)、長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた佐藤泰然(たいぜん:1804~1872)が、佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の招きを受け、佐倉に移り、佐倉本町に蘭医学塾及び診療所として「順天堂」を開設したことに始まる。
泰然は帝王切開などの新しい外科手術を行い、種痘の普及にも努めるなど最先端の診療を行った。また、西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。慶応元年(1865)の記録によれば、塾生は北海道から熊本県までの全国から100名にも及び、泰然の弟子は数百名、孫弟子まで含めると3000名を超えるといわれる。
現在、佐倉順天堂記念館として一般公開されている建物は、安政5年(1858)に成田街道の向い側から移転し、その後拡充されたものの一部で、明治27年(1894)に刊行された『日本博覧図 千葉県之部 初編』に収載された銅版画にある診療棟の一部にあたる。この記念館になっている建物を含む範囲を史跡として指定し、保護している。
蘭癖、堀田正睦が残した成果ですね。
佐倉の町を歩いてみて歴史観光地としては中途半端だと思いました。ところどころに歴史的な建物が残っているものの、生活空間として都市開発も進められたので車の通行が多く、散策には不向きです。流山でも感じたことですが、千葉県は道路の整備が遅かったので仕方がないのでしょう。見どころがあるだけに残念ですが、個人で訪れるには面白いと思います。
旧堀田邸案内板
案内板の内容をテキストに起こせばいいのですが、Wikipediaからの引用で代用させていただきます。
佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫の邸宅として、1890年(明治23年)に建築された。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物である。現在は寄贈され佐倉市の所有となっている。
庭園を含む一帯が、1997年(平成9年)に佐倉市指定文化財(名勝)、2001年(平成13年)に千葉県指定文化財(名勝)に指定され、2006年(平成18年)7月には国の重要文化財(建造物)に住居部5棟(座敷棟・居間棟・書斎棟・玄関棟・湯殿)と門番所・土蔵が指定された。庭園は2015年に「旧堀田正倫庭園」として国の名勝に指定された。また、2008年には「旧堀田家住宅と庭園」が「ちば遺産100選」に選ばれた。「つば造り」や「火打ち貫」といった伝統的な和風建築の工法と、ボルトやナットを使用した西洋建築の工法が混在しており、明治初期の過渡期の様子が窺い知れる。
旧堀田邸さくら庭園
南向きの台地の上に建てられ、庭の紅葉がきれいでした。大型バスを駐車するスペースは無いようでした。建物内の見学はしませんでしたが、ゆっくり見学してみるのもよいかもしれません。
薬師坂
武家屋敷通り
武家屋敷
今回一番期待して訪れて、ちょっとがっかりだった場所です。漠然と知覧の武家屋敷をイメージしていましたがここは東京のベッドタウン。イヌマキの生け垣は残っているものの、中身は現代風の建物というおうちが何軒か見られます。生活空間なんだから仕方ないですよね。勝手に期待して、勝手にがっかりするなといったところでしょうか。武家屋敷、旧堀田邸、佐倉順天堂記念館の三館共通入館券は540円です。
児玉源太郎旧宅跡
この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治十三)年から1885(明治十八)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエピソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生け垣は、児玉の借家時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。
※児玉源太郎 嘉永五(1852)年~明治三十九(1906)年
旧陸軍軍人。函館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治九(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を務める。日露戦争〔明治三十七(1904)年~明治三十八(1905)年〕全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立ちによる講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。
坂の上の雲で初めて知った児玉源太郎がここに住んでいたのかと思うと、感慨深いものがありました。案内板があるだけで、敷地内に入って見ることはできません。
ひよどり坂
情緒がある坂というか階段です。観光協会のページから引用します。
武家屋敷通りに隣接した古径(こみち)で、江戸時代からほとんど変わらない美しい竹林に囲まれています。
