文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

川端康成の美意識①ー古賀春江との出会い…昨日の、朝日、日経、両紙の記事中、絶品。

2011年05月16日 10時03分01秒 | 日記

5月15日、日経新聞16面 美の美から。     文中黒字化と*は私。
有数の美術コレクターである川端康成は「死の意識」が強かった。古賀春江の芸術に自分と似た嘆き、温かでさびしい「仏法のおさな歌」を感じとった。
 「古賀春江(1895~1933年)の評価を決定づけたのは、川端康成1899~1972年)の筆の力ですね」 古賀の故郷の福岡県久留米市にある石橋財団石橋美術館。学芸課長の森山秀子さんに、日本のシュールレアリスム絵画の先駆者、古賀が38歳の若さで急逝したあと、どう評価されてきたかを聞くと、すぐに答えが返ってきた。
 森山さんは昨年、石橋美術館や神奈川県立近代美術館で開催された「古賀春江の全貌」展の準備のために、これまで展開されてきた古賀に触れた文章を調べてみた。
 すると川端の文章が古賀の芸術の本質を的確にとらえ、秀逸だったという。
 「心にしみる美しい文章で絵を称えているだけではない。前衛画家、詩人としての古賀像を明確に打ち出し、古賀が新しい文学や思想に敏感であったことを強調しています」
 川端には、古賀の死の直後に書かれた「末期の眼」、一周忌を記念した古賀の詩画集に寄せた「死の前後」、ノーベル文学賞記念講演「美しい日本の私」など、古賀に触れた随筆がいくつもある。
  「死の前後」では、川端が古賀好江夫人と一緒になって、治療を拒否する古賀を説得して帝大病院に入院をすすめ、入院中はもとより、死後の葬式の世話まで焼いたことを回想し、病院での古賀の姿をこうつづる。
  「故人は入院後も数十枚、多い日は一日に十枚も、水彩色紙を描いた。(中略)同時に判読にも苦しむ文字で、言葉の支離脱落の甚だしい詩を書き続けた。その柩には彩管と其の愛読の文学書の若干が納められた。故人をしてもし西欧にあらしめば、詩人、小説家などとも相携えて、前衛芸術運動の旗手であったろう」
 川端の随筆で最も有名な「末期の眼」は、伊香保温泉で出会った竹久夢二の思い出に始まり、芥川龍之介、正岡子規、梶井基次郎、古賀といった早世した芸術家たちについて書いている。「けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」と書いた芥川の遺書に触れ、「あらゆる芸術の極意は、この『末期の眼』であろう」と述べている
  「古賀氏も自殺を思うこと、年久しいものがあったらしい。死にまさる芸術はないとか、死ぬることは生きることだとかは、口癖のようだったそうだが、これは西洋風な死の讃美ではなくて、寺院に生れ、宗教学校出身の彼に、深くしみこんでいる仏教思想の現れだと、私は解くのである」(「末期の眼」)  
「私と同じように心身共に弱かった古賀氏は、私とちがって大作力作をなしつつも、やはり私に似た嘆きが、胸をかすめることはなかったであろうか」(「同」)
 嘆きとは何か。川端は古賀の絵に流れる「東方の古風な詩情」や「虚無を超えた肯定」を感じとった。そしてこうつづる。「古賀氏は西欧近代の文化の精神をも、大いに制作に取り入れようとはしたものの、仏法のおさな歌はいつも心の底を流れていたのである。(中略)その古いおさな歌は、私の心にも通う」 (「同」)
 川端は死と隣り合わせる芸術の恐ろしさ、死に立って生を見る芸術家の宿命を語っているように思える。後に川端自身が逗子マリーナで遺書も残さず、ガス自殺してしまったことを思うと、川端の「死の意識」がいかに強かったかを想像できるだろう。
 川端は1歳で父を、2歳で母を、10歳で姉を、14歳で祖父を亡くし、孤児として育った。周囲から「葬式の名人」と呼ばれたほど、数多くの死を見つめて葬式に参列してきた。川端文学の根底には、自分が幸福な家庭に育った人と比べて心がゆがみ、ひねくれているという「孤児の感情」がある。
 名作「伊豆の踊子」も、色々な苦しみから逃れて旅に出た主人公が、旅芸人の一行と出会い、純粋な心の交流によって「孤児の感情」から脱していく物語といえる。
 川端は「文学的自叙伝」に書いた。
 「私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じている。私は経典を宗教的教訓としてではなく、文学的幻想として尊んでいる
…後略。
文・浦田憲治
*私は、川端康成には、殆ど触れて来ませんでしたが、何と言う懐かしさ、と言う思いが在った。
それらの事については、後日、メルマガ、「21世紀の戦争と平和」、にて書きます。
 


再読の御案内。

2011年05月16日 09時50分39秒 | 日記

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=ccb5fe382e83302fde929391bb1199e5、の章で、この本の解説文に対する、黒字化を変更しました。どうぞ、再読して下さい。
理由は言うまでもなく、私が、これらの問題や、現内閣や孫正義さんの様な方々に言いたい事の全ても、そこには在る。


リンカン(上・下)ドリス・カーンズ・グッドウィン著 5/15日経新聞読書欄から。

2011年05月16日 00時36分20秒 | 日記

(平岡緑訳、中央公論新社・各3800円)   文中黒字化と*は私。
著者はニューヨーク生まれ。ハーバード大で学びリンドンージョンソン大統領補佐官、ハーバード大教授など歴任。米大統領の評伝をいくつか手がけている。
膨大な資料から政治的天分明かす
本書はオバマ大統領が愛読し、スピルバーグ監督が映画化を即決した話題の1冊である。
 著者はかつてルーズヴェルト大統領夫妻の評伝でピューリツァー賞を受賞した女性歴史学者。その彼女が10年もの歳月をかけて書き上げた渾身の作だ・
 あまたあるリンカンの評伝とは異なり、本書は共和党の大統領候補に指名された1860年から暗殺されるまでの5年間に焦点を絞り、同僚や家族の膨大な日記や往復書簡に新たな光をあてながら、リンカンの政治的天分を見事に浮かび上がらせている。
 大統領に当選後、リンカンは選挙時の政敵だった4人をそっくり主要閣僚に抜擢する奇手を用いて、南北戦争という未曾有の国難を切り抜けた。国政にとって有能とあれば、リンカンの失脚を謀略した財務長官でさえ、のちに最高裁判所長官に任命したほどである。リンカンの無比の情緒的な力と政治的な天分は彼らを魅了し、最後には入間として完璧に近い存在」とまで言わしめた。
 
ライバルからなるチーム(Team of Rivals)」と著者が称したその組閣手法がオバマ大統領によって再現され、クリントン国務長官やバイデン副大統領が登用されたことは記憶に新しい。
 著者によれば、そのリンカンを支えたのは、幼少時代から相次いだ苦境や不遇、絶望の淵から紡ぎ出した野心、すなわち「私は、同胞の者たちの尊敬に足る自分となって、心底からの評価を彼らに求めたい」という実存をかけた大志だったという。世俗的な権力や名声ではなく、自分自身を超えた善の実現こそが、真の生きた証しになるという達観が彼の政治人生を導いたというわけだ
 そうした超然的な生き方ゆえの苦悩や葛藤、矛盾も本書の読みどころだ。訳も解説も素晴らしい。
 9・11の後、米国ではリンカンのゲティスバーグ演説がいたるところで朗読され、国民の心の拠り所となった。わずか272語、3分の短い演説である。
 3・11の後、私たちはそうした言葉を持っているだろうか。
《評》慶応大学教授 渡辺 靖
*これもまた、先般、ご紹介した朝日新聞の書評と競演の形となった。