目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

ウォーキング塾地区活動(北部) 北部公園コース 約6.0km

2019-06-02 13:30:28 | ウォーキング
先週は菅刈住区、東山住区、烏森住区をめぐりましたが、今週は一つ残っていた駒場住区を歩き北部地区コンプリートとなります。


ノウゼンカズラ
中目黒GTに集合し目黒川舟入場へ移動してストレッチをします。ノウゼンカズラが咲き始めましたが、アメリカデイゴは来週でしょうか。田楽橋を渡り川沿いを上流へ向かい、皀樹橋の歩道橋で駒沢通りを渡ります。東横線ガードをくぐり別所橋から右に曲がり新しくできた東京音楽大学 中目黒・代官山キャンパスとみどりの鎌倉街道を見学です。東京音楽大学とその上のキングホームズがある場所には江戸時代丸旦組の富士塚があり、江戸からの日帰り観光でにぎわっていました。明治時代に富士塚は壊されて岩倉具視の別荘が建てられ、その後東武鉄道創業者の根津さんの邸宅になった後、国鉄の官舎がありました。国鉄民営化で土地は売却され東京都と目黒区の持ち物になっており、定期借地権という話も聞いていましたが、売却したようです。鎌倉街道である目切坂の歩道が狭くて歩きにくかったのですが、この大学が出来たおかげで歩きやすくなりました。


明治天皇行幸の碑

和庭園燕子花図

ミヤコグサ

和庭園のねむの木
前回説明できなかったので跡地として開発された土地は28万5千坪と説明しました。三島由紀夫の豊饒の海の最初のシーンで描かれていることも。ミヤコグサは他では見られなくなっているので珍しいです。


梅の実

ヒナキキョウソウ

西郷山公園にある桜島の溶岩
「西郷の生家がある鹿児島鍛治屋町」と説明しようと思たのに、鍛治屋町がどうしても出てきませんでした。鍛治屋町の生家にはこの溶岩の返礼として目黒区が贈った石があります。目黒区産出のものではありません。目黒区のページから引用します。
歴史を訪ねて 西郷山の従道邸
更新日:2018年12月21日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

西郷山の従道邸
青葉台二丁目周辺は、別名西郷山とも呼ばれている。それは、明治の初めに西郷隆盛の弟従道が付近の地形を生かした広い庭園を造り、立派な建物を構えていたからである。

兄隆盛のために購入
このあたりは、江戸時代、「荒城の月」で知られる豊後(今の大分県)の岡(竹田)城主、中川修理大夫の抱かかえ屋敷であった。樹木がうっそうと茂り、池に三田用水から水を引くなど、林泉の美しさは近郊随一とうたわれた。その後、2万坪に及ぶこの屋敷は、明治維新のとき征韓論を主張して破れ、下野した兄隆盛のために、従道が手に入れたのである。
西郷従道(1843年から1902年)は、明治2年に山県有朋らと欧州を視察後、わが国の兵制や警察制度の制定、殖産興業政策の推進に尽力した。兄の下野にもかかわらず、英明な従道は新政府の要職につき、文部卿・陸軍卿・農商務卿・内務卿・海相などを歴任した。

明治天皇も来邸
洋館・書院造りの和館などを配置した回遊式の庭園は、東京一の名庭園といわれ、名士が訪れることも多かった。特に、従道が海軍大臣であった明治22年には、明治天皇の行幸や、皇后・皇太后の行啓があった。天皇は、庭園での大相撲や薩摩踊りを、また皇后は、当時従道が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心に観覧したと伝えられる。
邸内には、養蚕所のほか農園・果樹園もあり、機織りやトマトソースの製造・缶詰加工も行われていたという

耐震性を考えた西洋館
広々とした芝生や、大王松・ヒマラヤ杉・落羽松などが茂る樹林に囲まれ、清浄な池に面した西洋館の建築には、フランスの建築家レスカースと棟梁鈴木孝太郎が携わった。
建具類はほとんどフランス直輸入の品を使用した。また、屋根は垂木を省いたり、金属板を葺くなどの軽量化が図られた。さらに、建物の四隅には通し柱を配置、壁の中にはれんがを積み建物の浮き上がりを防ぐなど、当時では、他に類例の見られない耐震設計がなされていた。

