週末は目黒ウォーキング協会のイベントがあり、すこやか歩こう会の活動はお休みでしたが、実行委員にとっては忙しい週末となりました。
七夕飾り
今回のめぐろウォーキング塾は主会場を区民センター体育館として行われています。目黒区立の体育館は五つあります。北部地区は駒場野公園内の駒場体育館。中央地区は碑文谷体育館。南部地区は目黒線西小山駅近くの中央体育館。西部地区はめぐろ区民キャンパス内の八雲体育館。
めぐろウォーキング塾は交通の便が悪い北部地区駒場体育館を除く四つの地区の持ち回りで行われてきました。駒場体育館は駒場東大前駅から徒歩5分なので「交通の便が悪い」というのは正確さを欠いているのですが、多くの目黒区民にとっては行きにくい、なじみのない場所なのです。目黒区を南北に走る東横線沿いにある碑文谷体育館、八雲体育館が利便性ではAクラス。目黒線沿いにある区民センター体育館、中央体育館がBクラスでしょうか。バスの便が良い区民センター体育館はA’かもしれませんね。
ウォーキング塾の順番では今回は中央体育館なのですが、建替えのためこちらの体育館はしばらく使用できません。中央体育館の休館について目黒区のページから引用します。
中央体育館は昭和43年に建築され、築50年を迎えます。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会によって東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の公式練習会場候補施設とされており、受入態勢の確保や競技環境の整備が必要です。また、東京2020大会終了後も安全で快適に利用でき、区民の誰もが生涯にわたり、年齢やライフスタイルに応じて、健康づくりから各種の競技に至るまで、多様なスポーツ・レクリエーションに親しむことができる施設とするために、大規模改修工事を行います。そのため、平成30年7月1日から平成32年3月31日(予定)まで休館します。
前置きが長くなりましたが、今回は東部地区の区民センター体育館を主会場としているため、地区合同ウォークも区民センターに集合し、東部地区を歩きます。目黒区民センターについて概要を説明するページが見つからないので簡単にまとめてみると、体育館、プール、消費生活センター、中小企業センター、区民センターホール、勤労福祉会館、児童館、児童遊園、図書館、美術館、勤労者サービスセンター、社会教育館を備えた複合施設となっています。
区民センターを出発し、目黒川沿いに下流へ向かい、目黒通りを横断して権之助坂を上ります。坂についてWikipediaから引用します。
権之助坂(ごんのすけざか)は目黒通りの一部で、JR目黒駅から目黒川にかかる目黒新橋に至る400mほどの坂。目黒区目黒1丁目と下目黒1丁目を分ける坂でもある。
権之助坂は元禄時代に開かれ、坂の名は菅沼権之助に由来する。彼の名がついた理由としては、権之助自身が坂を開いたとする説や、重たい年貢に苦しむ農民のために年貢軽減を直訴してそのために処刑された権之助の名を、慕う農民が開かれたばかりの新坂につけたとする説などがある。
権之助坂が開かれるまでは、江戸と目黒を結ぶ主要な道路は行人坂を通っていた。しかし、行人坂は急な坂であったため、荷を運ぶ人々は大変な苦労をしていた。
権之助坂が開かれてのちは、主要交通路が行人坂から権之助坂に移り、特に権之助坂が目黒通りの一部となって以降は拡幅を続けても交通量の増大に追いつかず、ついには権之助坂の途中からバイパスを設け、権之助坂は西に向かう一方通行となった(バイパス路は東=都心に向かう一方通行)。2016年現在、権之助坂はほぼ全体に権之助坂商店街が広がる繁華街となっている。
菅沼権之助についてもWikipediaから引用しましょう。
菅沼権之助(すがぬまごんのすけ)は江戸・元禄時代の江戸近郊中目黒村田道の名主、目黒・権之助坂を開いた人物、または地域の名士で権之助坂の名の由来になった人物といわれる。
概要
元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主。荷を運ぶ人が急坂の行人坂で苦労しているを気の毒に思って、緩やかな権之助坂を開いたとも、地域の貧しい百姓が重たい年貢で生活が苦しいのを気の毒に思って、幕府に年貢の軽減を嘆願したともいわれる。
