目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

めぐろウォーキング塾地区合同ウォーキング

2019-06-24 11:11:50 | ウォーキング
目黒ウォーキング塾はこの日の地区合同ウォーキングを含めて残り二回となりました。心配していた雨も中止を検討するほどでもなく、ウォーキング中にパラパラと降っていたものの無事実施することができました。
この週末は目黒ウォーキング協会の事業で土日が占められてしまうため、すこやか歩こう会の活動はありません。


碑文谷体育館
ウォーキング塾は碑文谷体育館で行われているので、集合は碑文谷体育館です。中央地区の体育の拠点として様々な活動が行われている碑文谷体育館ですが、かつては第一勧業銀行の施設で、勧銀女子バスケットボール部の拠点でした。このクラブについてWikipediaから引用します。
第一勧業銀行DKBハーティーズ(だいいちかんぎょうぎんこう―)は、かつて存在した女子バスケットボールチームである。母体は第一勧業銀行(現・みずほ銀行)。本拠地は東京都目黒区。

歴史
1951年、日本勧業銀行女子バスケットボール部として発足。
1968年の第1回日本リーグに参加。
1973年にオールジャパン優勝を果たし、日本リーグでも第8回(1974/75)と第14回(1980/81)を制した古豪として知られた。

その後低迷し、2部落ちとなるものの1988年に元全日本の北原憲彦がヘッドコーチに就任すると、1989年の日本リーグ2部優勝、1993年の1部復帰し1シーズン目で3位と健闘する。
北原の退任後は再び2部落ちとなり、復帰後の2000年にチーム名に「DKB」を加えて、W1リーグ優勝を果たすも本社のリストラにより廃部。
なお第一勧銀とともに後にみずほ銀行・みずほコーポレート銀行の母体となる富士銀行・日本興業銀行も女子バスケットボールチームを持っていてともに日本リーグに参加していた。


ストレッチの後南部、中央、西部、東部、北部の順番でスタートしてウォーキング開始です。碑文谷体育館は中央地区といってもすぐ西側は世田谷区下馬となり、住所は碑文谷六丁目です。碑文谷一丁目には円融寺があり、村社の碑文谷八幡宮は碑文谷三丁目です。かつてこのあたりが碑文谷村の中心で、碑文谷体育館に隣接する碑文谷公園と共に下馬牽澤村との村境に位置しています。体育館テニスコートの西側の道はかつての鎌倉街道です。碑文谷公園についてもWikipediaから歴史を引用します。
公園の中心になっている碑文谷池は古来より水田灌漑用の貯水池として地元の人々に大切に維持・管理されてきた池で、まだ当地付近が農村であった頃は現在よりも大きく、地元の人々にとって欠かせない存在であった。昔は当時の地名をとって「三谷の池」と呼ばれていた。また、この池は同じ区内にある清水池公園にある清水池と共に立会川の水源にもなっている。近代以降付近が住宅地へと変化していく中、碑文谷池の永久保存を条件に、1932年当時の東京市に付近の土地と共に寄贈され、公園として整備され1933年11月15日に碑文谷公園として開園した。1950年10月1日に目黒区に管轄が移り、現在に至っている。碑文谷池を中心に遊具や樹木があるほか、一角にはポニーやウサギなど動物に触れられる「こども動物広場」がある。2001年には公園に隣接してあった旧第一勧業銀行碑文谷グラウンドも公園用地として取得し、野球場やテニスコート・体育館も併設され(目黒区立碑文谷体育館)目黒区内でも有数の規模の公園になった。

歩き始めるとすぐに世田谷区下馬となり、環状七号線と駒沢通りの交差点を渡ります。この交差点を渡った先は目黒区柿の木坂でこの部分は世田谷区が南に突き出している感じなのは、下馬牽澤村と碑文谷村の力関係?環七野沢交差点から駒沢通りにかけて品川用水が流れていたので、品川用水が村境でもよかったと思うのですが、用水の南側に世田谷区が突き出しているのですよね。
柿の木坂はどの坂をさすのかよくわかりませんが、どの坂にしても呑川の谷が作った坂になります。駒沢通りに呑川柿の木坂支流の谷があるのですが、底部はかさ上げして谷を緩くしているようです。ウォーキングは柿の木坂支流を遡ります。東が丘一丁目に芳窪街かど公園がありそれを目印に駒沢公園方面へ左折します。呑川柿の木坂支流はかつて芳窪川と呼ばれていたと説明しました。このあたり町名が東が丘で小学校名が東根です。地名の由来を目黒区のページから引用してみましょう。
目黒の地名 東が丘(ひがしがおか)
更新日:2014年2月3日

