暑い時期に短い距離のコースを作ろうと思い、駒場東大前駅から代々木公園を目指す「代々木公園コース」を作成しました。このコースの近くに春の小川の碑があることが分かったので、少しルートを変更して「代々木公園コース2」としましたが、当初の代々木公園コースを歩くこともなく、数年経過するとなぜ「2」なのかという意識も薄れてくるので、「春の小川コース」にすべきだったかなとか、でも歩くのは春ではなく残暑厳しき秋だしな、などと考えているのですが、会員さんにとってコース名はそれほど重要視されていないのかもしれません。
真夏の空気が一気に乾いた秋の空気に代わり、熱帯夜から解放された週末のウォーキングで24名くらい参加者がいたでしょうか?この日のウォーキングも盛況でした。
東大駒場一号館
駒場博物館前のヒマラヤスギ
学内のイタリアントマト
井の頭線駅改札に集合し、東大駒場正門前に移動してストレッチを行います。学内では何か試験が行われていたらしく、守衛さんから「静かに通行してください」とお願いされ、正門から裏門まで静かに歩いて山手通りに出ました。
三田用水
三田用水の暗渠化が始まったのが昭和4年ということですが、さすがに当時の様子とは違っているものと思われます。茶屋坂隧道がなくなるなど、三田用水の遺構が徐々になくなる中、看板も無く扱いが軽いですね。
ヤマザキカレッジ
鍋島松濤公園
Wikipediaから引用してみましょう。
元々当地一帯は江戸時代には紀州徳川家の下屋敷があったところで、1876年(明治9年)に佐賀の鍋島家に払い下げられた。鍋島家は当地に茶園を開いて「松濤園」と名付け、「松濤」という名で茶の販売も行っていた。1932年(昭和7年)になると茶園は廃止され、湧水池のある一角が児童遊園として整備され、1932年(昭和7年)に東京市に寄贈された後、1950年(昭和25年)からは渋谷区に管轄が移されて現在に至っている。
静岡県の牧之原台地を開墾して茶畑にしたのは旧幕臣であったというドキュメンタリー番組を見て、士族を救済するための茶業は一般的だったのだなぁと思いました。
黒船来航が1853年で、その翌年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約に調印しています。1868年の輸出額割合は生糸の40%に対し、茶は23%でした。1875年(明治8年)の輸出額割合は生糸35%に対し、茶38%と茶の輸出額が逆転しています。日露戦争開戦後の1905年となると茶3%、生糸23%、絹織物12%と茶の輸出はインドやセイロンに負けて下火となってゆきました。
宇田川緑道
宇田川は渋谷川の支流で、1964年の東京オリンピックの際の下水需要の急増により暗渠化されました。あのオリンピックがなければ今でもボットントイレ、ということはなかったと思いますが、水洗トイレの普及はもっと遅れていたことでしょう。
光子館
SENSUOUS
セバスチャン
緑道沿いにある光子館は着ぐるみを作る会社でテレビ業界では有名なようです。SENSUOUSは熱帯魚屋さんというより、水草をレイアウトした水槽を熱帯魚ごとレンタルしている会社で、NHKニュース番組の背景になった水が流れるガラスをこまめにメンテナンスするためにこちらに移転してきたとか。セバスチャンはかき氷をベースにしたケーキで有名なお店です。この手前にある丸木屋商店の角打ちはディープな世界でなかなか足を踏み入れることができません。
東京フェニックス
河骨川が宇田川の合流するあたりで、宇田川が渋谷西武A館B館の間を流れて宮下公園あたりで穏田川と合流して渋谷川になること。渋谷川は天現寺橋で笄川と合流して古川になり、東京湾に注いでいることなどを説明しました。会員にラグビー選手の娘さんを持つ女性がいるのですが、東京フェニックスの選手ではないようです。
春の小川看板
河骨川暗渠を歩いているとこの看板をいくつか見ることができます。
小田急線
現在小田急線が走っているところも元は河骨川の川原です。小川と言ってもそこそこの川原を持っていたのでしょう。
小田急線から見える看板
春の小川の碑
春の小川のモデルとなった言われる川はいくつかあって、河骨川もその一つとなっています。
代々木公園参宮橋門
現在の参宮橋は小田急線を越える跨線橋ですが、もともとは河骨川にかけられた橋の名前でした。参宮橋門となっていますが、小田急線参宮橋駅からは800mあり、450mの代々木八幡駅が最寄り駅となります。
代々木公園バードサンクチュアリ
東京オリンピックの選手宿舎
代々木公園内を時計回りに歩いて、原宿門近くに一棟だけ残されている1964年の東京オリンピックの際の選手宿舎を見学です。この建物は選手宿舎として建てられたものではなく、太平洋戦争後、進駐軍のアメリカ軍将校の家としてワシントンハイツに建てられたものを流用しています。いろいろな意味で貴重な資料だと思うのですが、あまり紹介されることはないようです。
この後先週に引き続き串カツ田中へ。今回は百軒店店でなく神泉店を利用させてもらいました。しかも先週の6名からボリュームアップで14名。この人数で来店されると手が回らなくなるところが多く、なかなか悩ましいです。ゆっくり串カツを楽しみ、大いに酔っぱらいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
真夏の空気が一気に乾いた秋の空気に代わり、熱帯夜から解放された週末のウォーキングで24名くらい参加者がいたでしょうか?この日のウォーキングも盛況でした。
東大駒場一号館
駒場博物館前のヒマラヤスギ
学内のイタリアントマト
井の頭線駅改札に集合し、東大駒場正門前に移動してストレッチを行います。学内では何か試験が行われていたらしく、守衛さんから「静かに通行してください」とお願いされ、正門から裏門まで静かに歩いて山手通りに出ました。
三田用水
三田用水の暗渠化が始まったのが昭和4年ということですが、さすがに当時の様子とは違っているものと思われます。茶屋坂隧道がなくなるなど、三田用水の遺構が徐々になくなる中、看板も無く扱いが軽いですね。
ヤマザキカレッジ
鍋島松濤公園
Wikipediaから引用してみましょう。
元々当地一帯は江戸時代には紀州徳川家の下屋敷があったところで、1876年(明治9年)に佐賀の鍋島家に払い下げられた。鍋島家は当地に茶園を開いて「松濤園」と名付け、「松濤」という名で茶の販売も行っていた。1932年(昭和7年)になると茶園は廃止され、湧水池のある一角が児童遊園として整備され、1932年(昭和7年)に東京市に寄贈された後、1950年(昭和25年)からは渋谷区に管轄が移されて現在に至っている。
静岡県の牧之原台地を開墾して茶畑にしたのは旧幕臣であったというドキュメンタリー番組を見て、士族を救済するための茶業は一般的だったのだなぁと思いました。
黒船来航が1853年で、その翌年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約に調印しています。1868年の輸出額割合は生糸の40%に対し、茶は23%でした。1875年(明治8年)の輸出額割合は生糸35%に対し、茶38%と茶の輸出額が逆転しています。日露戦争開戦後の1905年となると茶3%、生糸23%、絹織物12%と茶の輸出はインドやセイロンに負けて下火となってゆきました。
宇田川緑道
宇田川は渋谷川の支流で、1964年の東京オリンピックの際の下水需要の急増により暗渠化されました。あのオリンピックがなければ今でもボットントイレ、ということはなかったと思いますが、水洗トイレの普及はもっと遅れていたことでしょう。
光子館
SENSUOUS
セバスチャン
緑道沿いにある光子館は着ぐるみを作る会社でテレビ業界では有名なようです。SENSUOUSは熱帯魚屋さんというより、水草をレイアウトした水槽を熱帯魚ごとレンタルしている会社で、NHKニュース番組の背景になった水が流れるガラスをこまめにメンテナンスするためにこちらに移転してきたとか。セバスチャンはかき氷をベースにしたケーキで有名なお店です。この手前にある丸木屋商店の角打ちはディープな世界でなかなか足を踏み入れることができません。
東京フェニックス
河骨川が宇田川の合流するあたりで、宇田川が渋谷西武A館B館の間を流れて宮下公園あたりで穏田川と合流して渋谷川になること。渋谷川は天現寺橋で笄川と合流して古川になり、東京湾に注いでいることなどを説明しました。会員にラグビー選手の娘さんを持つ女性がいるのですが、東京フェニックスの選手ではないようです。
春の小川看板
河骨川暗渠を歩いているとこの看板をいくつか見ることができます。
小田急線
現在小田急線が走っているところも元は河骨川の川原です。小川と言ってもそこそこの川原を持っていたのでしょう。
小田急線から見える看板
春の小川の碑
春の小川のモデルとなった言われる川はいくつかあって、河骨川もその一つとなっています。
代々木公園参宮橋門
現在の参宮橋は小田急線を越える跨線橋ですが、もともとは河骨川にかけられた橋の名前でした。参宮橋門となっていますが、小田急線参宮橋駅からは800mあり、450mの代々木八幡駅が最寄り駅となります。
代々木公園バードサンクチュアリ
東京オリンピックの選手宿舎
代々木公園内を時計回りに歩いて、原宿門近くに一棟だけ残されている1964年の東京オリンピックの際の選手宿舎を見学です。この建物は選手宿舎として建てられたものではなく、太平洋戦争後、進駐軍のアメリカ軍将校の家としてワシントンハイツに建てられたものを流用しています。いろいろな意味で貴重な資料だと思うのですが、あまり紹介されることはないようです。
この後先週に引き続き串カツ田中へ。今回は百軒店店でなく神泉店を利用させてもらいました。しかも先週の6名からボリュームアップで14名。この人数で来店されると手が回らなくなるところが多く、なかなか悩ましいです。ゆっくり串カツを楽しみ、大いに酔っぱらいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
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