刑死したが、無断で権之助坂を開いたことを幕府に咎められたとも、貧しい小作農のために年貢軽減を嘆願したことが罪に問われたともされる。年貢軽減説では、罪に問われ引き立てられる際に新坂の上から最後の別れと自分の家を望み、そのために権之助を慕う農民が新坂に権之助の名を付けたと言われる
権之助の話には異説もあり、異説では、実は名主などではなく坂を開いたわけでもなく強盗を働き処刑されたともされる。異説では罪人として引き立てられ晒された坂に名がついたとされる。しかし、権之助の墓は現在も目黒区中目黒5-6にある。強盗で刑死したのであれば当時の情勢では墓を作ることが許される可能性は低く、強盗は同名の別人で、おそらく菅沼権之助は人々のために働いて命を落とした義の人であろうとされる
権之助坂の途中を右に折れて、大圓寺の前で行人坂に出ます。大圓寺、行人坂、八百屋お七についてWikipediaから引用します。
大円寺(だいえんじ)は、東京都目黒区下目黒にある天台宗の寺院。山号は松林山。本尊は釈迦如来。大黒天を祀り、元祖山手七福神のひとつとなっている。
歴史
この寺は、寛永年間(1624年 - 1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。
行人坂(ぎょうにんざか)は目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂である。急な勾配や江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで知られる目黒雅叙園があることで知られる。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝でもあり、富士見の名所としても知られ、また、明和の大火ばかりでなく八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもある。
概要
行人坂は、坂上の一部を品川区上大崎として、坂の大部分は目黒区下目黒1丁目を東西に貫く150mほどの長さの平均勾配が約15.6%になる急峻な坂で、坂はJR目黒駅西口の三井住友銀行目黒支店と同事務センターの間を坂上として始まり、西に向かった坂を左手に大円寺、目黒雅叙園を見ながら下りきると目黒川にかかる太鼓橋に至る。
江戸時代には江戸と目黒不動や目黒大鳥神社、碑文谷円融寺などへの参詣や目黒の農産物を江戸に運ぶ交通の要衝でもあり、行人坂の名の由来は17世紀前半寛永のころに出羽三山の一つ湯殿山の行者の大海法印が大日如来の堂を建て、大円寺の元を開き坂を開いた。以来、行者が多く住み、そのため行人坂と言われるようになったと伝えられている。
行人坂は坂の頂上からおおむね西南西に急勾配で下るため江戸時代には坂上からは富士山がよく見える富士見の名所として富士見茶屋が置かれ、『江戸名所図会』にも坂の全景と富士見茶屋、太鼓橋の三つが描かれている。
行人坂に面する名所や有名な会社としては、明和の大火や五百羅漢で知られる大円寺・目黒雅叙園・太鼓橋・ホリプロ本社などがあり、すぐ近傍には行人坂教会やトンカツの老舗「とんき」などがある。
急峻な坂であり、自動車は上りの一方通行となっている。
江戸の2つの大火事と大円寺
行人坂にある大円寺は見るべきものの多い古刹だが、幅4km長さは24km先まで延焼し、1万5000人が死亡し日本橋が壊滅し上野も焼けた明和の大火(明和9年2月29日(1772年4月1日))の火元になった寺でもある。大円寺は武州熊谷無宿の真秀という僧によって放火されたが、放火された大円寺も責任を問われ、再建が認められたのは70年以上も後のことだった。縁起担ぎの好きな江戸庶民は明和9年を「めいわくの年」と読んでよくないことがおきるのではないかと恐れていたが、それは的中し大惨事が起きてしまうことになった。明和の大火は江戸三大大火の一つで目黒行人坂大火とも呼ばれる。大円寺にあり、行人坂の名所でもある石造五百羅漢像は目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされている。
また、明和の大火の約90年前の天和の大火(天和2年12月28日(1683年1月25日))で焼け出された八百屋お七が避難先の寺で出会った吉三に恋焦がれて、吉三に再び会いたい一心で放火し、火あぶりとなった事件で、お七の恋人吉三は後に西運上人となりその墓は大円寺にある(お七の恋焦がれた相手の名や素性は諸説ある。吉三=後の西運上人はその1説である)。お七の墓は故郷の千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にあるが、恋焦がれた吉三と墓が別なのは気の毒と1955年には大円寺に吉三とお七の共同の墓(比翼塚)が置かれた。