緩やかに曲がる坂道には、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが効率的に配され、今にも侍が出てきそうな雰囲気です。坂の途中には縁台があり、江戸時代の雰囲気に浸りながら休憩することができます。
「都内から近い、穴場のフォトジェニック竹林」ということで、外国人観光客を含め、じわじわと注目が集まっています。
城南堤桜並木
出丸跡
出丸の内側
佐倉城の南側で、この土塁を見ると佐倉城址がほぼ原形をとどめているように思えます。ここから本丸跡まで、急な上り坂となり、その地形からここに城が築かれた理由がよくわかります。
本丸跡
本丸周辺の紅葉
本丸の空堀
出丸跡があった場所の標高が4mで本丸の標高が34m。南にあるJR佐倉駅の標高が5mで北にある京成佐倉駅の標高は8mです。南側は高崎川が流れる平地で、北側は鹿島川の支流が削った谷なっており、その間に標高30mの台地が残り台地の西端が佐倉城址になります。城の地形がこれだけわかりやすい形で残っているので、歴史に興味がある外国人には受けるかもしれません。佐倉城についてWikipediaから引用します。
佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。 明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。
正岡子規の歌碑
常盤木や冬されまさる城の跡
明治期における俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した正岡子規(1867-1902)は、1894(明治二十七)年十二月、本所駅(現錦糸町駅)-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れています。
子規は、総武鉄道佐倉駅(現JR佐倉駅)より、まず佐倉の街の広がる「馬の背」のような台地を眺め、「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」を読んでいます。現在の表町、新町方面より、日清戦争における清国人の捕虜収容所となっていた海隣寺の前を通っています。その後、海隣寺坂(現市役所脇の坂)を下り、田町を抜け、田町の堀付近(現歴博下水堀付近)で城を眺め、この句を読み、もとの道を佐倉駅へ引き返しています。
子規は佐倉の麻賀多神社で幼少期を過ごした鋳金工芸作家の香取秀真や旧佐倉藩士であり佐倉で幼少年期を過ごした洋画家の浅井忠とも親交がありました。
「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」の句碑は、JR佐倉駅前城南橋付近にあります。
平成二十七年十二月
佐倉市役所 産業振興課
佐倉陸軍病院跡
国立歴史民俗博物館
佐倉城は明治期に撤去され帝国陸軍の駐屯地となりました。現在本丸跡の北側に国立歴史民俗博物館があります。博物館についてWikipediaから引用します。
日本には明治時代から東京、京都、奈良の3か所に美術系の博物館である帝室博物館(のちの国立博物館)が存在したが、これらとは別に歴史系の国立博物館を設置すべきだとの意見は早くからあり、歴史学者の黒板勝美はすでに昭和戦前に国立歴史博物館の必要性を訴えていた。しかし、国立の歴史系博物館の設置構想が具体化するのは第二次世界大戦後のことであった。1966年、日本政府は「明治百年」記念事業の一環として歴史博物館の設置を決定し、以後、学識経験者らによって建設地、展示内容などが検討されはじめた。1971年には文化庁内に博物館設置のための基本構想委員会が置かれ、1978年には同じく文化庁内に国立歴史民俗博物館設立準備室が設置されて、ようやく開館へ向けての準備が本格化した。同準備室の室長は歴史学者で東京大学名誉教授の井上光貞であった。「考古、歴史、民俗」の3分野を展示の柱とすること、博物館は大学共同利用機関とし、調査研究機能を充実することといった歴博の基本コンセプトは、井上の発想によるところが大きい。
国の機関としての国立歴史民俗博物館は1981年に発足し、井上光貞が初代館長となった。ただし、博物館としての一般公開が始まるのは2年後の1983年3月のことである。初代館長であり、歴博の設置準備において終始指導的立場にあった井上は一般公開開始直前の1983年2月に急死し、東京大学文学部教授の土田直鎮(なおしげ)が2代館長となった(土田も館長着任期間中の1993年1月に急死した)。
展示
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっている。展示室は常設展示の第1~第6展示室と、企画展示室に分かれている。常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色である。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されている。2016年現在の総合展示は以下のような構成になっている。
・第1展示室 原始・古代 (旧石器時代-奈良時代)2016年5月よりリニューアルのため閉鎖中。リニューアル前の展示構成は以下のとおりであった。