跡地は公共施設に
従道の死後は、二男従徳が昭和16年に渋谷に移転するまで、本邸として使用していた。その後、同邸の所有は箱根鉄道・国鉄と移ったが、空襲で和館が焼失したり名木が枯れるなど、往時の面影はほとんど失せてしまった。わずかに残された西洋館は、国鉄官舎や当時のプロ野球国鉄スワローズの合宿などに利用されていたが、昭和38年、愛知県犬山市の「明治村」に移され、後、国の重要文化財に指定された。
現在は西郷山公園・菅刈公園として整備され、新たな憩いの場となっている。



アジサイ

シロバナネムノキ



東京大学教養学部一号館
三田用水沿いを神泉方面へ向かい、玉川通りを歩道橋で渡り淡島通りへ。松見坂の説明して、駒場バラ園へ向かう手前でシロバナネムノキを見ました。初めて見たので珍しいなぁと思い写真に撮って、家に帰ってから花の名前を調べました。炊事門から入り、正門わきのバラ園では駒場バラの会の方々がバラのお世話をしていました。一号館の建物は先日見た公衆衛生院に似ていると思ったら、設計者は同じ内田祥三(うちだよしかず)でした。東京大学教養学部の前身の駒場農学校について、目黒区のページから引用します。
歴史を訪ねて 駒場農学校
更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

駒場農学校
井の頭線駒場東大前駅西口から出て、線路沿いの道を西へ進む。まもなく左手に、駒場野公園が見えてくる。北門から入って、右側が駒場の池、左側が日本農学発祥記念の地「ケルネル田圃」である。「ケルネル田圃」とは、明治14年ドイツ人ケルネルが、駒場農学校農芸化学の外人教師としてドイツより着任以来、後身である東京農林学校、東京帝国大学農科大学を通じて、明治25年に帰国するまで、近代日本における農学の基礎づくりに大きな影響を与えた。とくに水田土壤の研究とイネ作肥料の研究に多くの業績を残し、この水田が試験田として利用されたことから「ケルネル田圃」と呼ばれている。
明治の初め、政府は、殖産興業政策のひとつとして、経験に基づいた日本の在来農法に、先進資本主義諸国の農業技術を積極的に導入しようと図った。そのため、農業技術を指導する外国人教師が、さかんに招かれた。クラーク博士を教頭に迎え、アメリカ系統の農業技術を取り入れたのが札幌農学校(現北海道大学)であり、ケルネルらを通じて、ドイツ農法を吸収したのが駒場農学校であった。
駒場農学校は、現在の東京大学教養学部、駒場公園、東京大学駒場リサーチキャンパス、駒場野公園(旧東京教育大学移転跡地)にまたがる約6万坪の敷地で、明治11年に開校された。その後、次第に拡張され、最盛期といわれる明治17年には、敷地面積が16万5,000坪に達し、欧米の農作物を試植する泰西農場、在来農法の改良を期した本邦農場、家畜病院、気象台、園芸・植物園などを持つ、さながら農業の総合教育・研究所の観があった。

船津とケルネル
駒場農学校が、黎明期の日本近代農学の発展に果たした役割は、計り知れないものがある。なかでも、群馬の農民船津伝次平と、水田にその名を残したケルネルら2人の活躍はめざましかった。
船津伝次平は、農学校の教官に抜てきされると、自ら先頭に立って駒場の原野を開墾した。その後、本邦農場を使って、日本の農業に欧米農法の長所を取り入れることに努めたという。
一方、ドイツ人オスカー・ケルネルは、明治14年、政府の招きに応じ、農芸化学の教師として着任。土壤・肥料・酪農の講義を手始めに、米作・養蚕・漁業の方面へも研究範囲を広げ、大きな成果を収めた。このとき、ケルネル田んぼは、我国初の水田試験地として、土壤肥料の研究に大いに役立ち、その名を後世に残すこととなったのである。

伝統の火は消えず
農学校開校以来、100年以上の歴史を見守り続けてきたケルネル田んぼの伝統は、世田谷区池尻にある筑波大学付属駒場中学・高校の生徒たちの手によって、今なお受け継がれている。同校の生徒たちは、毎年6月に田植え、10月に稲刈りをする。収穫した米は、卒業式・入学式の折に赤飯にして、生徒たちが賞味するという。
なお、旧東京教育大学農学部移転跡地のうち約2万8,000平方メートルは、ケルネル田んぼや池・雑木林を残しつつ、テニスコートや体育館などを備えた駒場野公園として、昭和61年3月に開園した。