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 東が丘
「東が丘」という地名が誕生したのは、昭和39年7月1日、東京オリンピックが開催された年である。同年から住居表示制度が本区でも実施されることになり、この東が丘は、八雲と同時に、初名乗りを上げたのである。
その昔この辺りは、衾村字東根の一部であったが、明治22年に町村制が施行されて碑衾村大字衾字東大原・字東上芳窪・字東下芳窪・字東下原となった。昭和2年の碑衾町を経て、目黒区が誕生した昭和7年からは、大原町・芳窪町と呼ばれてきた。
では、なぜ東が丘という地名が生まれたのであろうか。住居表示化に先駆けて地元住民にどのような名称にするかを諮ったところ、良い案もなく区は、町村制施行まで親しまれていた「東根」を提案した。ところが、「東根」は現代感覚に合わないという声が住民から上がったので、それならばと区は、昔からこの地域は「東」という文字が多く使われていたことから、「東」を用いた近代的な名称をということで、「東が丘」を考え出した。
これに対して地元住民の間では、「いや東根でいいのだ」「東が丘で構わない」といった賛否両論が渦巻き、学識経験者を交えて賛成派・反対派の意見を区が聴取するまでに問題は発展したが、結局、東が丘に落ち着いた。ところで、東が丘の「が」を今まで使われていた「ヶ」という文字にしなかったのは、「…できるだけ読みやすく、かつ、簡明なものにすること。」という「住居表示に関する法律」に基づいたからである。
目黒地域の開発は昭和とともに始まったともいえるが、この東が丘一帯は、交通の不便さもあって開けるのが遅れた。宅地化されたのは、戦後になってからのことである。こうした遅れが幸いしてか、今日でも緑が濃く、閑静な環境にあり、住宅地として好適地となっている。なお、「東根」は住区名として使われている。



駒沢公園にある聖火台

池のカルガモ
駒沢公園に入り聖火台を見に行ったのですが、カルガモがふた家族いてその愛らしい姿に癒されました。スロープを上るカルガモを撮り損ねたので、Youtubeで探してみました。
2019年6月5日 駒沢公園のカルガモ親子2雛が無事家族のもとへ



東京オリンピックメモリアルギャラリー
ギャラリーについて東京とスポーツ文化事業団のページを引用します。
1964年の第18回オリンピック東京大会を中心に、オリンピックの諸資料を展示しています。常設展では、聖火リレートーチ(1.2kg)など競技に使われた用具に直接手で触れて、その重さを体感できるほか、種目別の特別企画展を一ヶ月毎に開催しています。また、スポーツを体験・体感できるゾーンがあり、世界の記録などを身近に感じることができます。小中学校などの団体入場の場合は、事前に申し込みがあれば説明や案内などに対応しています。


駒沢公園の給水塔
ギャラリーでのトイレ休憩を終えてウォーキングを再開。第一陸橋で駒沢通りを渡り、公園内を南下しました。正面に見えていた巨大マンション群は都立大学跡地の都営住宅ですね。呑川駒沢支流から東へ向かい衾町公園、八雲の高級住宅街を抜け、柿の木坂通りを渡り、呑川柿の木坂支流の谷へ下りてゆきます。川沿いにさかのぼり駒沢通りからは元来た道を戻りましたが、碑文谷体育館隣にある日大水泳部合宿所前にある古橋廣之進のモニュメントを見学し体育館に戻りました。ストレッチ中に雨が強くなりましたが、傘をささずに歩いてゴールできたのはラッキーでした。
体育館三階会議室で目黒ウォーキング協会の成り立ちを説明した後、北部、東部、中央、南部、西部の順番で各クラブの特徴をアピールするプレゼンテーション。塾生の心を打つプレゼンテーションはあったでしょうか。

反省会はすこやか歩こう会のone of クラブハウス、天狗でおこのみ宴会。大いに飲んで食べました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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