日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
・第2展示室 中世 (平安時代-安土桃山時代) 王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
・第3展示室 近世 (江戸時代) 国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
・第4展示室 民俗 (列島の民俗文化) 「民俗」へのまなざし / おそれと祈り / くらしと技
・第5展示室 近代 (明治時代-昭和初期) 文明開化 / 産業と開拓 / 都市の大衆の時代
・第6展示室 現代 (「戦争-高度経済成長」) 戦争と平和/戦後の生活革命
【第二展示室 中世】
貴族の邸宅
平安京
鎌倉
宋船
【第三展示室 近世】
越後屋看板
越後屋は「現金掛け値なし」だと思っていたのですが、「現銀」だとは知りませんでした。
【第四展示室 民族】
尾形家
歴博のページから引用します。
〈津波に負けない家〉
「くらしの場」のコーナーでは、近世からイワシ漁の網元として海とともに生きてきた尾形家の住宅を復元展示します。東日本大震災の津波で流失した部材も用いた空間で、生産の場であるとともに神や死者を祀る場でもある家の姿を体感できます。
薬売りの看板
【第五展示室 近代】
増穂町旧・舂米(つきよね)学校校舎
横浜港
【第六展示室 現代】
ホーロー看板
ダッコちゃん
ゴジラ
現代の半分は戦争と戦後で占められていました。そのあたりは写真に撮る気分にはなりませんでしたが、体験として記憶にあるものはとても懐かしく写真に撮りました。
国立歴史民俗博物館は一日いても飽きないでしょうが、体力と気力が続きません。何度でも訪れてみるべき場所だと思います。
協会のバスハイクで訪れても良いかなぁと考えた下見ですが、すぐに飽きてしまう人も多いかと思います。雨でどうしようもない時の緊急避難用ですね。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
成田空港から佐倉まではJRか京成本線を利用します。都内から鉄道を使う場合もそのどちらかです。少し意外だったのは「京成佐倉駅」だと思っていたのに、路線図や駅の表示が「佐倉」になっていること。Wikipediaから引用します。
京成線内および乗り入れ路線の車内アナウンス、方向幕、駅構内の駅名標など旅客向け案内では「京成」を省略して単に「佐倉」とされ、2014年3月27日に完了した駅舎耐震補強工事に伴い駅名標など新デザインへ移行されたものの「京成」は省略されている。ただし、同じ「佐倉」の名を冠する東日本旅客鉄道(JR東日本)の佐倉駅は2kmほど離れている。
今回のテーマからちょっとずれて成田空港ネタです。都内から京成線を利用して成田空港に行こうとした時、二種類のルートがあります。北総線を経由する京成成田スカイアクセス線(京成高砂→成田空港 980円 乗車時間41分)と、京成本線(同 920円 乗車時間63分)。どちらを利用したのか判別するため、京成本線を利用した場合成田空港駅で改札を二回とおります。
上野から成田空港までスカイライナーを利用した場合は2,470円 乗車時間44分。東京駅からJR快速だと1,320円 乗車時間80分。成田エクスプレスは3,020円 乗車時間55分です。ただし成田エクスプレスには往復割引があり、都区内←→成田空港の往復切符は4,940円とスカイライナーを意識した値段設定となっており、渋谷から利用する場合はこちらがお得。渋谷→成田空港のリムジンバスは3,100円ですが、別会社で銀座→成田空港1,000円もあります。
佐倉市観光地図
京成佐倉駅前にあった地図ですが大きな違和感を感じるのは南北が逆で南が上に来ていること。縮尺通りに四角に収めなければならないので必ずしも北が真上に来るようにするのは難しいでしょうが、南北を逆にする意味はよくわからないし混乱します。
当初国立歴史民俗博物館のみを訪れるつもりだったのですが、武家屋敷なども見てみたいと思い、佐倉の町を一通り見てみることにしました。
ニッポンランナーズ
バスハイクの目的地に佐倉はどうかという話をしたときに、協会の長谷川理事から「ニッポンランナーズというのがあって」という話を何度か聞いていたので思わず写真に撮ってきました。ニッポンランナーズのホームページから引用します。
設立にあたり
2001年12月、NPO法人「ニッポンランナーズ」が千葉県の認可を受け、千葉県佐倉市で産声をあげました。
さまざまな問題が存在する現代社会、そして、スポーツ界もまた、従来の価値観を再構築しなければならない時期にきています。私たちは「スポーツ」というキーワードを手がかりに、総合型地域スポーツクラブの運営、競技選手のサポート、セミナーの開催など、さまざまな活動にチャレンジしていきます。
「スポーツを”文化”として位置付け、音楽やアートに親しんだり感動したりするのと同じように、心豊かに過ごしたい人々のための生活の一部にしていきたい」 そして、「頂点を目指すアスリートとスポーツを楽しむ人々が相互に理解し、助け合いたい」という2つの理念の展開をどうぞお楽しみに。
