柏市に住む大学時代の友人から「大堀川にサケが遡上する」という話を聞いて、見てみたいものだと思いました。ネットで調べると鮭の遡上に関する記事が散見されます。
https://www.youtube.com/watch?v=7wVwhhPDfek
大堀川沿いを歩いて、農産物直売所「かしわで」をゴールとするコースを考え地図を見ていると、手賀沼からのコースがよさそうです。下見の時にも引用した記事などを再度引用して、知っているようで知らない手賀沼、柏の歴史を見てみることにしましょう。
我孫子駅前八坂神社
中目黒に集合して中目黒→日比谷線→霞ヶ関→千代田線・常磐線各駅停車→我孫子と乗り継いでやってきました。距離は長いのですが、ほぼ座れるので楽勝です。八坂神社の脇を通り、手賀沼へ下ってゆきます。
手賀沼
水鳥やカモメ
葭原と手賀沼
10分もかからず手賀沼に到着し、公園の四阿でストレッチをしました。三日前の天気予報まで傘マークが出ていたのですが、この日は晴天になりました。斜めからさす秋の陽はまぶしくて、結構暑い。皆さん厳重に着込んできた防寒具を次々と脱いでゆきました。半袖Tシャツくらいがちょうどいいかな。
Wikipediaから手賀沼の歴史の一部を引用します。
享保12年(1727年)、江戸幕府(八代将軍徳川吉宗)は勘定吟味役であった井沢弥惣兵衛為永の建議で沼全体の干拓を計画し、江戸町人の高田茂右衛門友清に工事を着手させたが、その後工事計画を変更。沼を上・下に分け、中央に千間堤(浅間堤)を築き、下部のみを干拓した。これにより、約200町歩の新田が拓かれたが、上部沿岸の村々は排水不良となり、毎年のように洪水の被害を受けた。元文3年(1738年)に千間堤は決壊し、新田は水没。その後、老中田沼意次や水野忠邦の時にも干拓の努力は続けられたが、洪水と老中失脚とにより成功しなかった。
当時の手賀沼はカモなどの水鳥やコイ、ウナギなどの魚介類に恵まれ、特に水鳥とウナギは江戸の人々に美味として珍重されていた。現在でも我孫子市内には江戸時代から続くウナギ屋や、コイやフナ料理の店が多い。
中略
大正時代、湖畔には志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は白樺派ゆかりの地であった。
干拓事業の2年前の1944年(昭和19年)11月22日に、我孫子中央国民学校の教諭・生徒をはじめとした、44名が手賀沼を渡船で横断中、大風に煽られて転覆し、17名の死者を出すという水難事故が発生した(手賀沼の悲劇)。市内には「手賀沼殉教教育者の碑」として、記念碑が建てられている。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)農水省の直轄事業として大規模な干拓事業が再び着手され、1968年(昭和43年)に完成。約500ヘクタールの水田が造成され、沼の面積は著しく減少している。沼では競艇場建設、1964年東京オリンピックボート競技の誘致、手賀沼ディズニーランドの建設などの開発計画が持ち上がったが、いずれも失敗している。
菜種畑?
