蝌蚪生れて月のさざなみ広げたる 峯尾文世
池か小川の堰のあたりか
月光に光る水面がゆれている
覗き込むと
おたまじゃyくしが
卵から孵って泳ぎだしたところだった
作者の感動は月光にふさわしい
(小林たけし)
季語は「蝌蚪(かと)」で春。蝌も蚪も杓のかたちをした生き物で、蛙の幼生の「オタマジャクシ」のことを言う。さて、いきなり余談になるが、井の頭自然文化園の分園の水生物館で、その名も「水辺の幼稚園」という展示がはじまった。オタマジャクシやメダカ、とんぼの幼虫・ヤゴなどを見ることができる。「水辺の幼稚園」とは楽しいネーミングだけれど、ああ、こうした生き物も、ついに入場料を払って見る時代になったのかと、ちょっと悲しい気分だ。それも、動物園の象や犀などと同じように、本来の環境とは切り離された姿でしか見ることはできないのである。利点は一点、自然環境のなかにいるときよりも格段によく見えることだ。そういうふうに作られた施設だから、それはそれとしても、格段によく見えることで、かえって見えなくなってしまう部分もまた、格段に大きいだろう。たとえば、掲句のような見事に美しい光景は、この種の施設で見ることはできない。春満月の夜、月を写した水面にかすかな「さざなみ」が立っている。これはきっと、いま次から次へと生れている「蝌蚪」たちが立てているのであり、水輪を少しずつ「広げ」ているのだと、作者は想像したのだった。あくまでも想像であり、現実に「蝌蚪」が見えているわけではないけれど、しかしこの想像の目は、やはりちゃんと見ていることになるのだ。「やはり野におけレンゲソウ」。こんなことわざまで思い出してしまった。『微香性(HONOKA)』(2002)所収。(清水哲男)
【蝌蚪】 かと(クワト)
◇「おたまじゃくし」 ◇「蛙の子」 ◇「蝌蚪の国」 ◇「蝌蚪の紐」
カエルの幼生。お玉杓子。卵から孵化して間のないもので、鰓を持ち、水中で生活する。体は卵形。まだ四肢がなく、尾だけで泳ぐ。蛙の子。
例句 作者
ひろしまや蝌蚪には深き地の窪み 野田 誠
蝌蚪ほどの誤植と笑ひとばしけり 能村登四郎
蝌蚪の国ありて牡丹の別の国 森 澄雄
天日のうつりて暗し蝌蚪の水 高浜虚子
川底に蝌蚪の大国ありにけり 村上鬼城
蝌蚪の水とろりと月を映しけり 加古宗也
蝌蚪の紐ゆれて日輪水にあり 五十嵐播水
耳済ましゐる少年と壜の蝌蚪 永方裕子
放埒のおたまじやくしでありにけり 増成栗人
蝌蚪の紐連山雲を放ちけり 川崎陽子
ひろしまや蝌蚪には深き地の窪み 野田 誠
蝌蚪ほどの誤植と笑ひとばしけり 能村登四郎
蝌蚪の国ありて牡丹の別の国 森 澄雄
天日のうつりて暗し蝌蚪の水 高浜虚子
川底に蝌蚪の大国ありにけり 村上鬼城
蝌蚪の水とろりと月を映しけり 加古宗也
蝌蚪の紐ゆれて日輪水にあり 五十嵐播水
耳済ましゐる少年と壜の蝌蚪 永方裕子
放埒のおたまじやくしでありにけり 増成栗人
蝌蚪の紐連山雲を放ちけり 川崎陽子