21世紀、スポーツの”文化としての自立--すなわちスポーツの存在意義を追及することと、社会とのよりよい共生のありかたを探ること--が、新しい「クラブスポーツ」という形で具現化し、トップアスリートのみならず、あらゆる人々の、生きがいある市民生活や活動のきっかけになることを願ってやみません。
最後に、NPO法人「ニッポンランナーズ」の設立にあたり数多くの方々の暖かいご支援、ご援助をいただきましたこと、この場をお借りして深く御礼申し上げます。
特定非営利活動法人ニッポンランナーズ理事長
金 哲彦
目黒区で行うめぐろウォーキング塾でニッポンランナーズの萩谷正紀さんにお世話になったことがあります。ニッポンランナーズとの関係はわかりませんでしたが、佐倉つながりということでWikipediaから引用します。
金メダルジョギングロード - 尚子コース(千葉県佐倉市)
シドニーオリンピック当時に高橋が在籍した積水化学陸上部がある佐倉市のジョギングコース。岩名運動公園陸上競技場を起点・終点とする往復10 kmのコース。
こちらは4travelから引用します。
有森裕子は、1966年岡山県生まれ、1992年バルセロナオリンピック女子マラソンで、陸上競技選手として64年ぶりの銀メダルを獲得する。1996年にはアトランタオリンピック女子マラソンで、銅メダルを獲得し、二大会連続のオリンピックメダル獲得は、日本女子陸上選手では有森が初めての快挙であった。ゴール後のインタビューで「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞に選ばれています。
金メダルジョギングロードの裕子コースは、この偉業をたたえ、小出義雄監督と金メダルを目指してトレーニングに励んだコースを取り入れ、設けられました。岩名運動公園をスタートして、宮前団地、京成佐倉駅前、山崎、鹿島川沿い、印旛沼サイクリングロード、土浮、萩山新田を走り、高座木を通り、岩名運動公園に帰って来る、全長13.25KMの周回コースです。
堀田家墓所の紅葉
堀田正睦公追遠之碑
堀田家墓所案内図
案内板
千葉県指定史跡
堀田正俊・正睦・正倫墓
昭和53年2月28日指定
堀田正俊はのちの堀田の祖で正盛の三男として寛永11年(1634)に生れ、将軍家光の命により春日局の養子となり、安中城主・若年寄・老中・古賀城主を経て大老に栄進した。
正睦はのちの堀田第九代・文化7年(1810)に生れ、佐倉城主にして寺社奉行・大坂城代・老中を経て老中主席・外国事務総裁となり、日米修好通商条約締結の基礎を築いた。
正倫は正睦の四男として嘉永4年(1851)に生れ、最後の佐倉城主となり、廃藩後は士族授産に努力し、さらに堀田農事試験場を開設、地方産業発展に貢献した。
昭和56年2月4日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会
墓所の紅葉がとてもきれいでした。堀田正俊は大老でしたが、将軍綱吉の時代に江戸城内で刺殺されているのですね。日米修好通商条約というと阿部正弘や井伊直弼が関与したイメージがあったので、堀田正睦についてWikipediaから引用します。正篤と正睦は同一人物です。
老中首座・幕政主導
天保14年(1843年)閏9月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。 幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
安政2年(1855年)10月2日に安政の大地震が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その1週間後の10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。この正睦の老中再任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、島津斉彬は静観した。また立花鑑寛や松平慶永らは正篤は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。
安政3年(1856年)、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。
一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が第14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。
失脚と最期
正睦が上洛中に松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、直弼は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始めた。安政5年(1858年)6月21日、正睦は松平忠固と共に登城停止処分にされた。6月23日には忠固と共に老中を罷免され、帝鑑間詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになった。
