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荒東風や喉元にある別の声 石原みどり
春の強風である、北風ほどではないが厳しい寒さを感じさせる
気分は春なのでなんとも憎い風である
発する声もすぐさまに吹き飛んで会話にならない
ついつい大声になったりで自分の声かと疑うほどだ
はてな、実はこれこそ自分の本当の声だったのかなとも思う
(小林たけし)
季語は「(荒)東風(こち)」で春。冬の季節風である北風や西風が止むと、吹いてくる風だ。春の風ではあるが、まだ暖かい風とは言えず、寒さの抜けきれぬ感じが強い。菅原道真の歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな(「春な忘れそ」とも)」は有名だ。その東風の強いものを「荒東風」と呼ぶ。掲句は、そんな強風を「声」の様子で描いたところがユニークだ。あまりに風が強いために、自分の声が自分のそれではないように聞こえている。「喉元」では、たしかに自分の声として発しているのだけれど、出てくる声は似ても似つかない感じなのだ。したがって「喉元に別の声」というわけで、なんだか滑稽でもあり、情けなくもあり……。こういう体験がないので実感できないのは残念だが、要するに声の根っ子が安定していないので、「ふはふは」言ってる感じになるのだろうか。話は少しずれるけれど、声とはまことに微妙な産物で,こうした尋常ならざる条件下ではなくても、常に発声は不安定だと言っても過言ではないだろう。放送スタジオで、長年ヘッドホンをかぶって自分の声を聞いてきた体験からすると、毎日同じ声を出すなんてことはとてもできない相談である。毎日どころか、ちょっとした条件の違いで、そのたびに「喉元に別の声」があるような気にさせられてしまう。ましてや掲句のような大風ともなれば、如何ともし難い理屈だ。それにしても、面白いところに目をつけた句だと感心した。『炎環 新季語選』(2003)所載。(清水哲男)
【東風】 こち
◇「こち風」 ◇「正東風」(まごち) ◇「強東風」(つよごち) ◇「朝東風」(あさごち) ◇「夕東風」(ゆうごち) ◇「雲雀東風」(ひばりごち) ◇「鰆東風」(さわらごち) ◇「梅東風」 ◇「桜東風」
(「ち」は風の意、「こ」は不明) 春になって東または北東から吹く春の柔らかい風。春風の駘蕩たる感じと違って、まだやや寒い風という感じである。
例句 作者
東風さむく海女が去りゆく息の笛 橋本多佳子
東風吹くや皮はぎ皮をはがれけり 鈴木真砂女
夕東風にしたがふごとし発つ汽車も 宮津昭彦
東風吹くや耳あらはるゝうなゐ髪 杉田久女
われもまた人にすなほに東風の風 中村汀女
夕東風のともしゆく燈のひとつづつ 木下夕爾
夕東風に切り口白し竹の束 永井東門居
石一つ置き替へ庭に東風を呼ぶ 桐山秀峰
強東風や家壊さねば家建たず 松尾隆信
夜をこめて東風波ひゞく枕かな 飯田蛇笏
東風さむく海女が去りゆく息の笛 橋本多佳子
東風吹くや皮はぎ皮をはがれけり 鈴木真砂女
夕東風にしたがふごとし発つ汽車も 宮津昭彦
東風吹くや耳あらはるゝうなゐ髪 杉田久女
われもまた人にすなほに東風の風 中村汀女
夕東風のともしゆく燈のひとつづつ 木下夕爾
夕東風に切り口白し竹の束 永井東門居
石一つ置き替へ庭に東風を呼ぶ 桐山秀峰
強東風や家壊さねば家建たず 松尾隆信
夜をこめて東風波ひゞく枕かな 飯田蛇笏