10月に下見した時はこの場所にヒマワリが植えられていました。今芽を出しているのはひまわりには見えないので、菜種かなぁと想像しています。菜の花と手賀沼の景色もきれいでしょうね。
新田
地図で見ると○○新田という地名がたくさんあり、干拓事業の成果であることがわかります。手賀沼について柏市のページから引用してみます。
手賀沼と開墾
東京に最も近い湖沼
「東京よりわずか一〇里にして、山中的の仙境あるかと驚喜いたし候。手賀沼は印旛沼よりも風致大に優り申し候」明治大正期に、多くの旅行記を描いた文人大町桂月の言葉です。桂月の娘さんが手賀沼沿いの鷲野谷に嫁いでいたため、我孫子から船で手賀沼を渡った時の感想でしょう。
実際には日本橋から7・8里で、足の強い人なら水戸街道を歩いて半日余で呼塚・手賀沼に到達します。江戸時代には、手賀沼周辺からウナギや雑魚・鴨や鶏卵・野菜などが江戸に運ばれ、江戸人の台所を潤してきました。また木下から出た「木下茶船」は八人乗りで、香取・鹿島の三社参りや潮来・銚子までの行楽として江戸人に人気がありました。手賀沼周辺は、成田山と共に最もポピュラーな観光スポットだったのです。また利根川沿いの木下・布佐は銚子九十九里からの魚を運ぶ、鮮魚(なま)街道の荷揚場でもありました。
手賀沼の開墾
鮮魚(なま)街道の要所であり、手軽な観光地として知られた手賀沼は、江戸の商人たちの新田開発の意欲も誘ったようです。江戸初期の寛文一一年(一六七一)、江戸小田原町の海鮮問屋海野屋作兵衛ら十七人の商人による開墾も偶然ではなかったのでしょう。
これ以前には、手賀沼は布佐地先の字川口で、自然の水路で香取の海と結んでいました。高瀬舟も手賀沼に入り込み、平塚河岸や沼最奥端の戸張河岸で陸揚げし、江戸川水系まで、馬の背で運びました。しかし沼と利根川の水位の差はほとんどなく、利根川の水位の上昇はすぐに沼に逆流して洪水となります。このため寛文期には堤を築いて利根川と沼を遮断し、図のような圦樋という逆流止め水門で繋ぎました。高瀬舟は入れなくなりましたが、圦樋 は普段は扉が開いており、ウナギやボラなどは1メートルほどの落差をものともせずジャンプして沼に入り込みます。生態系はこの圦樋 によって保たれていたわけです。 戦後の昭和三十年代まで、手賀沼のウナギが「青」と呼ばれ江戸・東京で珍重されたのはこのためです。江戸時代の中頃には盛んだった鴨猟も、江戸人の贅沢な贈答品として珍重されたようです。
手賀沼のアキレス腱はしかしこの圦樋 にありました。利根川の水位が頻繁に上がるようになると、圦樋 は何日も閉ざされ、沼は内水氾濫に襲われます。時にはこの圦樋 が破壊されたり、堤が切れて沼沿岸は大洪水に見舞われました。排水の可否が手賀沼開墾の死命を決めたのです。
開発は思うように進まず、当初の17人の仲間は、海野屋作兵衛を除いて全員が手賀沼から撤退するという難しい開墾となりました。新田請方は次々と変わって、新しい江戸の商人たちが新田地を購入し、発作に居住して開墾に加わります。
享保の新田開発
享保一二年(一七二七)に始る手賀沼の新田開発は、八代将軍吉宗が呼んだ紀州流の土木巧者井沢弥惣兵衛の設計によって、沼中に千間堤を築いての開墾といわれてきました。しかしこれには疑問が残ります。井沢が手賀沼開墾に加わったという史料は、いずれも半世紀以上も後世のもので、同時代史料にはその形跡はありません。井沢弥惣兵衛は元文三年(一七三八)に死去しますが、二代目の井沢弥惣兵衛(楠之丞)が翌四年から手賀沼新田方として任命されています。父の名を襲名し、事実手賀沼に関わったため混同した可能性があります。
千間堤は、確かに沼中央(布瀬下と中里の間)に築かれたのは事実です。しかしこの千間堤は全く役に立たないまま、数年後享保一九年には洪水で切れ、以後一度も修理される事もありませんでした。
手賀沼の洪水は、利根川からの逆流です。堤が切れなくとも、圦樋 をしめれば内水氾濫が頻発します。沼中央の堤は上流からも、下流からも水が押し寄せ、総越の状態が続き決壊します。誰の設計か解りませんが、手賀沼の事情を知らない人の設計としか言いようがありません。
千間堤が竣工して翌年、享保十五年に検地が行われていますが、これは「検地帳」の表紙に記載されているように、「手賀沼古新田」1500石余の検地です。つまり六十年以前の海野屋作兵衛などの開墾の成果だったのです。千間堤が出来た翌年に検地が出来るはずもありません。吉宗と井沢・高田という紀州トリオによる享保開発は、ほとんどが後に創られた伝説です。残念ながら「千間堤」は、文字どおり「無用の長物」だったというべきでしょう