安政6年(1859年)9月6日、正睦は家督を四男の正倫に譲って隠居し見山と号した。正睦のこの隠居に関しては大老の直弼による強制的な隠居命令であり、この10日ほど前の8月27日に岩瀬忠震や永井尚忠ら一橋派が蟄居させられており、その連座処分だったとされる。ただし、直弼は時機を見ての正睦の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。
桜田門外の変後の文久2年(1862年)11月20日、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされたが、これは直弼の安政の大獄に対する報復人事であった。
元治元年(1864年)3月21日、正睦は佐倉城三の丸の松山御殿において死去した。享年55。蟄居処分は没後の3月29日に解かれた。
明治維新後、佐倉藩堀田家は華族令によって正倫に伯爵を授けられた。
井伊直弼が主導して孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したものと思っていましたが、そうではないようですね。条約調印の四日後に堀田正睦は老中を罷免されているそうです。
甚大寺
安城山不矜院甚大寺は、元和元(1615)年、慈眼大師天海大僧正が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立された寺院である。
元禄14年(1701)に山形城主であった堀田伊豆守正虎公(佐倉堀田家三代)が開基となり、当山十二世秀鏡法印が中興した。しかし、延享3年(1746)堀田相模守正亮公(五代)が佐倉城主となり転封されるのに際し、同年8月、現在の地に移したものである。
安置されている本尊、十一面観世音菩薩(市指定文化財)は、堀田正倫公(十代)の御念持仏で、我が国彫金界の泰斗である佐倉出身の津田信夫の作である。
また、金比羅尊は、堀田相模守正順公(六代)が天下泰平、万民豊楽を祈り、城内の守護仏として四国象頭山から勧請したものである。
大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失したが、現在の本堂は坂東二十八番札所滑川龍正院の建物を昭和36年(1961)に移築したもので、享保11年(1726)6月、当時下総の国を挙げて建立されたものである
境内奥には、堀田家累代の廟が静にたたずんでいる。
昭和60年3月
佐倉市
幸田家住宅(薬局)
佐倉市のホームページから引用します。
佐倉の散策コース
江戸時代、佐倉藩11万石の城下町として栄えた佐倉。
武家屋敷通り、坂道、袋小路など、およそ400年を経た現在でも基本的な町割は変わっていません。 また、佐倉城址、佐倉順天堂記念館など歴史を感じさせる建造物や史跡が点在しています。
この薬局がある場所は「蘭学通り」とあり、一本南の道は現在の成田街道で、蘭学通りは成田街道の旧道と思われます。今回は立ち寄りませんでしたがこの通りの先に佐倉順天堂記念館があります。佐倉順天堂について千葉県のページから引用します。
佐倉順天堂は、天保14年(1843)、長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた佐藤泰然(たいぜん:1804~1872)が、佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の招きを受け、佐倉に移り、佐倉本町に蘭医学塾及び診療所として「順天堂」を開設したことに始まる。
泰然は帝王切開などの新しい外科手術を行い、種痘の普及にも努めるなど最先端の診療を行った。また、西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。慶応元年(1865)の記録によれば、塾生は北海道から熊本県までの全国から100名にも及び、泰然の弟子は数百名、孫弟子まで含めると3000名を超えるといわれる。
現在、佐倉順天堂記念館として一般公開されている建物は、安政5年(1858)に成田街道の向い側から移転し、その後拡充されたものの一部で、明治27年(1894)に刊行された『日本博覧図 千葉県之部 初編』に収載された銅版画にある診療棟の一部にあたる。この記念館になっている建物を含む範囲を史跡として指定し、保護している。
蘭癖、堀田正睦が残した成果ですね。
佐倉の町を歩いてみて歴史観光地としては中途半端だと思いました。ところどころに歴史的な建物が残っているものの、生活空間として都市開発も進められたので車の通行が多く、散策には不向きです。流山でも感じたことですが、千葉県は道路の整備が遅かったので仕方がないのでしょう。見どころがあるだけに残念ですが、個人で訪れるには面白いと思います。
旧堀田邸案内板
案内板の内容をテキストに起こせばいいのですが、Wikipediaからの引用で代用させていただきます。
佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫の邸宅として、1890年(明治23年)に建築された。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物である。現在は寄贈され佐倉市の所有となっている。