太鼓橋
行人坂を下りきった最後には目黒川に出て太鼓橋を渡る。江戸時代後期にはアーチ型の石橋で、その形が太鼓の胴を思わせたので太鼓橋の名が付いた。『江戸名所図会』や歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれている名所であったが、現在は平らな鉄橋に架け替えられている。
目黒雅叙園
行人坂の下部、左側は結婚式場・ホテル・レストランなどで知られる目黒雅叙園がある。江戸時代には大円寺の下には明王院という寺があった。吉三のちの西運上人は明王院の僧であった。明治に廃寺になり、吉三の墓を含め大円寺に移されている。明王院の敷地は現在の目黒雅叙園の敷地の一部となっている。
八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
概要
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。
お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。
『天和笑委集』は、お七の処刑(天和3年(1683年))のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史資料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。
多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、ほとんどの作品で共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。さまざまある設定の中には月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)や美内すずえ『ガラスの仮面』などのように放火と火の見櫓に登る場面の両方を取り入れる作品や冤罪とするもの、真山青果の戯曲のように放火とせずに失火とする創作などもある。
引用が多くなりました。坂の名前、寺の名前、八百屋お七などおぼろげに知ってはいるものの、よく知ると面白いのが郷土の歴史で、歴史のつながりを感じながらの散歩も楽しいものです。
合同ウォークは太鼓橋を渡り、電車道を歩きます。電車道については目黒区のページから引用します。
目黒のみち 電車道
権之助坂の下、目黒川に架かる新橋のたもとから、不動前方面へ向けて斜めに走る道がある。歩道を含め、最大幅員18メートルに及ぶ立派な道だが、全長わずかに600メートル足らず。山手通りに交差した途端、こつ然ととぎれる、太く短い道である。
戦前、東京市が天現寺・恵比寿長者丸間の市電路線を延長するために買収した軌道敷用地が、この道の前身。昭和19年に、既存の路線自体が廃止となったため、戦後、新橋から終点予定地までの軌道敷用地が、そのまま道路に生まれ変わった。
柳並木があったため「柳通り」の名もあるが、現在はハナミズキの並木道である。昔を知る人の間では、今も「電車道」と呼ばれる、歴史を刻む道である。
山手通りを横断し、目黒川支流だった羅漢寺川の暗渠を目黒不動まで歩き、石古坂を上り林試の森公園へ入ります。冒頭の写真は林試の森公園で撮ったもので、七夕飾りに短冊をかけることができます。
リツがロボットを発明しますように!!
スズメ
と書いて飾りたいところでしたが、字が汚いのでやめました。
林試の森を一周まわり東口から出て目黒不動へ。本堂にお参りした後、裏手の大日如来坐像を見て、裏口から出て甘藷先生お墓の前で手を合わせます。前回のブログで引用しているのでそちらを参照していただきたいのですが、墓石にかかれた「甘藷先生墓」は青木昆陽の直筆だそうです。
再び山手通り横断し、電車道、目黒新橋、目黒川沿いを歩き、ふれあい橋の上でウォーキング後のストレッチをして区民センターは戻りました。
合同ウォークの後は塾生に30分程度お付き合いいただき、目黒ウォーキング協会を構成する五地区のウォーキングクラブが活動の魅力を伝えるプレゼンテーションを行います。さてさて、ウォーキング塾終了後何名の方々が我々の仲間に加わってくれるでしょうか?