明治維新以降の手賀沼
薩摩・長州政権(新政府)は、戊辰戦争の戦費を賄った三井などの政商に小金牧の払い下げと手賀沼の開墾も許します。開墾会社が手賀沼は辞退すると、入札に付そうとするなどの動きもありました。この様な動きに地元民と印旛県は、手賀沼の入札をやっとの想いで中止させます。明治十六年には剣豪山岡鉄舟などが仏教の教田として開墾を申し出るなど、手賀沼は争奪のるつぼの様相を示します。しかし排水の困難さは変わらずいずれも成功していません。圦樋 で排水する状況下では限界があったと思われます。利根川との間の堤を堅固にし、機械排水する以外に手賀沼の干拓は無理なことが解ってきたのです。
大正期に手賀沼の一部を堤で囲い、機械排水する相島新田の井上二郎の指導による開墾は一定の成果を上げました。
第二次世界大戦後ふたたび、食糧難と復員者の「食と職」を賄うため、手賀沼の干拓が国の方針となります。印旛沼と共同で東京湾に排水する案が追求されますが、費用の点などで難航し、昭和二十八年やっと手賀沼単独で利根川に機械排水する事が決まります。こうして手賀沼の約半分五百五十ヘクタール余が干拓されたのは、昭和四〇年代に入ってからでした。手賀沼は往時の約半分になりました。折りしも減反政策で、沼周辺の谷津田が埋められ、沼の汚染が問題になり始めます。沼の洪水は克服されましたが、あらたな課題が生まれます。汚染度ワースト一を長く続けた手賀沼も、現在は北千葉導水道によって利根川の水が導水され、少しきれいになってきました。においはなくなり、2006年にはトライアスロンの会場になるなど、沼に人々が戻りはじめています。
北柏ふるさと公園
公園の住人、ハクチョウ
ススキ
公園は手賀沼の西端にあり、大堀川の河口です。この公園自体が干拓により作られた新田で、地図を見ると根戸新田、呼塚新田となっています。
ウォーキングイベントの参加者
この日は「手賀沼ふれあいウォーク2018」が行われていて、黄色いバンダナを目印に参加者がそれぞれのペースで歩いています。手賀沼一周20km、手賀沼大橋を渡る10km、その他4kmのコースが用意されていました。
大堀川
水戸街道の下をくぐる
木崎橋
ここからは大堀川沿いを上流へ向かってゆきます。目を凝らしてサケを探すのですが、サケなのかコイなのか見分けがつきません。冒頭で書いたように大堀川にサケが遡上するという情報は大学時代に友人からもたらされたものです。大堀川の近くに畑を持っていて、大学時代の仲間との「農業体験」を提供してくれる友人です。その畑近くを歩いているとき我々の姿を見つけて、電話をくれました。
高田小学校付近
鮭の遡上について柏市のページから2012年11月15日の記事を引用します。
毎年恒例となった「大堀川の鮭の遡上」。今年も鮭が遡上してきました。
11月14日(水曜日)の午後は、天気が良く、高田小学校付近を散歩していた多くの市民のかたたちが鮭の遡上に見入っていました。
例年、12月ごろまでは見ることができるそう。
水産法令で、市民のかたが鮭を捕獲することは禁止されていますので、温かく見守ってあげてください。また、住宅街の中にあるため、駐車場等はございませんのでご了承ください。
近くでよく見るとサケではなくコイでした。産卵後のサケの死骸なども見られないので、遡上はなかったのかもしれません。
さんち家
この日のゴールは農産物直売所かしわでです。ストレッチをして解散すると、ほとんどの会員さんがさんち家へ食事に行きました。
さんち家について柏市のページから引用します。
柏産の朝採り新鮮野菜が並び、ほぼ午前中でなくなってしまうほどのにぎわいをみせている農産物直売所「かしわで」。
平成16年6月の直売所オープンから12年、柏の農産物のおいしさをもっと多くの人に伝えたいと、今年6月11日に農家レストラン「さんち家(さんちや)」をオープンさせました。
店名には「産地」と「○○さんの家」の意味が込められています。
野菜を知り尽くした地元農家の主婦がシェフを務める「野菜だけ」のこだわりのレストランとなっていて、直売所直営とあって、それぞれの野菜のおいしさを最大限に引き出したメニューを提供。約50種類の料理がビュッフェ形式で楽しめます。
体も心も大満足!ぜひお試しください。
かしわで
稲わら?