庭園を含む一帯が、1997年(平成9年)に佐倉市指定文化財(名勝)、2001年(平成13年)に千葉県指定文化財(名勝)に指定され、2006年(平成18年)7月には国の重要文化財(建造物)に住居部5棟(座敷棟・居間棟・書斎棟・玄関棟・湯殿)と門番所・土蔵が指定された。庭園は2015年に「旧堀田正倫庭園」として国の名勝に指定された。また、2008年には「旧堀田家住宅と庭園」が「ちば遺産100選」に選ばれた。「つば造り」や「火打ち貫」といった伝統的な和風建築の工法と、ボルトやナットを使用した西洋建築の工法が混在しており、明治初期の過渡期の様子が窺い知れる。
旧堀田邸さくら庭園
南向きの台地の上に建てられ、庭の紅葉がきれいでした。大型バスを駐車するスペースは無いようでした。建物内の見学はしませんでしたが、ゆっくり見学してみるのもよいかもしれません。
薬師坂
武家屋敷通り
武家屋敷
今回一番期待して訪れて、ちょっとがっかりだった場所です。漠然と知覧の武家屋敷をイメージしていましたがここは東京のベッドタウン。イヌマキの生け垣は残っているものの、中身は現代風の建物というおうちが何軒か見られます。生活空間なんだから仕方ないですよね。勝手に期待して、勝手にがっかりするなといったところでしょうか。武家屋敷、旧堀田邸、佐倉順天堂記念館の三館共通入館券は540円です。
児玉源太郎旧宅跡
この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治十三)年から1885(明治十八)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエピソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生け垣は、児玉の借家時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。
※児玉源太郎 嘉永五(1852)年~明治三十九(1906)年
旧陸軍軍人。函館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治九(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を務める。日露戦争〔明治三十七(1904)年~明治三十八(1905)年〕全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立ちによる講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。
坂の上の雲で初めて知った児玉源太郎がここに住んでいたのかと思うと、感慨深いものがありました。案内板があるだけで、敷地内に入って見ることはできません。
ひよどり坂
情緒がある坂というか階段です。観光協会のページから引用します。
武家屋敷通りに隣接した古径(こみち)で、江戸時代からほとんど変わらない美しい竹林に囲まれています。
緩やかに曲がる坂道には、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが効率的に配され、今にも侍が出てきそうな雰囲気です。坂の途中には縁台があり、江戸時代の雰囲気に浸りながら休憩することができます。
「都内から近い、穴場のフォトジェニック竹林」ということで、外国人観光客を含め、じわじわと注目が集まっています。
城南堤桜並木
出丸跡
出丸の内側
佐倉城の南側で、この土塁を見ると佐倉城址がほぼ原形をとどめているように思えます。ここから本丸跡まで、急な上り坂となり、その地形からここに城が築かれた理由がよくわかります。
本丸跡
本丸周辺の紅葉
本丸の空堀
出丸跡があった場所の標高が4mで本丸の標高が34m。南にあるJR佐倉駅の標高が5mで北にある京成佐倉駅の標高は8mです。南側は高崎川が流れる平地で、北側は鹿島川の支流が削った谷なっており、その間に標高30mの台地が残り台地の西端が佐倉城址になります。城の地形がこれだけわかりやすい形で残っているので、歴史に興味がある外国人には受けるかもしれません。佐倉城についてWikipediaから引用します。
佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。 明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。
正岡子規の歌碑
常盤木や冬されまさる城の跡
明治期における俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した正岡子規(1867-1902)は、1894(明治二十七)年十二月、本所駅(現錦糸町駅)-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れています。
子規は、総武鉄道佐倉駅(現JR佐倉駅)より、まず佐倉の街の広がる「馬の背」のような台地を眺め、「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」を読んでいます。現在の表町、新町方面より、日清戦争における清国人の捕虜収容所となっていた海隣寺の前を通っています。その後、海隣寺坂(現市役所脇の坂)を下り、田町を抜け、田町の堀付近(現歴博下水堀付近)で城を眺め、この句を読み、もとの道を佐倉駅へ引き返しています。