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
七夕飾り
今回のめぐろウォーキング塾は主会場を区民センター体育館として行われています。目黒区立の体育館は五つあります。北部地区は駒場野公園内の駒場体育館。中央地区は碑文谷体育館。南部地区は目黒線西小山駅近くの中央体育館。西部地区はめぐろ区民キャンパス内の八雲体育館。
めぐろウォーキング塾は交通の便が悪い北部地区駒場体育館を除く四つの地区の持ち回りで行われてきました。駒場体育館は駒場東大前駅から徒歩5分なので「交通の便が悪い」というのは正確さを欠いているのですが、多くの目黒区民にとっては行きにくい、なじみのない場所なのです。目黒区を南北に走る東横線沿いにある碑文谷体育館、八雲体育館が利便性ではAクラス。目黒線沿いにある区民センター体育館、中央体育館がBクラスでしょうか。バスの便が良い区民センター体育館はA’かもしれませんね。
ウォーキング塾の順番では今回は中央体育館なのですが、建替えのためこちらの体育館はしばらく使用できません。中央体育館の休館について目黒区のページから引用します。
中央体育館は昭和43年に建築され、築50年を迎えます。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会によって東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の公式練習会場候補施設とされており、受入態勢の確保や競技環境の整備が必要です。また、東京2020大会終了後も安全で快適に利用でき、区民の誰もが生涯にわたり、年齢やライフスタイルに応じて、健康づくりから各種の競技に至るまで、多様なスポーツ・レクリエーションに親しむことができる施設とするために、大規模改修工事を行います。そのため、平成30年7月1日から平成32年3月31日(予定)まで休館します。
前置きが長くなりましたが、今回は東部地区の区民センター体育館を主会場としているため、地区合同ウォークも区民センターに集合し、東部地区を歩きます。目黒区民センターについて概要を説明するページが見つからないので簡単にまとめてみると、体育館、プール、消費生活センター、中小企業センター、区民センターホール、勤労福祉会館、児童館、児童遊園、図書館、美術館、勤労者サービスセンター、社会教育館を備えた複合施設となっています。
区民センターを出発し、目黒川沿いに下流へ向かい、目黒通りを横断して権之助坂を上ります。坂についてWikipediaから引用します。
権之助坂(ごんのすけざか)は目黒通りの一部で、JR目黒駅から目黒川にかかる目黒新橋に至る400mほどの坂。目黒区目黒1丁目と下目黒1丁目を分ける坂でもある。
権之助坂は元禄時代に開かれ、坂の名は菅沼権之助に由来する。彼の名がついた理由としては、権之助自身が坂を開いたとする説や、重たい年貢に苦しむ農民のために年貢軽減を直訴してそのために処刑された権之助の名を、慕う農民が開かれたばかりの新坂につけたとする説などがある。
権之助坂が開かれるまでは、江戸と目黒を結ぶ主要な道路は行人坂を通っていた。しかし、行人坂は急な坂であったため、荷を運ぶ人々は大変な苦労をしていた。
権之助坂が開かれてのちは、主要交通路が行人坂から権之助坂に移り、特に権之助坂が目黒通りの一部となって以降は拡幅を続けても交通量の増大に追いつかず、ついには権之助坂の途中からバイパスを設け、権之助坂は西に向かう一方通行となった(バイパス路は東=都心に向かう一方通行)。2016年現在、権之助坂はほぼ全体に権之助坂商店街が広がる繁華街となっている。
菅沼権之助についてもWikipediaから引用しましょう。
菅沼権之助(すがぬまごんのすけ)は江戸・元禄時代の江戸近郊中目黒村田道の名主、目黒・権之助坂を開いた人物、または地域の名士で権之助坂の名の由来になった人物といわれる。
概要
元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主。荷を運ぶ人が急坂の行人坂で苦労しているを気の毒に思って、緩やかな権之助坂を開いたとも、地域の貧しい百姓が重たい年貢で生活が苦しいのを気の毒に思って、幕府に年貢の軽減を嘆願したともいわれる。
刑死したが、無断で権之助坂を開いたことを幕府に咎められたとも、貧しい小作農のために年貢軽減を嘆願したことが罪に問われたともされる。年貢軽減説では、罪に問われ引き立てられる際に新坂の上から最後の別れと自分の家を望み、そのために権之助を慕う農民が新坂に権之助の名を付けたと言われる
