すこやか歩こう会で企画を担当していて、二か月に一度8コースを選定した「歩行計画」を作成します。すこやか歩こう会のウォーキングは前任の企画委員から「いろいろなところを歩く」ことを特徴としており、私が担当することになった時に二つ方針を立てました。
1. 二か月8回はすべて異なるコースとする
2. 8回のうち一回は初めて歩くコースとする
“1”はこれまでずっと守ってきており、“2”については可能な限り実施してきました。初めて歩くコースは私が下見をしているので、ルート地図を作成し各会員の手元に届けてありますが、誘導をしないと計画した通りのコースを歩くのは難しいです。
今度の日曜日はその初めて歩くコースを企画しているのですが、私は別の所用が発生し歩くことが出来なくなりました。そこで歩行誘導員のおひとりにお願いをして、今回のコース確認を実施することになりました。
八幡大神社
御神木 スダジイ
三鷹市下連雀にある神社です。お隣の禅林寺に太宰治の墓があり行って見たかったのですが、意外と時間がかかりそうで見ることはできませんでした。
八幡大神社御由緒
後西天皇明暦三年正月十八日、江戸本郷の本妙寺から出火した火事は折からの強風で大火となり、江戸城の天守閣をはじめ外堀内堀のほとんどを焼き尽くし、死者十万人ともいわれる大災害をもたらした。「明暦の大火」俗に「振袖火事」と言い伝えられている。江戸幕府は被災地町内外の整備を計り、火除地となる地域の住民に住宅の再建を許さず、罹災者に対する対策として新田開拓農民となることを奨励代替地を供与した。
今から三百五十五年前、時に後西天皇万治元年、神田連雀町の一部住民二十五人衆とその家族は「茅場千町野」といわれていた現在のこの三鷹の土地を与えられ新田開拓農民となって移住してきたのである。これが今日の下連雀の始まりである。「下連雀」の地名の由来は故郷「神田連雀町」をとって名付けられ、当初「連雀新田」と称したが、寛文四年「連雀村」に改められ、更に武蔵野に新田が数多く成立するに及んだ享保年間「下連雀村」となった。
霊元天皇寛文四年、連雀村の名主松井治兵衛は村の年寄、組頭等と村つくりの精神的また地縁的中心と仰ぐ「氏神社」の御創建について相議り連署を以て幕府に請願したところ、時の老中松平伊豆守は、代官野村彦太夫に検地を命じて現在のこの社地(約壱万坪)を除地と定め鎮守八幡大神社の創建を許可した。
こうして下連雀村の二十五人衆は氏神社を奉斎し、心の拠りどころとして村つくりに励んだのである。
棟札によると中御門天皇享保十年八月社殿の改築が行われ、次いで仁孝天皇弘化元年八月再建がなされた。現在の社殿は昭和天皇昭和三十五年八月に造営されたものである。
明治四年の太政官布告によって「村社」に列せられたが戦後昭和二十七年「宗教法人」となり、下連雀の守護神として地域住民の厚い信仰心に依って発展し、年中の祭祀が行われ今日に伝えられている由緒ある神社である。
一、御祭神 応神天皇
一、例大祭 九月第二日曜日
下連雀開村三百五十年 平成二十四年九月吉日
宗教法人 八幡大神社
新川丸池公園の紅梅
白梅
新川丸池公園の池
この池は一見凍結しているように見えたのですが、ごみが浮いているだけでした。
カワウ
チュウサギ
カワウは頭が白くて変わった色だなぁと思ったら、婚姻色のようです。このあたりではコサギ、チュウサギがたくさん見られます。写真には撮らなかったけどカモや鯉もたくさんいます。
カワセミ
中央高速の下をくぐった先、三鷹市新川あたりでカワセミを見かけました。コンデジでは狙った瞬間を撮影することは難しいので、こんなシーンがよく撮れたものだと思います。
カワセミ
この写真は左の方でカワセミが飛び込んだ様子が映っています。これ見逃すと何の写真だかわからないからね。
この後京王線仙川駅まで歩き、コース確認を終了しました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
1. 二か月8回はすべて異なるコースとする
2. 8回のうち一回は初めて歩くコースとする
“1”はこれまでずっと守ってきており、“2”については可能な限り実施してきました。初めて歩くコースは私が下見をしているので、ルート地図を作成し各会員の手元に届けてありますが、誘導をしないと計画した通りのコースを歩くのは難しいです。
今度の日曜日はその初めて歩くコースを企画しているのですが、私は別の所用が発生し歩くことが出来なくなりました。そこで歩行誘導員のおひとりにお願いをして、今回のコース確認を実施することになりました。
八幡大神社
御神木 スダジイ
三鷹市下連雀にある神社です。お隣の禅林寺に太宰治の墓があり行って見たかったのですが、意外と時間がかかりそうで見ることはできませんでした。
八幡大神社御由緒
後西天皇明暦三年正月十八日、江戸本郷の本妙寺から出火した火事は折からの強風で大火となり、江戸城の天守閣をはじめ外堀内堀のほとんどを焼き尽くし、死者十万人ともいわれる大災害をもたらした。「明暦の大火」俗に「振袖火事」と言い伝えられている。江戸幕府は被災地町内外の整備を計り、火除地となる地域の住民に住宅の再建を許さず、罹災者に対する対策として新田開拓農民となることを奨励代替地を供与した。
今から三百五十五年前、時に後西天皇万治元年、神田連雀町の一部住民二十五人衆とその家族は「茅場千町野」といわれていた現在のこの三鷹の土地を与えられ新田開拓農民となって移住してきたのである。これが今日の下連雀の始まりである。「下連雀」の地名の由来は故郷「神田連雀町」をとって名付けられ、当初「連雀新田」と称したが、寛文四年「連雀村」に改められ、更に武蔵野に新田が数多く成立するに及んだ享保年間「下連雀村」となった。
霊元天皇寛文四年、連雀村の名主松井治兵衛は村の年寄、組頭等と村つくりの精神的また地縁的中心と仰ぐ「氏神社」の御創建について相議り連署を以て幕府に請願したところ、時の老中松平伊豆守は、代官野村彦太夫に検地を命じて現在のこの社地(約壱万坪)を除地と定め鎮守八幡大神社の創建を許可した。
こうして下連雀村の二十五人衆は氏神社を奉斎し、心の拠りどころとして村つくりに励んだのである。
棟札によると中御門天皇享保十年八月社殿の改築が行われ、次いで仁孝天皇弘化元年八月再建がなされた。現在の社殿は昭和天皇昭和三十五年八月に造営されたものである。
明治四年の太政官布告によって「村社」に列せられたが戦後昭和二十七年「宗教法人」となり、下連雀の守護神として地域住民の厚い信仰心に依って発展し、年中の祭祀が行われ今日に伝えられている由緒ある神社である。
一、御祭神 応神天皇
一、例大祭 九月第二日曜日
下連雀開村三百五十年 平成二十四年九月吉日
宗教法人 八幡大神社
新川丸池公園の紅梅
白梅
新川丸池公園の池
この池は一見凍結しているように見えたのですが、ごみが浮いているだけでした。
カワウ
チュウサギ
カワウは頭が白くて変わった色だなぁと思ったら、婚姻色のようです。このあたりではコサギ、チュウサギがたくさん見られます。写真には撮らなかったけどカモや鯉もたくさんいます。
カワセミ
中央高速の下をくぐった先、三鷹市新川あたりでカワセミを見かけました。コンデジでは狙った瞬間を撮影することは難しいので、こんなシーンがよく撮れたものだと思います。
カワセミ
この写真は左の方でカワセミが飛び込んだ様子が映っています。これ見逃すと何の写真だかわからないからね。
この後京王線仙川駅まで歩き、コース確認を終了しました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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