かしわでのホームページから引用します。
柏染谷農場・染谷茂氏(TOP画面の田んぼでの写真)を中心とした15名の農家が集まってオープンしたのが「かしわで」です。
平成16年6月にオープンし、5年後の平成21年6月に来客数200万人を突破、平成27年6月で11年目になります。
柏市を中心に千葉県及び近隣の約230名の生産者による農産物がお店に並び、新鮮な野菜を提供しています。
柏の特産品、ねぎ・かぶ(生産量日本一)・ホウレンソウやチンゲン菜(柏で最初の栽培が確率された)をはじめとした各種野菜・果物・お米・花卉が豊富です。
代表の染谷茂、農事生産法人柏みらい農場は休耕地だった土地を開墾して108haもの農地にして、米・麦・じゃがいも・大豆等を作られています。
その農場で作られたお米(コシヒカリ・フサオトメ・フサコガネ)やその米を原料とした日本酒(柏自慢)なども販売されています。
柏みらい農場ではじゃがいも堀りの体験、お店の前にある「かしわで田んぼ」では小学生の植えた稲が穂を実らせています。
「かしわで」は単なる直売所ではなく、農業に関する情報の受発信基地として広く消費者に利用される施設を目指しています。
体験学習をはじめ、学校給食への食材の提供、行政等の農業に関するイベントへ積極的に参加し、さまざまな形による「地産地消」に取り組み、地域への貢献を図っています。
「お客様は直売所に元気をもらいにきているんだ。自然への感謝、お客様への感謝を忘れずに・・・」と染谷は提唱しています。
さんち家のお食事はおいしいですがアルコールの提供がありません。歩いた後のビールを楽しみにしている呑み助にはちょっと残念です。近くの和食レストランでビールを飲みながら、「こっちの方がいいや!」と負け惜しみのようなことを言っていました。さんち家で食事したこともないのに。
手賀沼、大堀川ウォーキングは天候にも恵まれとても楽しい体験でした。季節を変えて、再チャレンジがあるかもしれません。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
https://www.youtube.com/watch?v=7wVwhhPDfek
大堀川沿いを歩いて、農産物直売所「かしわで」をゴールとするコースを考え地図を見ていると、手賀沼からのコースがよさそうです。下見の時にも引用した記事などを再度引用して、知っているようで知らない手賀沼、柏の歴史を見てみることにしましょう。
我孫子駅前八坂神社
中目黒に集合して中目黒→日比谷線→霞ヶ関→千代田線・常磐線各駅停車→我孫子と乗り継いでやってきました。距離は長いのですが、ほぼ座れるので楽勝です。八坂神社の脇を通り、手賀沼へ下ってゆきます。
手賀沼
水鳥やカモメ
葭原と手賀沼
10分もかからず手賀沼に到着し、公園の四阿でストレッチをしました。三日前の天気予報まで傘マークが出ていたのですが、この日は晴天になりました。斜めからさす秋の陽はまぶしくて、結構暑い。皆さん厳重に着込んできた防寒具を次々と脱いでゆきました。半袖Tシャツくらいがちょうどいいかな。
Wikipediaから手賀沼の歴史の一部を引用します。
享保12年(1727年)、江戸幕府(八代将軍徳川吉宗)は勘定吟味役であった井沢弥惣兵衛為永の建議で沼全体の干拓を計画し、江戸町人の高田茂右衛門友清に工事を着手させたが、その後工事計画を変更。沼を上・下に分け、中央に千間堤(浅間堤)を築き、下部のみを干拓した。これにより、約200町歩の新田が拓かれたが、上部沿岸の村々は排水不良となり、毎年のように洪水の被害を受けた。元文3年(1738年)に千間堤は決壊し、新田は水没。その後、老中田沼意次や水野忠邦の時にも干拓の努力は続けられたが、洪水と老中失脚とにより成功しなかった。
当時の手賀沼はカモなどの水鳥やコイ、ウナギなどの魚介類に恵まれ、特に水鳥とウナギは江戸の人々に美味として珍重されていた。現在でも我孫子市内には江戸時代から続くウナギ屋や、コイやフナ料理の店が多い。
中略
大正時代、湖畔には志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は白樺派ゆかりの地であった。
干拓事業の2年前の1944年(昭和19年)11月22日に、我孫子中央国民学校の教諭・生徒をはじめとした、44名が手賀沼を渡船で横断中、大風に煽られて転覆し、17名の死者を出すという水難事故が発生した(手賀沼の悲劇)。市内には「手賀沼殉教教育者の碑」として、記念碑が建てられている。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)農水省の直轄事業として大規模な干拓事業が再び着手され、1968年(昭和43年)に完成。約500ヘクタールの水田が造成され、沼の面積は著しく減少している。沼では競艇場建設、1964年東京オリンピックボート競技の誘致、手賀沼ディズニーランドの建設などの開発計画が持ち上がったが、いずれも失敗している。
菜種畑?