子規は佐倉の麻賀多神社で幼少期を過ごした鋳金工芸作家の香取秀真や旧佐倉藩士であり佐倉で幼少年期を過ごした洋画家の浅井忠とも親交がありました。
「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」の句碑は、JR佐倉駅前城南橋付近にあります。
平成二十七年十二月
佐倉市役所 産業振興課
佐倉陸軍病院跡
国立歴史民俗博物館
佐倉城は明治期に撤去され帝国陸軍の駐屯地となりました。現在本丸跡の北側に国立歴史民俗博物館があります。博物館についてWikipediaから引用します。
日本には明治時代から東京、京都、奈良の3か所に美術系の博物館である帝室博物館(のちの国立博物館)が存在したが、これらとは別に歴史系の国立博物館を設置すべきだとの意見は早くからあり、歴史学者の黒板勝美はすでに昭和戦前に国立歴史博物館の必要性を訴えていた。しかし、国立の歴史系博物館の設置構想が具体化するのは第二次世界大戦後のことであった。1966年、日本政府は「明治百年」記念事業の一環として歴史博物館の設置を決定し、以後、学識経験者らによって建設地、展示内容などが検討されはじめた。1971年には文化庁内に博物館設置のための基本構想委員会が置かれ、1978年には同じく文化庁内に国立歴史民俗博物館設立準備室が設置されて、ようやく開館へ向けての準備が本格化した。同準備室の室長は歴史学者で東京大学名誉教授の井上光貞であった。「考古、歴史、民俗」の3分野を展示の柱とすること、博物館は大学共同利用機関とし、調査研究機能を充実することといった歴博の基本コンセプトは、井上の発想によるところが大きい。
国の機関としての国立歴史民俗博物館は1981年に発足し、井上光貞が初代館長となった。ただし、博物館としての一般公開が始まるのは2年後の1983年3月のことである。初代館長であり、歴博の設置準備において終始指導的立場にあった井上は一般公開開始直前の1983年2月に急死し、東京大学文学部教授の土田直鎮(なおしげ)が2代館長となった(土田も館長着任期間中の1993年1月に急死した)。
展示
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっている。展示室は常設展示の第1~第6展示室と、企画展示室に分かれている。常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色である。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されている。2016年現在の総合展示は以下のような構成になっている。
・第1展示室 原始・古代 (旧石器時代-奈良時代)2016年5月よりリニューアルのため閉鎖中。リニューアル前の展示構成は以下のとおりであった。
日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
・第2展示室 中世 (平安時代-安土桃山時代) 王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
・第3展示室 近世 (江戸時代) 国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
・第4展示室 民俗 (列島の民俗文化) 「民俗」へのまなざし / おそれと祈り / くらしと技
・第5展示室 近代 (明治時代-昭和初期) 文明開化 / 産業と開拓 / 都市の大衆の時代
・第6展示室 現代 (「戦争-高度経済成長」) 戦争と平和/戦後の生活革命
【第二展示室 中世】
貴族の邸宅
平安京
鎌倉
宋船
【第三展示室 近世】
越後屋看板
越後屋は「現金掛け値なし」だと思っていたのですが、「現銀」だとは知りませんでした。
【第四展示室 民族】
尾形家
歴博のページから引用します。
〈津波に負けない家〉
「くらしの場」のコーナーでは、近世からイワシ漁の網元として海とともに生きてきた尾形家の住宅を復元展示します。東日本大震災の津波で流失した部材も用いた空間で、生産の場であるとともに神や死者を祀る場でもある家の姿を体感できます。
薬売りの看板
【第五展示室 近代】
増穂町旧・舂米(つきよね)学校校舎
横浜港
【第六展示室 現代】
ホーロー看板
ダッコちゃん
ゴジラ
現代の半分は戦争と戦後で占められていました。そのあたりは写真に撮る気分にはなりませんでしたが、体験として記憶にあるものはとても懐かしく写真に撮りました。
国立歴史民俗博物館は一日いても飽きないでしょうが、体力と気力が続きません。何度でも訪れてみるべき場所だと思います。
協会のバスハイクで訪れても良いかなぁと考えた下見ですが、すぐに飽きてしまう人も多いかと思います。雨でどうしようもない時の緊急避難用ですね。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール