目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第17回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク実踏

2019-06-12 09:17:49 | ウォーキング
以前にもお知らせしている通り11月3日に500人を集めて皇居から目黒まで歩く通称「お鷹狩りウォーク」を目黒区主催、目黒ウォーキング協会主管で実施します。ショートコースを設定するので500人全員が皇居から歩くわけではありませんが、この企画は2003年江戸開府400年を記念する事業として始まり現在まで続いています。
江戸時代の目黒は武蔵国に属する江戸への野菜供給地であり、江戸庶民の日帰り観光地でもありました。現代のイメージでいうと高尾山や千葉県の大多喜くらいのイメージでしょうか。筍の供給地でもあったし。徳川将軍が目黒に来る目的は鷹狩りです。その鷹狩りを再現する意味を込めて、皇居(今回は日比谷公園)から目黒まで隊列を組みマーチ形式でウォーキングするイベントです。実行委員が誘導するマーチ形式なので、フリーウォークでは設定できないような普段通ることの無い道を歩くことができるのがお鷹狩りウォークの魅力です。

昨年まで16回、幸いなことに中止になるほどの雨にあうこともなく実施してきましたが、同じコースを歩いたことは一度もありません。近年は協会事務局が作成したコース案を実行委員が「実踏」と称し実際に歩いて評価しコースを決定しています。この日は40名弱の実行委員がお鷹狩りのロングコースを実踏しました。



日比谷公園雲形池

アカンサス
日比谷公園健康広場に集合し、コース案の説明、ストレッチをしてスタートしました。日比谷公園を帝国ホテル方面へ抜けることが多いのですが、今回はあまり通ることがない雲形池を見ることにします。松本楼についてWikipediaから引用します。
概要
1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた 小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンした。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には「東京料理店番付」で西の関脇に選ばれたほどだった。
日比谷公園が日比谷焼打事件など、度々政治活動の舞台となっていたこともあり、大正初期の第一次護憲運動ではバルコニーから憲政擁護の演説が行われた。
1923年に関東大震災により焼失。その後バラック住宅から復活し、これを機に小坂光雄が2代目社長となる。梅吉はその後1936年に貴族院議員に当選している。太平洋戦争に突入するまで、引き続き人気のあるレストランとして日比谷公園の顔になった。
しかし1942年に東京に空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年2月、遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となった。終戦後には進駐してきたGHQの宿舎として接収され、約7年にわたり営業できない日々が続いた。1951年11月にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切る。
その後も日比谷公園で営業を続けていたが、1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し(日比谷暴動事件)、その中で中核派の投げた火炎瓶の直撃を受け、2代目建物も焼失の憂き目にあう。3代目松本楼のオープンは1973年9月26日と再建に約2年を要した。これを機に10円カレーが始まる(後述)。
3代目建物には結婚披露宴会場、大小の宴会場やフランス料理コースの個室など、様々なニーズに応えた設備も登場。2度の焼失にあいながらも1983年には創業80年記念に1日店長として森繁久弥を迎え、2003年には創業100年を迎え、現在に至っている。
第二次世界大戦前には、日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボース、また2008年には中華人民共和国の胡錦濤国家主席も来店した。文学の面では高村光太郎の智恵子抄をはじめ、夏目漱石、松本清張などの作品にも松本楼が舞台として登場し、時代を超えて公園の象徴的存在の一つであり続けている。毎年4月2日には高村光太郎の忌日「連翹忌」の集いが行われている(1999年の第43回から、松本楼に会場が移された)。

10円カレー
1971年の2度目の焼失では、警備員1人が犠牲になるなど被害も大きかった。歴史あるレストランが焼失したこの知らせに全国から再興の願いが集まり、3代目松本楼がオープンできた。これに感謝の意を示す記念行事として、松本楼は「10円カレー」セールを始めた。通常は880円(2015年時点)のハイカラビーフカレーが、1973年以来毎年9月25日に限り、先着1500名に限り10円で振る舞われ、現在も毎年この日には大勢の来客があり、度々ニュースでも取り上げられている。10円を受け取るのは「無料ではお客様としてもてなすことにならない」という趣旨であり、代金以外に寄付金を置いていく人が多い。カレーの売上や寄付金は交通遺児育英会や日本ユニセフ協会などに渡され、1995年には阪神淡路大震災の義援金として贈られた。「10円カレー」は秋の季語にもなっている。