権之助の話には異説もあり、異説では、実は名主などではなく坂を開いたわけでもなく強盗を働き処刑されたともされる。異説では罪人として引き立てられ晒された坂に名がついたとされる。しかし、権之助の墓は現在も目黒区中目黒5-6にある。強盗で刑死したのであれば当時の情勢では墓を作ることが許される可能性は低く、強盗は同名の別人で、おそらく菅沼権之助は人々のために働いて命を落とした義の人であろうとされる
権之助坂の途中を右に折れて、大圓寺の前で行人坂に出ます。大圓寺、行人坂、八百屋お七についてWikipediaから引用します。
大円寺(だいえんじ)は、東京都目黒区下目黒にある天台宗の寺院。山号は松林山。本尊は釈迦如来。大黒天を祀り、元祖山手七福神のひとつとなっている。
歴史
この寺は、寛永年間(1624年 - 1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。
行人坂(ぎょうにんざか)は目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂である。急な勾配や江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで知られる目黒雅叙園があることで知られる。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝でもあり、富士見の名所としても知られ、また、明和の大火ばかりでなく八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもある。
概要
行人坂は、坂上の一部を品川区上大崎として、坂の大部分は目黒区下目黒1丁目を東西に貫く150mほどの長さの平均勾配が約15.6%になる急峻な坂で、坂はJR目黒駅西口の三井住友銀行目黒支店と同事務センターの間を坂上として始まり、西に向かった坂を左手に大円寺、目黒雅叙園を見ながら下りきると目黒川にかかる太鼓橋に至る。
江戸時代には江戸と目黒不動や目黒大鳥神社、碑文谷円融寺などへの参詣や目黒の農産物を江戸に運ぶ交通の要衝でもあり、行人坂の名の由来は17世紀前半寛永のころに出羽三山の一つ湯殿山の行者の大海法印が大日如来の堂を建て、大円寺の元を開き坂を開いた。以来、行者が多く住み、そのため行人坂と言われるようになったと伝えられている。
行人坂は坂の頂上からおおむね西南西に急勾配で下るため江戸時代には坂上からは富士山がよく見える富士見の名所として富士見茶屋が置かれ、『江戸名所図会』にも坂の全景と富士見茶屋、太鼓橋の三つが描かれている。
行人坂に面する名所や有名な会社としては、明和の大火や五百羅漢で知られる大円寺・目黒雅叙園・太鼓橋・ホリプロ本社などがあり、すぐ近傍には行人坂教会やトンカツの老舗「とんき」などがある。
急峻な坂であり、自動車は上りの一方通行となっている。
江戸の2つの大火事と大円寺
行人坂にある大円寺は見るべきものの多い古刹だが、幅4km長さは24km先まで延焼し、1万5000人が死亡し日本橋が壊滅し上野も焼けた明和の大火(明和9年2月29日(1772年4月1日))の火元になった寺でもある。大円寺は武州熊谷無宿の真秀という僧によって放火されたが、放火された大円寺も責任を問われ、再建が認められたのは70年以上も後のことだった。縁起担ぎの好きな江戸庶民は明和9年を「めいわくの年」と読んでよくないことがおきるのではないかと恐れていたが、それは的中し大惨事が起きてしまうことになった。明和の大火は江戸三大大火の一つで目黒行人坂大火とも呼ばれる。大円寺にあり、行人坂の名所でもある石造五百羅漢像は目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされている。
また、明和の大火の約90年前の天和の大火(天和2年12月28日(1683年1月25日))で焼け出された八百屋お七が避難先の寺で出会った吉三に恋焦がれて、吉三に再び会いたい一心で放火し、火あぶりとなった事件で、お七の恋人吉三は後に西運上人となりその墓は大円寺にある(お七の恋焦がれた相手の名や素性は諸説ある。吉三=後の西運上人はその1説である)。お七の墓は故郷の千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にあるが、恋焦がれた吉三と墓が別なのは気の毒と1955年には大円寺に吉三とお七の共同の墓(比翼塚)が置かれた。