10月に下見した時はこの場所にヒマワリが植えられていました。今芽を出しているのはひまわりには見えないので、菜種かなぁと想像しています。菜の花と手賀沼の景色もきれいでしょうね。
新田
地図で見ると○○新田という地名がたくさんあり、干拓事業の成果であることがわかります。手賀沼について柏市のページから引用してみます。
手賀沼と開墾
東京に最も近い湖沼
「東京よりわずか一〇里にして、山中的の仙境あるかと驚喜いたし候。手賀沼は印旛沼よりも風致大に優り申し候」明治大正期に、多くの旅行記を描いた文人大町桂月の言葉です。桂月の娘さんが手賀沼沿いの鷲野谷に嫁いでいたため、我孫子から船で手賀沼を渡った時の感想でしょう。
実際には日本橋から7・8里で、足の強い人なら水戸街道を歩いて半日余で呼塚・手賀沼に到達します。江戸時代には、手賀沼周辺からウナギや雑魚・鴨や鶏卵・野菜などが江戸に運ばれ、江戸人の台所を潤してきました。また木下から出た「木下茶船」は八人乗りで、香取・鹿島の三社参りや潮来・銚子までの行楽として江戸人に人気がありました。手賀沼周辺は、成田山と共に最もポピュラーな観光スポットだったのです。また利根川沿いの木下・布佐は銚子九十九里からの魚を運ぶ、鮮魚(なま)街道の荷揚場でもありました。
手賀沼の開墾
鮮魚(なま)街道の要所であり、手軽な観光地として知られた手賀沼は、江戸の商人たちの新田開発の意欲も誘ったようです。江戸初期の寛文一一年(一六七一)、江戸小田原町の海鮮問屋海野屋作兵衛ら十七人の商人による開墾も偶然ではなかったのでしょう。
これ以前には、手賀沼は布佐地先の字川口で、自然の水路で香取の海と結んでいました。高瀬舟も手賀沼に入り込み、平塚河岸や沼最奥端の戸張河岸で陸揚げし、江戸川水系まで、馬の背で運びました。しかし沼と利根川の水位の差はほとんどなく、利根川の水位の上昇はすぐに沼に逆流して洪水となります。このため寛文期には堤を築いて利根川と沼を遮断し、図のような圦樋という逆流止め水門で繋ぎました。高瀬舟は入れなくなりましたが、圦樋 は普段は扉が開いており、ウナギやボラなどは1メートルほどの落差をものともせずジャンプして沼に入り込みます。生態系はこの圦樋 によって保たれていたわけです。 戦後の昭和三十年代まで、手賀沼のウナギが「青」と呼ばれ江戸・東京で珍重されたのはこのためです。江戸時代の中頃には盛んだった鴨猟も、江戸人の贅沢な贈答品として珍重されたようです。
手賀沼のアキレス腱はしかしこの圦樋 にありました。利根川の水位が頻繁に上がるようになると、圦樋 は何日も閉ざされ、沼は内水氾濫に襲われます。時にはこの圦樋 が破壊されたり、堤が切れて沼沿岸は大洪水に見舞われました。排水の可否が手賀沼開墾の死命を決めたのです。
開発は思うように進まず、当初の17人の仲間は、海野屋作兵衛を除いて全員が手賀沼から撤退するという難しい開墾となりました。新田請方は次々と変わって、新しい江戸の商人たちが新田地を購入し、発作に居住して開墾に加わります。
享保の新田開発
享保一二年(一七二七)に始る手賀沼の新田開発は、八代将軍吉宗が呼んだ紀州流の土木巧者井沢弥惣兵衛の設計によって、沼中に千間堤を築いての開墾といわれてきました。しかしこれには疑問が残ります。井沢が手賀沼開墾に加わったという史料は、いずれも半世紀以上も後世のもので、同時代史料にはその形跡はありません。井沢弥惣兵衛は元文三年(一七三八)に死去しますが、二代目の井沢弥惣兵衛(楠之丞)が翌四年から手賀沼新田方として任命されています。父の名を襲名し、事実手賀沼に関わったため混同した可能性があります。