本店
1階は洋食レストラン「グリル&ガーデンテラス」、3階はコース料理が主の仏蘭西料理レストラン「ボア・ド・ブローニュ」、2階と3階は個室・宴会場として営業。

支店
東京都に6店、横浜市に1店、さいたま市に1店が営業中。
 有明 (東京ビッグサイト北コンコース1階) - カフェテリア式
 本郷 (東京大学工学部2号館1階)
 目白 (学習院大学目白キャンパス中央教育研究等12階)
 西池袋 (立教大学池袋キャンパス内セントポールズ会館1階)
 若松河田 (東京女子医科大学病院総合外来センター3階)
 三鷹 (杏林大学医学部付属病院外来棟6階)
 横浜 (相鉄ジョイナス地下1階)
 大宮 (大宮ルミネ2 4階)

エピソード
現在の取締役副社長である小坂文乃の曾祖父・梅屋庄吉(日活の前身のひとつであるM・パテー商会の創業者)が孫文と交流があった。


その他今回見たものについて引用します。
首かけイチョウ
首かけイチョウ(くびかけイチョウ)は、東京都千代田区の日比谷公園内に生育するイチョウの巨木である。樹齢は推定で400年以上とされ、かつての生育場所は現在の日比谷交差点付近であった。1901年(明治34年)、日比谷通りの拡幅工事に伴って伐採されようとしていたこの木を、本多静六(日比谷公園の設計者として知られる)が「私の首をかけよう」と強く主張して救ったのがその名の由来である
1971年(昭和46年)11月19日、すぐそばにあるレストラン「松本楼」が過激派組織が投げた火炎ビンの被害を受けて全焼した際に、この木も類焼して黒焦げになった。それでも翌年春には新芽を吹いて回復の兆しを見せ、火災で受けたダメージから無事に蘇った。日比谷公園内ではもっとも幹周の太い木であり、公園を代表する樹木として人々にも親しまれている。しばしば「首賭けイチョウ」とも表記される。
引用元:Wikipedia

石橋
 この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
 素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせています。

馬の水飲み
 日比谷公園開設当時(明治36年)の照明灯(アーク灯)と、同じデザインで作られた鋳鉄製の水飲みです。陸上交通の重要な部分をになっていた馬が、水を飲んだといわれています。

京橋の欄干柱
 この石柱は、明治8年(1875)築造された京橋の欄干柱(らんかんばしら)で、大正11年(1922)架け替えの際にここに移されたものです。
 当時は、橋名を刻んだ親柱もありましたが、昭和9年(1934)京橋の橋台地が整備されたときそちらへ移されました。

雲形池
 心字池と共に日比谷公園開園当時からの面影を残すドイツ風庭園様式の池です。池内には、はばたく姿の『鶴の噴水』が置かれ、緑に覆われた静けさの中で、心地よい水音を響かせています。冬になると、その広げた翼からいくつものつららが下がり、その姿は公園の冬の風物詩になっています。

鶴の噴水
 この噴水は、明治38年頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。
 ちなみに1番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪箕面公園
 当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。
引用元:http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp


日比谷公園を霞門から出て「東京都道301号白山祝田田町線」を南南西方面へ向かいます。この通り、地図上でも様々な名称となっており面白いですが、何が正式なのかわからないとので、この部分は祝田通りとしておきましょう。外堀通り交差点から南は愛宕通りとなっており、休日のビジネス街は人が少なく歩道が広いこの通りはとても歩きやすいです。ただ、交差点ごとに信号待ち。


虎ノ門ヒルズ

愛宕山NHK放送博物館
御成門中学の交差点は歩行者用の横断歩道がなく、歩道橋を避けて東へ向かい日比谷通りの信号を渡って、芝公園に入り一度目のトイレ休憩です。ここまで30分でトイレ休憩には早いのですが、あとのことを考えるとここを利用するのが賢明でしょう。この芝公園はショートコースのスタート地点に予定しており、開会式の時間的制約を考えなくてはなりません。


芝公園より東京タワー
再スタート後は御成門を見て改修中の二天門、増上寺三解脱門、台徳院霊廟惣門の前を通り港区立芝公園へ向かいます。三解脱門についてWikipediaから引用します。
三解脱門(さんげだつもん、重要文化財) - 戦災を免れた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

プリンス芝公園で平和の灯を見て、芝丸山古墳を下から眺めてからプリンス芝公園の広々とした庭を歩きます。これらも引用します。
平和の灯
平成17年8月15日、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経ちました。これを記念し、区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。
引用元:港区のホームページ

芝丸山古墳
築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。
1892年(明治25年)、3年間の欧州留学を終えた自然人類学者坪井正五郎は日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じた。翌年の1893年(明治26年)に坪井が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見した。しかし遺構らしいものは確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できなかった。
1979年(昭和54年)3月31日に東京都指定史跡に指定された。
引用元:Wikipedia



高輪皇族邸
赤羽橋から桜田通りを南下し、聖坂を上ります。亀塚公園、御田小学校前、伊皿子を通り、高輪皇族邸を過ぎたところで右に曲がり北西へ進路を変えます。このあたりも引用してみましょう。
聖坂(ひじりざか)は東京都港区三田四丁目にある坂。田町側から上ると内陸側に、三田中学校、クウェート大使館、阿含宗関東別院が存在し、同方角から潮見坂、幽霊坂から注ぎ込む形で交差し、海側に済海寺、亀塚公園、御田八幡神社が存在する。そのまま進むと伊皿子坂と魚籃坂からなる道路と交差して二本榎通りと名称を変える。

名称の由来
高野聖が開いた古代中世の通行路で、その宿所も同所に存在したためこの名称が付けられたとされる。「竹芝の坂」もしくは「竹芝坂」とも呼ばれた。

歴史
本道は古奥州街道にあたり、江戸が開府して東海道が開かれるまで、東国と西国を結ぶ主要道路であった。江戸時代まで坂は斜面ではなく緩やかな階段状を成していた。この階段の存在は『江戸名所図会』によっても確認することが可能である。
引用元:Wikipedia

亀塚公園(かめづかこうえん)は、東京都港区三田四丁目16番20号にある児童公園。隣に済海寺が、また敷地内に亀塚公園前交番(三田警察署管内)がある。 

名称の由来
亀塚の名称の由来は複数伝えられている。
 円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
 竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。

歴史
縄文時代の住居跡が発掘されている。
江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守、下屋敷で明治維新後は皇族華頂宮家が日本橋浜町の元諏訪藩邸跡から本所に移る。大正13年同宮家断絶後は一時期内大臣邸となったが昭和8年建物は壊され、昭和20年には空襲により庭園は破壊される。その後公園として整備され昭和27年11月3日港区立亀塚公園として開園するに至る。

今日の姿
円墳上部には登ることができ、かつてはそこから360度の方角で東京全体を展望できたが(昭和30年代までは房総半島を視認することが出来たとのこと)、現在は御田八幡神社側に樹木が生い茂り遠望は望めない。華頂宮邸時代の外壁はそのまま存在し、公園を取り囲んでおり独特の雰囲気を醸し出している。
公園内にあるフラーレン型の遊戯具はもともと御田小学校内に敷設されていたものだが、昭和40年代に同所に移設されたものである。公園の南西部のフリー・スペースは、元は防衛庁の官舎群が存在したが、港区に払い下げられ、その維持・管理については地域住民が計画初期から参画するワークショップ方式が採用され運営されている。そうした試みにもかかわらず現在、平日では公園で遊んでいる子供の姿は殆ど見られず閑散としている。
引用元:Wikipedia

伊皿子坂(いさらござか)は、東京都港区三田四丁目、高輪二丁目の間に存在する坂。

地形
泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。

名称の由来
およそ1600年頃に、来日した明人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる。
明国人「伊皿子」の墓所は高輪の浄土真宗本願寺派正源寺にある。
引用元:Wikipedia

高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)とは、東京都港区高輪にある宮内庁管轄の施設。大正時代に東宮御所が置かれ、戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年(昭和6年)から2004年(平成16年)まで高松宮宣仁親王(1987年薨去)と宣仁親王妃喜久子の住まいだった。

