母が不治の病に侵されています。
膠原病という病気の、強皮症、という症状で、9年前に発症しました。
強皮症というのは、一言で言うと全身の皮膚などが硬くなる病気です。
手の指の皮が硬くなって、握ったまま開かなくなったり、間接部分に炎症を起こしたり、指の第1間接から先が短くなったりと、さまざまな症状が現れています。指が痛くなる症状は、冬、寒くなるとひどくなります。
他にも、口が大きく開かなかったり、唾液の出る量が極端に少なかったり、身体中に痛みが走ったり、症状を数え上げればきりがありません。
さらに不幸なことに、今年に入ってから、母は精神的な病気も患うようになりました。
原因はかかっているお医者の不注意な発言でした。「○○という病気の疑いがある」という情報を主治医は母に中途半端に教え、家に帰したのです。
家に帰ってから母はその病気のことを調べました。するとそれは、とても恐ろしい、治らない、死に直接つながる病だったのです。
そのショックがきっかけで、母は精神のバランスを崩しました。
毎晩不安な気持ちにさいなまれて泣き続けました。それは止まる事がないような涙・不安・嘆きでした。
今年の1月4日、母方の祖母が亡くなりました。それはあまりに前触れのない、突然なものでした。
前の日まで外出し、テレビを観て、ご飯を食べていた。入院するという予定はありましたが、それは一時的なもの。すぐに治って退院してくると誰もが考えていました。
そんな折の、入院するその当日の朝に起きた悲劇でした。家を出た直後、祖母は倒れたのです。そのまま救急車で運ばれ、祖母はその救急車の中で息を引き取りました。
病院側の診断は、心不全、というものでした。
しかしそんな病名では納得できないもどかしさ、もうちょっと何とかならなかったのかという遣り切れなさが僕たちを包み込んでいました。
そんな簡単に人間は死んでしまうんだ、死は自分たちに近いものなのだ、という思いが祖母の死をに臨んだ母の中には残ったようです。
そんな不安定な精神状態の中での、主治医の前述した告知でした。
祖母の死は、母に悪い結果をもたらしました。
告知から幾らか経った後の診察で、前の告知はそれ程心配のないものであると、母は主治医から伝えられました。
しかしそれはあとの祭り。一度狂ってしまった精神状態は簡単には元に戻りません。
それは、精神的な疾患を経験している僕には痛いほどよく分かる事実です。
現在ではだいぶ精神的な症状は一時ほどではなくなり、一見落ち着いているように見えます。
しかしまた昨日、母は涙を流しました。
その意味は分かりません。治らない自分の病気への嘆きなのか。それともまた精神のバランスが崩れ、不安な思いに襲われてしまったのか。
その間中、僕は母の肩を揉んだり、声を掛けたりして母を元気付けようと努力しました。それは母にとって効果のあるものなのか分かりません。
しかし誰かが傍にいてくれることは、母を少しでも勇気付けるだろうという思いから、僕は母の傍に居続けました。落ち着いて、風呂に入るまで。
ひとつ僕には不満なことがあります。このときの父の行動です。
父はこの時、隣の部屋でドアを開けたまま、パソコンでテレビを観ながら笑ったりテレビに突っ込みを入れていたりしました。その事自体はいいんですが、父は、母が落ち込んでいるのに気付いていなかったんでしょうか。
テレビを観るのに夢中になって、気付きもしなかったんでしょうか。
僕は父に対して、多少、いや大きな怒りを感じています。
僕が母に対しておこなった行為は、本当は父がやるべきなのです。僕ではミスキャストなのです。
夫は妻を常に気遣い、守ってやるものなのではないでしょうか?
その点において、僕は父に大きな不満を持っています。
もちろん昨日のようなことばかりではないのです。昨日の僕の役割を、父が担っていることももちろんあるのです。父は父なりに、病気の母を気遣っているようなのです。
でも僕は不満です。最近のテレビCMに、「僕の趣味は、妻だ」みたいなコピーの宣伝がありました。そこまではいかないまでも(もう熟年というより老夫婦といってもいいような年代ですから)、母をもっと、いつも、大切に扱って欲しい。理想の夫婦像を僕に見せてほしいと思うのです。
父には昔から面倒なことには極力関わらない、というような悪習があります。でもそんな癖を、夫婦の間の愛情表現に於いてまで当てはめては絶対にならないと僕は思います。
本当はこんな話を父ときちんと話し合いたいとも思う。けれどもその話を聞いたときの父の顔を想像すると、…ふんぎれないのです。二の足を踏んでしまう。踏み込めない。
僕にも責められる要素はあります。
どうやってこれからやっていけばいいのか、僕にはまだ見えてきません。まだ祖母が亡くなってからもそれほど経っていませんから。新しい形は見えません。
9月初めに、金沢・能登方面に家族旅行をしようという計画が持ち上がっています。
その時にでも、新しい形がおぼろげにでも見えるような、建設的なコミュニケーションがとれたらいい、そう思います。
頑張ります。
では。
膠原病という病気の、強皮症、という症状で、9年前に発症しました。
強皮症というのは、一言で言うと全身の皮膚などが硬くなる病気です。
手の指の皮が硬くなって、握ったまま開かなくなったり、間接部分に炎症を起こしたり、指の第1間接から先が短くなったりと、さまざまな症状が現れています。指が痛くなる症状は、冬、寒くなるとひどくなります。
他にも、口が大きく開かなかったり、唾液の出る量が極端に少なかったり、身体中に痛みが走ったり、症状を数え上げればきりがありません。
さらに不幸なことに、今年に入ってから、母は精神的な病気も患うようになりました。
原因はかかっているお医者の不注意な発言でした。「○○という病気の疑いがある」という情報を主治医は母に中途半端に教え、家に帰したのです。
家に帰ってから母はその病気のことを調べました。するとそれは、とても恐ろしい、治らない、死に直接つながる病だったのです。
そのショックがきっかけで、母は精神のバランスを崩しました。
毎晩不安な気持ちにさいなまれて泣き続けました。それは止まる事がないような涙・不安・嘆きでした。
今年の1月4日、母方の祖母が亡くなりました。それはあまりに前触れのない、突然なものでした。
前の日まで外出し、テレビを観て、ご飯を食べていた。入院するという予定はありましたが、それは一時的なもの。すぐに治って退院してくると誰もが考えていました。
そんな折の、入院するその当日の朝に起きた悲劇でした。家を出た直後、祖母は倒れたのです。そのまま救急車で運ばれ、祖母はその救急車の中で息を引き取りました。
病院側の診断は、心不全、というものでした。
しかしそんな病名では納得できないもどかしさ、もうちょっと何とかならなかったのかという遣り切れなさが僕たちを包み込んでいました。
そんな簡単に人間は死んでしまうんだ、死は自分たちに近いものなのだ、という思いが祖母の死をに臨んだ母の中には残ったようです。
そんな不安定な精神状態の中での、主治医の前述した告知でした。
祖母の死は、母に悪い結果をもたらしました。
告知から幾らか経った後の診察で、前の告知はそれ程心配のないものであると、母は主治医から伝えられました。
しかしそれはあとの祭り。一度狂ってしまった精神状態は簡単には元に戻りません。
それは、精神的な疾患を経験している僕には痛いほどよく分かる事実です。
現在ではだいぶ精神的な症状は一時ほどではなくなり、一見落ち着いているように見えます。
しかしまた昨日、母は涙を流しました。
その意味は分かりません。治らない自分の病気への嘆きなのか。それともまた精神のバランスが崩れ、不安な思いに襲われてしまったのか。
その間中、僕は母の肩を揉んだり、声を掛けたりして母を元気付けようと努力しました。それは母にとって効果のあるものなのか分かりません。
しかし誰かが傍にいてくれることは、母を少しでも勇気付けるだろうという思いから、僕は母の傍に居続けました。落ち着いて、風呂に入るまで。
ひとつ僕には不満なことがあります。このときの父の行動です。
父はこの時、隣の部屋でドアを開けたまま、パソコンでテレビを観ながら笑ったりテレビに突っ込みを入れていたりしました。その事自体はいいんですが、父は、母が落ち込んでいるのに気付いていなかったんでしょうか。
テレビを観るのに夢中になって、気付きもしなかったんでしょうか。
僕は父に対して、多少、いや大きな怒りを感じています。
僕が母に対しておこなった行為は、本当は父がやるべきなのです。僕ではミスキャストなのです。
夫は妻を常に気遣い、守ってやるものなのではないでしょうか?
その点において、僕は父に大きな不満を持っています。
もちろん昨日のようなことばかりではないのです。昨日の僕の役割を、父が担っていることももちろんあるのです。父は父なりに、病気の母を気遣っているようなのです。
でも僕は不満です。最近のテレビCMに、「僕の趣味は、妻だ」みたいなコピーの宣伝がありました。そこまではいかないまでも(もう熟年というより老夫婦といってもいいような年代ですから)、母をもっと、いつも、大切に扱って欲しい。理想の夫婦像を僕に見せてほしいと思うのです。
父には昔から面倒なことには極力関わらない、というような悪習があります。でもそんな癖を、夫婦の間の愛情表現に於いてまで当てはめては絶対にならないと僕は思います。
本当はこんな話を父ときちんと話し合いたいとも思う。けれどもその話を聞いたときの父の顔を想像すると、…ふんぎれないのです。二の足を踏んでしまう。踏み込めない。
僕にも責められる要素はあります。
どうやってこれからやっていけばいいのか、僕にはまだ見えてきません。まだ祖母が亡くなってからもそれほど経っていませんから。新しい形は見えません。
9月初めに、金沢・能登方面に家族旅行をしようという計画が持ち上がっています。
その時にでも、新しい形がおぼろげにでも見えるような、建設的なコミュニケーションがとれたらいい、そう思います。
頑張ります。
では。