文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

中国「超高層」乱立 人口2千の農村328メートルビル…今朝の朝日13面から。

2011年05月20日 11時06分10秒 | 日記

文中黒字化と*私。
中国で超高層ビルが競い合うようにできている。日本で一番高い横浜ランドマークタワー(296メートル)より高いビルが、香港を除いても10棟以上完成。600メートル級も建設が進む。人口2千人の農村まで巻き込んだ「摩天楼ブーム」の背景はー。
 農村に、高さ328メートルの超高層ビル(地上72階建て)がそびえていた。
 上海から北西へ車で約2時間半の江蘇省華西村。人口約2千人、周囲に高層のオフィスビルは一つもない。そんな場所に、横浜ランドマークタワーより高いビルが出来上がる。
  「ビルは村成立50周年の象徴だ」。1957年から46年間、共産党村委員会書記を務めた村のドン、呉仁宝さん(82)は満面の笑みを浮かべた。10月の開業時には中国(香港除く)ではトップ10級で、世界でも有数の超高層ビルになる。
 建設費は約30億元(一元=約12・5円)。村によると、ビルの大半を村営ホテルとし、アジア最大級の回転展望台と商業施設を整備。さらに200戸の村民が1千万元ずつ出資し、一部を区分所有するという。
 実は華西村、ただの農村ではない。中国が人民公社で集団農業をしていた61年から、闇で工業化を進めた。ネジ製造を始めたら爆発的に売れ、「農業では500人で5千元の収入しか得られなかったが、工業は30人弱で15万元も稼いだ」 (呉さん)。
 いまは傘下の鉄鋼業や紡績業が好調で、2010年は35億元の利益を出した。村の事業を株式会社化し、深剔証券取引所にも上場。工場の従業員でもある村民は株式を持ち合う。村民に毎年配分される株式を、延べ床面積約500平方メートルの別荘風の住宅と交換し、豊かな暮らしを送る。
  天下第一村」と自称する華西村を昨年、地方政府の視察団や観光客250万人以上が訪れた。
 村はそんな視察団を相手に観光業を興す計画。展望台の入場料は500元を予定する。「上海環球金融中心」 (101階建て、492メートル)の「世界で最も高い場所にある」展望台料金の3倍以上。ホテルも1泊1千元と相場より相当高い。
 それでも、「視察団の大半は政府関係者だから問題ない」(村関係者)。米国とフランスからヘリコプターを計2機購入し、1人約1千元で遊覧飛行を楽しめるようにするという。
 もし視察団が予想通り訪れなかったらー。呉さんはあっさり言った。「その時は村民に年3万元、ホテルで消費してもらえばいい。そのために年3万元のボーナスを支給する
 *中国は伊達に白髪三千丈の国ではないな(笑)世界一の個人資産に稼がせる事をせず、20年超、消費税増税の大合唱をやり続け、日本を大停滞させた、低能にして悪党な、おためごかし連中とは大違いだ。日本は、こういう大合唱をやり続けて来た連中だけが裕福と名声を得て来た訳だが、中国には、このような村がある訳である。
2014年の完成に向けて建設中の上海中心(手前)。日本の森ビルが建てた上海環球金融中心(右)よりIOOメートル以上も高く、上海の金融街の景色も変わる=19日、上海、いずれも奥寺写す

オフィス需要のない人口2千人の華西村に出現した高さ328メートルの「新農村ビル」。見渡す限り周囲に高層ビルはなく、遠くからでも目立つ=江蘇省華西村


「村八分」にされ助手のまま 安斎 育郎さん…今朝の朝日15面、耕論 原子力村から。

2011年05月20日 08時41分47秒 | 日記

以前に、私が書いた事…東大は猿山の社会だが、桑原武夫が所長をしていた頃の京大人文科学研究所は、その反対の横のつながり社会だった。そういうことも含めて、官学の東大、野学の京大、権威主義の東大…現首相に内閣を組成させた男なぞは、この弊害の典型というか、塊の見本だろう…自由と反戦の錦の御旗を掲げていた京大(今は殆ど死語かもしれないが)という意味だったのだ。
文中黒字化は私。
安斎 育郎さん 立命館大名誉教授
 40年生まれ。専門は放射線防護学、平和学。東京大助手を経て、86年立命館大教授。 08年から国際平和ミュージアム名誉館長を務める。
私は1960年にできた東京大工学部原子力工学科の第1期生、15人の1人でした国が原子力産業に必要な専門家を育成するため、各分野の研究者を寄せ集めてつくった学科で、「原子力村の村民養成機関」というわけです。当然、同期生のほとんどは原子力業界に進みましたが、私は学生のころから「原子力の安全が秘結したらどうなるか」ということに関心があり、1人だけ原子力政策を批判する立場になりました。 
国が原子力推進のためにつくった学科から「反原発」の人材が出るなど、あってはいけないことです。私は東大で研究者だった17年間、ずっと助手のままでした。主任教授が研究室のメンバー全員に「安斎とは口をきくな」と厳命し、私は後進の教育からも外されました。研究費も回してくれないので、紙と鉛筆だけでできる研究に絞らざるを得ませんでした。東京電力から一時研修に来ていた人は、去り際に「安斎さんが原発で何をやろうとしているか、偵察する係でした」と告白しました。 
私は「村八分」にあったからこそ、原子力村の存在を強く実感できたわけです。「私に自由に発言させないこの国の原子力が、安全であるはずはない」と、直観的に分かりました。
そもそも、原子力産業は国家の意思なしにはスタートできません。原発は事故が起こった時の被害総額があまりに大きく、大量の使用済み燃料処理にかかる最終的なコストもはっきりしない。一般の企業がこんなリスクを背負うことは到底できず、産業化には「原発をつくる。一定限度以上のリスクは国が肩代わりする」という国策が前提となります。  
「国がやる」ということから始まっているから、「やるのがいいのか、悪いのか」という話には、そもそもならない。「反原発」は即、反国家的行為とされます。原子力業界が批判を受けつけない「村社会」になるのは必然だったと思います。
 しかも、「村民」は業界や国だけにとどまらず、原発の建設候補地でもカネを使って、地元の政治家や住民を原発推進派に仕立てていきました。
 私たち原発を批判する研究者は「せめて事故のリスクを分散させるために、原発の集中立地はやめよ。原子炉の出力にも制限を設けよ」と言い続けたのですが、黙殺されました。村の閉鎖性が福島第一原発の事故を悪化させた一因だったことは否めません。 
一方で事故後には、これまで原子力利用の推進派だった専門家16人が、事態の深刻さを率直に認め、政府に提言しました。村全体からみればわずかな人数とはいえ、それだけ今回の事故が「村民」にも深刻な影響を与えた、ということでしょう。     
(聞き手・太田啓之)