歴史
宣仁親王は8歳で「高松宮」の宮号を下賜されたあとも引き続き、1904年(明治37年)築の青山東御殿(皇子御殿、明治時代は『皇孫御殿』と通称)に住まい、1922年に威仁親王妃慰子が薨去したあとは東京市麹町区三年町(現・東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を継承した。
昭和に入り、三年町の本邸が外務大臣官邸に転用されることに伴い、高松宮邸は芝区高輪西台町(現・港区高輪一丁目)の高輪御殿(高輪御所)に移転した。高輪御殿は熊本藩細川家の下屋敷跡地の一部で、1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1915年(大正4年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王の東宮御所だった。
高松宮邸となった高輪御殿には1931年(昭和6年)、宮内省内匠寮の設計による洋風の本館と和館が竣工。本館の外観はチューダー様式、内装は折衷様式とし、1階は公室として謁見室、大食堂、新食堂(茶会・晩餐会用)などが、2階は私室として殿下御書斎、妃殿下御居間などが設けられた。また庭園には神殿(有栖川御霊殿。戦後、近江神宮に移築)を鎮座した。
幸い、太平洋戦争の空襲被害には遭わなかったが、広大な敷地は戦後、財産税物納のため半分に縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪一丁目アパートなどが建てられた。
また本館は1949年(昭和24年)、貿易庁の迎賓施設「光輪閣」として改装。かつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史を支配人に据え、連合国軍最高司令官総司令部の高官や大公使などを接待したり結婚披露宴を催す施設に転用された。夏季は、邸内のプールを近隣の子供たちに開放した時期もあった。
光輪閣を出た宣仁親王夫妻は木造平屋建ての和館で起居していたが、光輪閣は老朽化で1972年(昭和47年)に解体され、翌年、跡地に再び鉄筋コンクリート造平屋建の宮邸本館を建設。2004年(平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。

宣仁親王及び宣仁親王妃喜久子薨去後
現在、宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。職員住宅が建てられていた敷地南東部の約1,800平方メートルは喜久子妃薨去後に払い下げられ、住友不動産が2007年(平成19年)、高級分譲賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居し、事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている(非公開)。
また、高松宮は有栖川宮から翁島別邸(福島県耶麻郡翁島村他)・葉山別邸(神奈川県三浦郡葉山村)と麻布御用地(東京市麻布区、現在の東京都港区麻布盛岡町他)を引き継いだが、麻布御用地は間もなく東京市に払い下げられ、有栖川宮記念公園として整備された。翁島別邸も1952年(昭和27年)に福島県に払い下げられ、現在は天鏡閣および福島県迎賓館として公開されている。葉山別邸のみ昭和後期まで継続して保有されたが、宣仁親王の薨去に伴う相続税支払いのため、喜久子によって金融機関へ売却された。跡地には現在、神奈川県立近代美術館・葉山館が建設されている。他には、1933年(昭和8年)に宮ノ下御用邸を取得して宮ノ下別邸として所有していた。この別邸は1946年(昭和21年)に富士屋ホテルへ譲渡、同ホテルの別館「菊華荘」として現存する。西園寺公望の別荘であった坐漁荘も一時期高松宮が所有していた。

今後の予定
2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位し上皇となった事に伴い、仙洞御所(従来の東宮御所を2019年(平成31年)5月1日に即位した第126代天皇の赤坂御所として使用した後に、天皇一家が皇居内の吹上御所に移転後に改修の上で改められる予定)が整備されるまでの間、仙洞御所の假寓「仙洞仮御所」として、当地が使用される。仙洞御所の整備が終わってからは、これまで赤坂東邸が担ってきた皇族共用の邸宅として使用される方針としている。
引用元:Wikipedia


高輪皇族邸近くにある「大石良雄外十六人忠烈の跡」をWikipediaから引用します。
大石良雄外十六人忠烈の跡(おおいし よしお ほか じゅうろくにん ちゅうれつの あと)は東京都港区高輪にある旧跡で、かつては肥後熊本藩江戸下屋敷がここにあった。

概要
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税良金ら十士切腹の地がある。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれている。
浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺(曹洞宗)に葬られている。12月13・14日には義士祭が催されている。この碑は平成10年(1998年)に東京都港区教育委員会によって設置された。

自刃した義士
  1.大石内蔵助(良雄)
  2.吉田忠左衛門(兼亮)
  3.原惣右衛門(元辰)
  4.片岡源五右衛門(高房)
  5.間瀬久大夫(正明)
  6.小野寺十内(秀和)
  7.間喜兵衛(光延)
  8.礒貝十郎左衛門(正久)
  9.堀部弥兵衛(金丸)
 10.近松勘六(行重)
 11.富森助右衛門(正因)
 12.潮田又之丞(高教)
 13.早水藤左衛門(満尭)
 14.赤埴源蔵(重賢)
 15.奥田孫太夫(重盛)
 16.矢田五郎右衛門(助武)
 17.大石瀬左衛門(信清)


旧細川邸のシイについてもWikipediaから引用します。
旧細川邸のシイ(きゅうほそかわていのしい)とは港区に存在する東京都指定天然記念物である。 東京都港区高輪の旧熊本藩細川家下屋敷に植えられていたスダジイであり、現在も当時のまま残っている。
東京都教育委員会の提示した説明によれば、樹高10.8メートル、幹周り8.13メートル、枝張りは東に6.7メートル、西に2.7メートル、南に5.56メートル、北に5.8メートルを測るとのことである。



旧公衆衛生院
港区高輪コミュニティぷらざでトイレ休憩をとりました。ひとグループ程度がトイレ休憩をとるにはよい場所ですが、複数のグループがたまらないよう工夫したいと思います。再び桜田通りを歩き、目黒通りに折れて日吉坂を上ります。日吉坂上にある港区の複合施設「ゆかしの杜」でトイレ休憩をとりました。Wikipediaから国立公衆衛生院の項目を引用します。
国立公衆衛生院(こくりつこうしゅうえいせいいん、The Institute of Public Health)は2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関であった。
公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府への寄贈である。援助額は当時のお金で総額350余万ドル。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している。
2002年(平成14年)4月1日付けで組織が改組され、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法により現在は埼玉県和光市に移転している。
旧建物は文化財的価値から保存され、ゆかしの杜として2018年にオープンした。


公衆衛生院を設計した内田祥三元東京帝国大学総長の設計した建物は目黒区内に多く残り、目黒区にゆかりの深い方でした。元総長についてWikipediaから引用します。
内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 1972年12月14日)は、日本の建築学者、建築家。元東京帝国大学総長。

人物
東京帝国大学建築学科で構造計算法と鉄骨および鉄筋コンクリートの講義を担当。佐野利器の建築構造学を引き継ぐ形で発展させ、建築構造、防災、都市計画、文化財修復など数多くの分野に業績を残すとともに、東京帝国大学営繕部長も兼務し、多くの後進を育てた。
関東大震災(1923年)後の東京帝大構内の復旧を主導。正門から続く銀杏並木などキャンパスに明快な軸線を導入し、「内田ゴシック」といわれるデザインパターンの建物を数多く建設した。
1943年に東京帝国大学総長に就任。平賀の死後、興亜工業大学(現・千葉工業大学)顧問を引き継ぎ同大の運営に尽力。敗戦前は、帝都防衛司令部として東京帝大を使用したいという軍部の強硬な申し出を断固として断り、終戦直後にはアメリカ軍が連合国軍総司令部、第8軍司令部として東大を接収要求した際に、各方面に働きかけて止めさせる。
代表作は東京大学本郷地区キャンパスの東京大学大講堂(安田講堂)である(震災前に着工し、1925年竣工。弟子岸田日出刀との共同設計)。
子に内田祥文、内田祥哉がいる。娘の美柯は弟子の松下清夫に嫁いだ。
東大サッカー部「アソシエーション式蹴球部」の部長を務めていた。

略歴
 1885年 東京深川に生まれ。4歳の時に父を亡くす。
 1901年 旧制開成中学を卒業、旧制第一高等学校に入学。
 1904年 東京帝国大学工科大学建築学科入学。在学中に三菱ビジネス街で建築実習。
 1907年 同大学建築学科卒業(共に市街地建築物法の起草に関わった笠原敏郎は同期)。三菱合資地所部(現三菱地所)に入社し、13号館などオフィスビル等の建設に従事。
 1910年 東京帝国大学大学院に進む。佐野利器の下でコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究。
 1911年 同大学講師(嘱託)、陸軍経理学校講師。
 1916年 東京帝国大学助教授。
 1918年 論文「建築構造特に壁体および床に関する研究」で工学博士号を授与される。
 1921年 同大学工学部教授。
 1923年 同大学営繕課長を兼務、関東大震災後のキャンパス復興を指導。
 1924年 財団法人同潤会理事(中之郷アパートを設計)。
 1935年 日本建築学会会長を務める。
 1943年 東京帝国大学第14代総長(1945年12月まで)。
 1972年 文化勲章を受章。


休憩後自然教育園裏の港区、品川区、渋谷区の三区界を見て、その先の目黒区、品川区、渋谷区の三区界を見て、目黒区渋谷区の境をウエスティンホテル方面へ上ります。ガーデンプレイス側に横断し、恵比寿神社の前を通り、そのあとはおなじみのサッポロビール本社前を通り、恵比寿南橋を渡り、茶屋坂を通り、田道ふれあい橋でストレッチを行い実踏は終了。実行委員会でコースの承認を得て、第17回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークロングコースが決定しました。

打上げのライオンで三角くじを当てまくり、伊勢五本店、ONCEとはしごしてかなり飲みすぎたのは反省材料でした。6月23日にショートコース実踏を行います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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