駒場公園のバラ


旧前田邸洋館
東大教養学部の中を歩き、北門から出て駒場公園を見学します。こちらも目黒区のページから引用しておきましょう。
歴史を訪ねて 旧前田家本邸
更新日:2019年4月27日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。


旧前田家本邸
井の頭線駒場東大前駅から、しょうしゃな住宅街を歩くこと10分で、目黒区立駒場公園へ着く。石造りのいかめしい門を入ると、左手に木の間隠れに和館が見えてくる。さらに奥へ進むと、若草色の屋根に赤レンガ張りの洋館が目の前に現われる。この洋館と和館が、旧前田家本邸である。

大名から侯爵へ
明治17年、華族令発布により、前田家は侯爵の爵位を授与されて、百万石大名の威信を保ったが、隣接して建てられた東京帝国大学の敷地拡張のため、本郷の地も駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換されることになった。こうして、はからずも加賀百万石大名の子孫の屋敷が、目黒は駒場の地に出現することとなった。
昭和4年から5年にかけて、前田家16代当主前田利為侯爵は、駒場の約1万坪の敷地に、地上3階地下1階建ての洋館と、これを渡り廊下で結んだ2階建て純日本風の和館とを相次いで竣工させた。マツ・ケヤキ・イチョウ・シラカシなどうっそうと茂る駒場野の林をそのまま生かした奥庭や芝生の広場。使用人も100人以上いたという前田侯爵邸は、当時東洋一の大邸宅と人々の目を見張らせたものだった。

幾多の変遷を経て
しかし、栄華も永くは続かなかった。昭和16年に第2次世界大戦が勃発すると、翌年には、ボルネオ方面軍司令官として従軍中の利為侯が、不慮の死を遂げてしまったのだ。夫人をはじめ一家は他へ移り、戦局がますます厳しくなる中で、昭和19年、邸内の一部を譲り受け、中島飛行機の本社が疎開してきた。
そして、終戦。前田邸は、昭和20年9月、連合軍に接収され、第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸となり、続いて26年4月からは、極東総司令官リッジウェイの官邸として使用された。その後、富士産業(旧中島飛行機)の手を経て、昭和31年に和館及び一部の土地が国の所有となり、翌年、ようやく接収が解除となったのである。
昭和38年、旧前田邸に公園を建設することが決定し、翌年、洋館を東京都が買収、国有地については、東京都に無償貸与され、都はさらに民有地を買い足して、昭和42年7月、旧前田邸は、東京都立駒場公園として生まれ変わった。その後、昭和50年に公園の管理が目黒区へ移管されて現在に至る。

面影を今に残して
公園の完成に先立ち、昭和42年4月には、洋館をそのまま利用した都立近代文学博物館と、和館に隣接して新築された財団法人日本近代文学館とが、同時に開館した。近代文学博物館は、近代文学に関するあらゆる資料を収集・保存・展示するもので、収蔵資料は、明治以降の文芸作家や評論家などの、肉筆の原稿・色紙・書簡類や初版本など約1万3,000点余に上り、年間4万人もの人が訪れた。東京都有形文化財として平成3年に指定されたが、博物館としての使命は平成14年に終えた。
建物の内部は一般に公開されている。(問合せ先 駒場公園洋館管理事務所 電話03-3466-5150)、多少手を加えられたところがあるものの、各室ごとに設けられている暖炉、天井につられたシャンデリアなどは、ほぼ洋館建築当時のままで、華麗な侯爵家の生活を、今もなおしのばせている。和館も、当時の面影を良く残しており、1階は、公園を訪れる人に無料休憩所として昭和49年から開放されている。
こうして、激動の半世紀を見つめ続けてきた旧前田邸は、緑に囲まれた都会のオアシスとして、今日も生き続けている。


駒場公園から駒場野公園へ移動し、ストレッチをしてこの日は解散しました。

解散後中目黒ひつじ東山店でジンギスカン。ビールがおいしかった!ジンギスカンもね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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