千間堤は、確かに沼中央(布瀬下と中里の間)に築かれたのは事実です。しかしこの千間堤は全く役に立たないまま、数年後享保一九年には洪水で切れ、以後一度も修理される事もありませんでした。
手賀沼の洪水は、利根川からの逆流です。堤が切れなくとも、圦樋 をしめれば内水氾濫が頻発します。沼中央の堤は上流からも、下流からも水が押し寄せ、総越の状態が続き決壊します。誰の設計か解りませんが、手賀沼の事情を知らない人の設計としか言いようがありません。
千間堤が竣工して翌年、享保十五年に検地が行われていますが、これは「検地帳」の表紙に記載されているように、「手賀沼古新田」1500石余の検地です。つまり六十年以前の海野屋作兵衛などの開墾の成果だったのです。千間堤が出来た翌年に検地が出来るはずもありません。吉宗と井沢・高田という紀州トリオによる享保開発は、ほとんどが後に創られた伝説です。残念ながら「千間堤」は、文字どおり「無用の長物」だったというべきでしょう
明治維新以降の手賀沼
薩摩・長州政権(新政府)は、戊辰戦争の戦費を賄った三井などの政商に小金牧の払い下げと手賀沼の開墾も許します。開墾会社が手賀沼は辞退すると、入札に付そうとするなどの動きもありました。この様な動きに地元民と印旛県は、手賀沼の入札をやっとの想いで中止させます。明治十六年には剣豪山岡鉄舟などが仏教の教田として開墾を申し出るなど、手賀沼は争奪のるつぼの様相を示します。しかし排水の困難さは変わらずいずれも成功していません。圦樋 で排水する状況下では限界があったと思われます。利根川との間の堤を堅固にし、機械排水する以外に手賀沼の干拓は無理なことが解ってきたのです。
大正期に手賀沼の一部を堤で囲い、機械排水する相島新田の井上二郎の指導による開墾は一定の成果を上げました。
第二次世界大戦後ふたたび、食糧難と復員者の「食と職」を賄うため、手賀沼の干拓が国の方針となります。印旛沼と共同で東京湾に排水する案が追求されますが、費用の点などで難航し、昭和二十八年やっと手賀沼単独で利根川に機械排水する事が決まります。こうして手賀沼の約半分五百五十ヘクタール余が干拓されたのは、昭和四〇年代に入ってからでした。手賀沼は往時の約半分になりました。折りしも減反政策で、沼周辺の谷津田が埋められ、沼の汚染が問題になり始めます。沼の洪水は克服されましたが、あらたな課題が生まれます。汚染度ワースト一を長く続けた手賀沼も、現在は北千葉導水道によって利根川の水が導水され、少しきれいになってきました。においはなくなり、2006年にはトライアスロンの会場になるなど、沼に人々が戻りはじめています。
北柏ふるさと公園
公園の住人、ハクチョウ
ススキ
公園は手賀沼の西端にあり、大堀川の河口です。この公園自体が干拓により作られた新田で、地図を見ると根戸新田、呼塚新田となっています。
ウォーキングイベントの参加者
この日は「手賀沼ふれあいウォーク2018」が行われていて、黄色いバンダナを目印に参加者がそれぞれのペースで歩いています。手賀沼一周20km、手賀沼大橋を渡る10km、その他4kmのコースが用意されていました。
大堀川
水戸街道の下をくぐる
木崎橋
ここからは大堀川沿いを上流へ向かってゆきます。目を凝らしてサケを探すのですが、サケなのかコイなのか見分けがつきません。冒頭で書いたように大堀川にサケが遡上するという情報は大学時代に友人からもたらされたものです。大堀川の近くに畑を持っていて、大学時代の仲間との「農業体験」を提供してくれる友人です。その畑近くを歩いているとき我々の姿を見つけて、電話をくれました。
高田小学校付近
鮭の遡上について柏市のページから2012年11月15日の記事を引用します。