太鼓橋
行人坂を下りきった最後には目黒川に出て太鼓橋を渡る。江戸時代後期にはアーチ型の石橋で、その形が太鼓の胴を思わせたので太鼓橋の名が付いた。『江戸名所図会』や歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれている名所であったが、現在は平らな鉄橋に架け替えられている。
目黒雅叙園
行人坂の下部、左側は結婚式場・ホテル・レストランなどで知られる目黒雅叙園がある。江戸時代には大円寺の下には明王院という寺があった。吉三のちの西運上人は明王院の僧であった。明治に廃寺になり、吉三の墓を含め大円寺に移されている。明王院の敷地は現在の目黒雅叙園の敷地の一部となっている。
八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
概要
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。
お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。
『天和笑委集』は、お七の処刑(天和3年(1683年))のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史資料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。
多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、ほとんどの作品で共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。さまざまある設定の中には月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)や美内すずえ『ガラスの仮面』などのように放火と火の見櫓に登る場面の両方を取り入れる作品や冤罪とするもの、真山青果の戯曲のように放火とせずに失火とする創作などもある。
引用が多くなりました。坂の名前、寺の名前、八百屋お七などおぼろげに知ってはいるものの、よく知ると面白いのが郷土の歴史で、歴史のつながりを感じながらの散歩も楽しいものです。
合同ウォークは太鼓橋を渡り、電車道を歩きます。電車道については目黒区のページから引用します。
目黒のみち 電車道
権之助坂の下、目黒川に架かる新橋のたもとから、不動前方面へ向けて斜めに走る道がある。歩道を含め、最大幅員18メートルに及ぶ立派な道だが、全長わずかに600メートル足らず。山手通りに交差した途端、こつ然ととぎれる、太く短い道である。
戦前、東京市が天現寺・恵比寿長者丸間の市電路線を延長するために買収した軌道敷用地が、この道の前身。昭和19年に、既存の路線自体が廃止となったため、戦後、新橋から終点予定地までの軌道敷用地が、そのまま道路に生まれ変わった。
柳並木があったため「柳通り」の名もあるが、現在はハナミズキの並木道である。昔を知る人の間では、今も「電車道」と呼ばれる、歴史を刻む道である。
山手通りを横断し、目黒川支流だった羅漢寺川の暗渠を目黒不動まで歩き、石古坂を上り林試の森公園へ入ります。冒頭の写真は林試の森公園で撮ったもので、七夕飾りに短冊をかけることができます。
リツがロボットを発明しますように!!
スズメ
と書いて飾りたいところでしたが、字が汚いのでやめました。
林試の森を一周まわり東口から出て目黒不動へ。本堂にお参りした後、裏手の大日如来坐像を見て、裏口から出て甘藷先生お墓の前で手を合わせます。前回のブログで引用しているのでそちらを参照していただきたいのですが、墓石にかかれた「甘藷先生墓」は青木昆陽の直筆だそうです。
再び山手通り横断し、電車道、目黒新橋、目黒川沿いを歩き、ふれあい橋の上でウォーキング後のストレッチをして区民センターは戻りました。
合同ウォークの後は塾生に30分程度お付き合いいただき、目黒ウォーキング協会を構成する五地区のウォーキングクラブが活動の魅力を伝えるプレゼンテーションを行います。さてさて、ウォーキング塾終了後何名の方々が我々の仲間に加わってくれるでしょうか?
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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