文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

メラニー・ロランについて  ウィキペディアから。

2011年05月14日 23時15分42秒 | 日記
Mélanie Laurent

生年月日1983年2月21日(28歳)
出生地パリ
国籍 フランス


メラニー・ロラン(Mélanie Laurent、1983年2月21日 - )は、フランス・パリ出身の女優。俳優ピエール・ロランと元バレリーナである母親のもとに生まれる。アシュケナージ及びセファルディム系ユダヤ人の家系であり、祖父はナチスの迫害を受けた。ジェラール・ドパルデューに見出されて女優としてデビューし、 主演作『心配しないで』(フィリップ・リオレ監督)の演技で第32回(2006年度)セザール賞にて有望若手女優賞、第12回リュミエール賞にて新人女優賞などを受賞した。また、監督・脚本をこなした短編映画 De moins en moins は2008年の第61回カンヌ国際映画祭の短編コンペティション部門にて上映された。2009年には初来日した。

主な出演作
キスはご自由に Embrassez qui vous voudrez (2002)
日本では劇場未公開。第11回フランス映画祭横浜2003にて上映
スノーボーダー Snowboarder (2003)
日本では劇場未公開(DVDのみリリース)。
ライス・ラプソディー 海南雞飯 Rice Rhapsody (2004)
日本では劇場未公開。2004年の第17回東京国際映画祭コンペティション部門にて上映
THE LAST DAY Le dernier jour (2004)
日本では劇場未公開(DVDのみリリース)。
真夜中のピアニスト De battre mon coeur s'est arrêté (2005)
デイズ・オブ・グローリー Indigènes (2006)
日本では劇場未公開。2007年の第14回大阪ヨーロッパ映画祭にて上映
心配しないで je vais bien, ne t'en fais pas (2006)
日本では劇場未公開。フランス映画祭2007(第15回)にて上映。
DVD題『マイ・ファミリー 遠い絆』
殺し屋 Le tueur (2007)
日本では劇場未公開。第13回カイエ・デュ・シネマ週間にて上映
死者の部屋 La chambre des morts (2007)
日本では劇場未公開。フランス映画祭2008(第16回)にて上映。
DVD題『スマイルコレクター』
PARIS Paris (2008)
イングロリアス・バスターズ Inglourious Basterds (2009)
オーケストラ! Le Concert (2009)

河井 寛次郎 について ウィキペディアから。

2011年05月14日 23時13分26秒 | 日記
河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)

学校での研究
当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。松江中学(現島根県立松江北高等学校)を経て、1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。1914年東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場[1]に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚する。

華麗な作風からの転換

1921年、「創作陶磁展覧会」を東京と大阪の高島屋で開催した。このとき東京高島屋の宣伝部長であった川勝堅一と知り合い、生涯にわたり親交をもつ。高島屋での陶磁展では、中国・朝鮮の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表、新人にして名人と一躍注目を浴びた。しかしやがて世評に反し、自身の制作に悩むようになる。創作陶磁展覧会と同時期に柳宗悦の集めた李朝の陶磁展「朝鮮民族美術展」を展観し、無名の陶工の作り出す簡素で美しい作品に感銘を受ける。“自分の作品は衣装であり化粧であり、中身の体はどうしたのか、心がけはどうしたのか”と、自らの作品制作を中断する。1924年、イギリスから帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・スリップウェアを見せられ、濱田から柳を紹介されその民芸理論に深く共感し、日用の実用的な陶器制作を新たな目標とした。

民芸運動、日用の美へ

河井寛次郎記念館1926年、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになる。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。
室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して1937年に完成させた。この自宅兼仕事場が現在の河井寛次郎記念館になっている。同じ年、川勝堅一の計らいで「鉄辰砂草花図壷」がパリ万国博覧会でグランプリを受賞する。

より奔放な作風へ

第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次朗は木彫の制作も開始する。陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作。随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残している。またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはなかった。

1955年文化勲章を辞退する。人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。1957年には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壷」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するも、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没した。

ダントツ経営 坂根 正弘著 5月8日、日経新聞読書欄から。

2011年05月14日 23時07分04秒 | 日記
苦境打破したトップの実践書
 
成長力が評価される企業の経営は合理的だ。大手建設機械メーカーのコマツもそのひとつだろう。本書はトップとして2度の苦境を乗り切った著者による実践的経営論。
 
情報技術(IT)バブル崩壊後の不況でコマツは創業以来初の営業赤字に陥った。社長に就任したばかりの著者が掲げたのが、希望退職募集などの「大手術は一回限り」の原則たった。
 
小出しのリストラは、小さな手術を繰り返して患者の体力を奪うようなものだと考えたからだった。グループ企業についても、「なぜ子会社でなければならないのか」と自問。統廃合を断行した。
 
金融危機後、部品製造など協力企業の資金繰りが悪化した際は、部品や設備の買い取りまでして支援。協力企業が苦しくなればコマツも苦しくなると考える著者にとって、理にかなった判断だった。
 
著者は米合弁会社を経営したとき、日本は生産技術に強いが、仕事の仕方の標準化では米国が先を行くと思った。
 そうした経験からデータを重視。コマツ製建機の稼働状況を常に把握し、新規の需要予測に役立てるなど、経営の「見える化」を推進してきた様子が本書からよくわかる。製品面でもライバルが容易に追いつけない「ダントツ商品」の開発に取り組んだ。
 
大震災で打撃を受けた企業にも本書が示す経営原則は参考になりそうだ。