毎年恒例となった「大堀川の鮭の遡上」。今年も鮭が遡上してきました。
11月14日(水曜日)の午後は、天気が良く、高田小学校付近を散歩していた多くの市民のかたたちが鮭の遡上に見入っていました。
例年、12月ごろまでは見ることができるそう。
水産法令で、市民のかたが鮭を捕獲することは禁止されていますので、温かく見守ってあげてください。また、住宅街の中にあるため、駐車場等はございませんのでご了承ください。
近くでよく見るとサケではなくコイでした。産卵後のサケの死骸なども見られないので、遡上はなかったのかもしれません。
さんち家
この日のゴールは農産物直売所かしわでです。ストレッチをして解散すると、ほとんどの会員さんがさんち家へ食事に行きました。
さんち家について柏市のページから引用します。
柏産の朝採り新鮮野菜が並び、ほぼ午前中でなくなってしまうほどのにぎわいをみせている農産物直売所「かしわで」。
平成16年6月の直売所オープンから12年、柏の農産物のおいしさをもっと多くの人に伝えたいと、今年6月11日に農家レストラン「さんち家(さんちや)」をオープンさせました。
店名には「産地」と「○○さんの家」の意味が込められています。
野菜を知り尽くした地元農家の主婦がシェフを務める「野菜だけ」のこだわりのレストランとなっていて、直売所直営とあって、それぞれの野菜のおいしさを最大限に引き出したメニューを提供。約50種類の料理がビュッフェ形式で楽しめます。
体も心も大満足!ぜひお試しください。
かしわで
稲わら?
かしわでのホームページから引用します。
柏染谷農場・染谷茂氏(TOP画面の田んぼでの写真)を中心とした15名の農家が集まってオープンしたのが「かしわで」です。
平成16年6月にオープンし、5年後の平成21年6月に来客数200万人を突破、平成27年6月で11年目になります。
柏市を中心に千葉県及び近隣の約230名の生産者による農産物がお店に並び、新鮮な野菜を提供しています。
柏の特産品、ねぎ・かぶ(生産量日本一)・ホウレンソウやチンゲン菜(柏で最初の栽培が確率された)をはじめとした各種野菜・果物・お米・花卉が豊富です。
代表の染谷茂、農事生産法人柏みらい農場は休耕地だった土地を開墾して108haもの農地にして、米・麦・じゃがいも・大豆等を作られています。
その農場で作られたお米(コシヒカリ・フサオトメ・フサコガネ)やその米を原料とした日本酒(柏自慢)なども販売されています。
柏みらい農場ではじゃがいも堀りの体験、お店の前にある「かしわで田んぼ」では小学生の植えた稲が穂を実らせています。
「かしわで」は単なる直売所ではなく、農業に関する情報の受発信基地として広く消費者に利用される施設を目指しています。
体験学習をはじめ、学校給食への食材の提供、行政等の農業に関するイベントへ積極的に参加し、さまざまな形による「地産地消」に取り組み、地域への貢献を図っています。
「お客様は直売所に元気をもらいにきているんだ。自然への感謝、お客様への感謝を忘れずに・・・」と染谷は提唱しています。
さんち家のお食事はおいしいですがアルコールの提供がありません。歩いた後のビールを楽しみにしている呑み助にはちょっと残念です。近くの和食レストランでビールを飲みながら、「こっちの方がいいや!」と負け惜しみのようなことを言っていました。さんち家で食事したこともないのに。
手賀沼、大堀川ウォーキングは天候にも恵まれとても楽しい体験でした。季節を変えて、再チャレンジがあるかもしれません。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール